小谷野敦・小澤英実対談 芥川賞について話をしよう第11弾 芥川賞をとる秘訣 第156回芥川賞と『芥川賞の偏差値』をめぐって|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 特集
2017年3月10日

小谷野敦・小澤英実対談
芥川賞について話をしよう第11弾
芥川賞をとる秘訣
第156回芥川賞と『芥川賞の偏差値』をめぐって

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第156回芥川賞は、山下澄人『しんせかい』に決定した。その他の候補作は以下の四作。古川真人『縫わんばならん』、岸政彦『ビニール傘』、加藤秀行『キャピタル』、宮内悠介『カブールの園』。小谷野敦氏と小澤英実氏による恒例の「芥川賞について話をしよう」第11弾をお送りする。今回は、先ごろ刊行された、小谷野氏の『芥川賞の偏差値』についても討論してもらった。また、同書において偏差値72を獲得した村田沙耶香氏から小谷野氏に応答を寄せてもらった。 (編集部)

「なんだこの候補作は!」

小澤
今回は候補作のレベルが低かったという意見をよく耳にしましたが、私も同意見です。五作の候補作を読むのに異様に時間がかかって、どうしてだろうと思っていたんですが、途中で「つまらないからだ」と気付いたんです(笑)。選評では、村上龍氏が「エキサイティングな選考会など、5年に1度あればいいほうなのだが、今回はまったく刺激がなかった」「『しんせかい』を推す選考委員も「強力にプッシュする」という感じでもなく、反対する選考委員も「絶対に認めない」というニュアンスではなかった気がする」と言っています。宮本輝氏も「ドングリの背比べ」と言っていましたが、強く推せる作品はなかったですね。
小谷野
今回は山下シフトで、山下にとらせるために、駄目な候補作をあえて選んだ。石原千秋も言っていたけれど、他にもっと面白い作品があった。たとえば私ならば、乗代雄介の『本物の読書家』が面白かったし、岸川真の『坂に馬』も、変な小説ではあるけれど、議論のしがいがあるものだった。高尾長良の『みずち』だって、候補にあがっていてもおかしくない。そういう作品を全部とっぱらって、つまらないものを揃えた感じがある。石原慎太郎がいたら、「なんだこの候補作は!」と怒っていたでしょうね。村上龍も昔は怒る人だったけれど、石原さんがいなくなってから、もう怒る気力もなくなってしまったのか。とにかく、芥川賞は地味でなくてはいけない、面白いものではいけないという伝統があるので、その路線に戻すために候補作を選んだ。前回の『コンビニ人間』が面白過ぎたので、芥川賞の伝統を守るために、つまらない候補作を選んだということです。『芥川賞の偏差値』にも書きましたが、伝統というのはおそろしい。
小澤
そこまで仕組まれているかはわからないですが、たしかに私も、新潮新人賞を受賞して候補作になった古川真人の『縫わんばならん』は、同時受賞した鴻池留衣の『二人組み』のほうが面白いと思いましたし、候補作の選定には疑問が残りました。しかし今回は、今の日本の現代文学のトレンドがわかるようないろんなタイプの作品が揃ったんじゃないでしょうか。受賞作と岸政彦『ビニール傘』は、人称操作や視点の移動といった文体実験が特徴。
キャピタル(加藤 秀行)文芸春秋
キャピタル
加藤 秀行
文芸春秋
