阿賀の記憶、阿賀からの語り / 関 礼子(新泉社)当事者の思いの深さを包み込む豊かな語り|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年3月3日

当事者の思いの深さを包み込む豊かな語り

阿賀の記憶、阿賀からの語り
編 集:関礼子ゼミナール編
出版社:新泉社
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新潟県立環境と人間のふれあい館―新潟水俣病資料館という施設がある。そこでは新潟水俣病の経験を語って伝える「語り部」がおられ、公害学習や人権研修の一環として「ふれあい館」を小中学生が訪れ、彼らの“口演”を聞くという。しかし事前にしっかりと公害問題などを学習し、自分なりの理解や姿勢を持っていないと「語り部」の語りは子どもたちの心には届いてこないだろう。実際、事前学習をしていないと「子どもたちはどこかうわの空で、質問もない」という。これでは「語りがい」は一気に減ってしまうだろう。とはいえ、どのように事前学習をしたらいいのだろうか。本書は八名の語り部の語りをまとめ直すことで、事前学習の参考となるよう、また一般的に「阿賀の記憶、阿賀からの語り」を広く読めるよう意図された作品だ。社会学の学部調査実習の優れた成果であり、本書には研究者教育者としての編者の優れたセンスが満ち、まとめられた八名の語りをじっくりと味わうことができる。

「人から受けた恩は石に刻んでおけ、人に尽くしたことは水に流せ」「次世代に語り継ぐことが使命である」「すべての被害者が救われるまで」「自分と同じように『わからない』人のために」「一〇〇人いれば一〇〇通り、一〇〇〇人いれば一〇〇〇通り」「渡船場で差別を聞いてきた」「『正しく』理解して行動する子どもに」「しびれが出た頃からの爪はとってある」。それぞれの語りを象徴する言葉が各章のタイトルになっているが、やはり二つの語りが印象に残る。一つは、新潟水俣病当事者に対する周囲の無理解であり、強烈な偏見をめぐるものだ。

「実は、新潟水俣病の正式発表を過ぎると、私の四畳半ほどの渡船場の待合室で、水俣病の話がされるようになっていました。……あの渡船小屋で聞いた水俣病の話は、まず、八割か九割が差別・偏見でした。……水俣病のことを勉強してないのに、患者本人を見ても水俣病とわからないのに、いい加減なことを言うと差別・偏見になる。言ってる本人も、わからないと思うんですよ。わかるのは水俣病患者本人だけなんだよな。だから『対話しないとわからない』、『聞いたり聞かせたりして、それを信用するかしないかではっきりすることなんだよな』って、子どもたちに言うんです。『見てわからないものに知ったかぶりするようなことを言うと、差別・偏見になっているよ』と。」渡船場で働いてきた男性は、自分の目の前でさんざんに語られてきた水俣病当事者への差別・偏見の語りやその体験を淡々と語っている。周囲の圧倒的な差別や偏見そして無理解が充満する日常で、当事者は自分が水俣病であることや公害被害者としての痛みや苦しみを口にだすことができない。出せば自分だけでなく、親やきょうだい、子どもや親せきにまで差別や偏見がおよぶからだ。彼らの多くは、子育てを終え、仕事を終え、自らの人生をどう生き抜いていくのかを考え、当事者であることを公言し、公害訴訟に向かっていく。自らに何の責任もないところで公害病当事者になり、身体が苦しめられるだけでなく、病気への偏見、さらには損害賠償や補償金に対する不条理な誹謗中傷に苦しめられる。淡々とした彼らの語りの底から静かに湧きあがってくる怒りや呆れを感じるのだ。人はなぜこんなにも愚かでくだらない存在なのだろうかと。しかし、語り部たちはその愚かさやくだらなさを切り捨てない。新潟水俣病を知らない私たちも、きちんと勉強し自分たちと対話すれば、自分たちが受けた苦しみも分かるし、差別や偏見を抱いてしまう愚かさやくだらなさからも確実に脱することができるのだと。今一つの語り、阿賀野川という自然の恵みを子どもの頃からずっと享受してきたという彼らの豊かな語りが当事者の思いの深さを包み込む。必読の書だ。

この記事の中でご紹介した本
阿賀の記憶、阿賀からの語り/新泉社
阿賀の記憶、阿賀からの語り
著 者:関 礼子
編 集:関礼子ゼミナール編
出版社:新泉社
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年3月3日 新聞掲載(第3179号)
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