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加藤秀行『キャピタル』と古川真人『縫わんばならん』は、オーソドックスな手法の、いわばクラシックなスタイル。宮内悠介『カブールの園』は近未来とテクノロジーをミックスしたSF的な趣があります。カラーの違う五作が揃った中で、消去法的に『しんせかい』が選ばれたというか。『しんせかい』は「これまでの作者の候補作と比べて格段に読みやすい」と、髙樹のぶ子氏が言うようにリーダブルな物語で、いま一番文体実験をしている作家がこれで受賞してしまうというのが、芥川賞らしいですね。前回の村田沙耶香さんも、もっと過激だったり先鋭的だったりする作品がある中で、わりと万人受けする『コンビニ人間』でとりましたが、『しんせかい』も、富良野塾の裏話的要素もあり、青春小説的なところもありで、そういうわかりやすさと面白さが受賞に影響したのかな、と。でも、山下さんの真骨頂は、そういうところとは別にありますよね。『しんせかい』に関しては、選考委員の中でも、読み方がかなり違っていて、青春小説として読んでいる人とそうではない人がいて、私小説として読んでいる人とそうではない人がいる。そこは一般の読者のあいだでもわかれています。一見すると私小説なんですが、たとえば佐々木敦さんは東京新聞の文芸時評で、「「私小説」的なものとは、どこか決定的に違っている」と言っています。『しんせかい』は私小説として見るかどうかで作品の評価も変わってくると思うんです。これだけ実体験の要素が入っているので私小説ではないとは言い切れないでしょうが、かといってそれだけの話ではない。佐々木さんは、主人公を「山下スミト」と命名することで、逆に私小説から逃れているというようなことをおっしゃってます。山下さんは演劇をやっている人ですが、たしかに演劇でもよく、自分で自分の役を演じたりしますけど、そもそもどんな役を演じても役者はその役に完全に没入したり、一体化したりはしませんよね。その時の一種離人症的な感覚が、『しんせかい』の特徴です。作者山下澄人が主人公「山下スミト」を演じているような感覚に近くて、そうやって自分との距離がとられているわけです。ところが選考委員の奥泉光氏は、「距離をとろうとするがあまり、作者の自意識の影のごときものがときおりちらつくのが邪魔になる」と言っていて、つまり距離をとるギミックとして、「山下スミト」という名前が選ばれてはいるけれど、距離がとりきれていないと考えているようです。しかしそれとは反対に、最初から距離があって、むしろ、そこに自分を重ねていくギミックとして「山下スミト」があり、この小説はむしろ私小説に仮託しているんだという見方もある。そこは大いに議論すべきところだと思うんですが。
小谷野
佐々木敦は山下の友達で、ツイッターで「おめでとう」を連呼していましたね。ああいうことを文芸評論家がやるのはおかしいでしょう。東京新聞などの文芸時評でも珍奇なことを言っていましたよね。「やっと芥川賞が「しんせかい」のような作品に賞を与えられる時代になった……現在の選考委員会は信頼に足る。芥川賞はしばらく「ブレない」だろう」とか、頭がおかしいんじゃないかと思いましたね。今回一番酷かったのは、佐々木です。そもそも文芸批評なんてできる人間ではない。『群像』に「新・私小説論」を連載していますが、一体どこが「新・私小説論」なのか。小林秀雄の話をしたり、『日本語に主語はいらない』の解説をやってみたり、あんなトンデモ本をまともにとり上げていることだけ見ても、「トンデモ評論」です。彼は文学について何もわかっていない。佐々木敦を文芸批評から追放しろと言いたくなった。名前が同じだから今まで少し生温かく見ていたんだけれど。いったい佐々木は古今東西の文学作品をどの程度読んでこういうことを言っているのか。

そもそも「私小説ではない論」というのは昔からあったんですよ。たとえば漱石の『道草』について、普通に考えたら私小説なんだけれど、「漱石は私小説作家じゃないから、私小説ではない」みたいな理窟を付けて論じる批評家がいた。私は認めないけど、いくらでも理屈はこねられる。『しんせかい』にしても、明らかに私小説です。私小説でありながらも、肝心なことを書いていない駄作です。若い男女が北海道の人里離れた場所に籠って生活を共にしていたら、もっとドロドロとしたものがあったはずなのに、それを一切書いていない。だから面白くない。本人も、そういうドロドロを書く度胸がない人なんだ。これまでも、そこから逃げながら小説を書いてきて、この逃げの姿勢が今回あらわになった。こっぱずかしい恋愛をした話とかをもっと書けばいいのに、書けない。小説家としての山下に、あまり未来はないと思います。
「私小説」かどうか

小澤
これまでの山下さんは、新しい文体をとことん模索してきた人ですから、これからどういう方向にいくんでしょうね。
小谷野
もう五十歳ですからね。純文学から娯楽小説にシフトしていく人もいるけれど、この歳でそちらにいくのは難しい。本当は『北の国から』みたいな物語を書くはずだった青年が、妙なところに迷い込んだ末に、こんなところに来てしまったという感じですね。前回受賞の『コンビニ人間』に比べて、まったく話題にされていませんしね。『しんせかい』は既にアマゾンの売上順位で、『火花』の文庫版に抜かれている。比べるのも滑稽です。『火花』が二桁代で『しんせかい』は三桁。それはそれで悲しいものがありますがね。
小澤
でも、私小説の話にこだわりますけど、たしかに小谷野さんがおっしゃるように私小説としては物足りないわけだから、この作品を評価するとすれば、それは私小説以外の要素ですよね。佐々木さんも「私小説」的なものとは違う、「その違い方こそ、この小説の最大の魅力だ」とも言っていましたが。
小谷野
魅力がない小説に、「魅力だ」と言われてもねぇ。いかにも佐々木節ですよ。空疎なんです。全然根拠がないことを断言して、何かを言ったつもりになっている。
しんせかい(山下 澄人)新潮社
しんせかい
山下 澄人
新潮社
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小澤
小谷野さんは、『しんせかい』を私小説だとあっさり断言していますけど、これを私小説と捉えるかどうかがポイントだと思いますよ。
小谷野
私小説かどうかを議論すること自体、ひとつの陰謀だと思いますね。つまり私小説に敵意を抱く人たちが、「これは私小説ではない」と言ったりする。じゃあ今度私が「小谷野アツシは……」とカタカナ名で小説を書けば、佐々木敦は「私小説ではない」と言うのか。
小澤
引き合いに出してしまいましたが、佐々木さんは『しんせかい』の名づけについて、西村賢太が主人公を「西村賢太」ではなく「北町貫多」にすることで私小説というフィクションが書けるようになっていることと、いわば正反対だとおっしゃっているんですね(『文學界』3月号)。これは私なりに解釈すると、たとえば松尾スズキに『業音』という戯曲があるんですが、そこでは荻野目慶子が実名で出てきて、壮絶に悲惨な売れない歌手の役を演じている。そうやって実名を使うことで、レイヤー化したフィクションが立ち上がる。この作品もそういう狙いで「山下スミト」にしているんじゃないかと思うんですが。
小谷野
理屈はなんとでも付くという、いい例ですね。まあ、どんな理屈を付けようと、つまらない小説であることには変わりがない。私小説として面白い部分をまったく書いてないわけだから。
小澤
小谷野さんとしては、この五作からあえて選ぶとしたら、受賞作はどれになりますか。
小谷野
受賞作はなし。だけど『しんせかい』でいいと思いますよ。ほかの候補作が酷すぎるから、相対的にここにくるだろうということは、最初から予測ができた。
小澤
善し悪しとは別に、私が一番気になったのは『キャピタル』です。どうして、こんなにも村上春樹っぽいのか。これはもう意図してやっているとしか思えないぐらいですよ。
小谷野
栗原裕一郎も、同じようなことを言ってましたね。
小澤
過去作では、春樹っぽさはそれほどなかったと思うんです。それなのに、今作でいきなり全開になっている。
小谷野
むしろ今まで抑えていたんですよ。この人は、田中康夫みたいな人なんです。田中の『なんとなく、クリスタル』を、江藤淳が米国風風俗に対する諷刺として理解し、絶賛したんですが、実際は諷刺でもなんでもない。田中は、ああいう世界が好きだっただけのことです。 
意味のあるつまらなさ

小谷野
加藤秀行もブランド名を出したり、エリートの生活を描いたりして、『サバイブ』の時は諷刺だと思っていたんだけれど、今回読んでみて、こういうのが根っから好きな人間だということがわかった。
小澤
そうすると、今までの二作では、自分の作風なり文体なりを探そうという模索期だったのが、ここにきて臆面もなく村上春樹節を全開にして書いたということなのかな。私にはまったく意味がわからないんです。なんで、こんな作品になったのか。村上春樹のパスティーシュをやろうとしたのか、なんらかの批評性みたいなものがこめられているのか。それとも無意識で似てしまったのか。この似方が意図的だったら、コピー能力には驚嘆すべきものがありますが、比喩の下手な村上春樹にしかなっていないし、これを意図してやっていないなら、その無意識がおそろしいですよ。
小谷野
地金でしょ。小説は、そんなに意識して書けるものでもない。自分の限界が出てしまっただけのことです。単純に考えて、金持ちのもて男の話を書いた。最後の文章も酷いですね。馬鹿な文学青年がこういう終わらせ方をするんです。「空はくっきり青く、交差点の白い線はくっきり白かった。すきとおるような空気の匂いがした」。私の主宰している猫猫塾で、こんな終わらせ方をしたら、書き直しです。
小澤
どうも風の描写が多くて、『風の歌を聴け』への目配せなのかと思ってしまうし、心が傷ついた儚げな女性を病院に訪ねていって、最後にどんでん返しがあって、三角関係で、というのは『ノルウェイの森』や「鼠三部作」を思わせますし、アフォリズムもすごい。とにかく村上春樹の模倣に挑戦しているとしか、私には読めなかったです。三作目で、いきなりこれですから。
小谷野
元々はエリート男女の世界を書いていて、境界線にあったものが一気に出ただけじゃないですか。
小澤
選評を読むと、候補作の中で評価が一番低かったみたいですね。そもそも、なぜこの作品が候補作になったのかが不思議ですが。
小谷野
山下にとらせるための候補作選びだから、それでいいんです。
小澤
でも加藤さんは、『文學界』の期待のエースという感じがありますよ。二作目の『サバイブ』につづいて、三作目の今作も候補になって。
小谷野
普通に考えて、これではとれない。どんでん返しといっても、映画を観ていればこれより面白いのはいくらでもあるし、遥かに及びませんね。まったく面白くないとしか言いようがない。
縫わんばならん(古川 真人)新潮社
縫わんばならん
古川 真人
新潮社
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小澤
まあ、面白くないという意味で言えば、『縫わんばならん』がダントツじゃないですか。選考委員が一様に「退屈である」と言っているぐらいですから。そもそも新潮新人賞を受賞した時から選考委員に「退屈でしんどい」(中村文則)と言われてます。
小谷野
これは滝口悠生に似過ぎですね。
小澤
私もそう思いました。滝口さんの『死んでいない者』については、私は一年前の小谷野さんとの対談で、「読むのが苦痛になるぐらいつまらない」けれど「読み通したときに至福に近い読後感がある。つまらなさをこれほど言祝げる、滝口さんという書き手はすごい」と言ったんですけど、『縫わんばならん』は、単に退屈で、苦行でしかなかった。二作のあいだで何がこうも違うのかなあと。
小谷野
私の場合は、家系図を作る楽しみがあるかないかですね。『死んでいない者』は、家系図を作る楽しみがある。『縫わんばならん』は作っても面白くない。それに、どう考えたって、滝口の後に、これを書いて新人賞に応募するのは、正気とは思えない。
小澤
読んでないんじゃないですか。
小谷野
普通は読んで書くでしょ。新人賞に応募するなら、過去の受賞作を参考にしてチューニングしますからね。あの時の対談に関しては、「大波小波」で、小澤さんの今言った言葉が引用されて、からかわれていましたね。
小澤
でも、本当にそう思いますよ。それは石原千秋さんが『死んでいない者』を評した「意味のあるつまらなさ」という言葉と通じると思うんです。滝口さんのつまらなさには意味があるとすれば、『縫わんばならん』のつまらなさは意味がない。この意味のあるなしの違いは、突き詰めて考えるべきだと気付かせてくれた作品でした。
小谷野
古川真人がさらに問題なのは、方言を使えばいいという、この姿勢ですね。それは中村文則も新人賞の選評で指摘していましたよね。小野正嗣を見ていてもそうだけれど、方言を使えば純文学であるという雰囲気、いわゆる方言アドバンテージが文壇を徘徊している感じはありますね。私なんて埼玉県出身だから、そんな小説は書けない。だから中村が珍しくいいことを言っているなと思った。そう言えば、豊﨑由美が「(『縫わんばならん』を)中村文則は読めてない」とか言っていましたね。あの人、最近やたらとそういうことを言うんだけれど、どこが読めていないのか、私にはよくわからない。ただ、古川に関しては一作目なので、二作目を見ようという感じはあるでしょうね。これ以上のものが書けるのかどうか。
小澤
石原さんが最近地方の歴史を描く小説が多いのを「地方創生会議みたい」と言っていたのが面白かったんですけど、たしかにこの作品のよさは方言に負っているところが大きいですね。あと、つまらなさ、退屈さの違いについて付け加えると、作者がその「退屈さ」をどう自覚的に捉えて向き合っているかもあります。これは勝手な想像なんですけれども、この作品は、どうも作者に退屈だという意識がないか、退屈だが、そこがいいと思っているような気がしてならない。すべてのエピソードに意義が内在しているという感じを受ける。たしかに選考委員の中で、『縫わんばらならん』の退屈さを評価している人もいます。小川洋子さんが「退屈で何が悪い、という態度を貫き通しているのは立派だ」と言っている。
小谷野
小説って、自分で退屈だと思っていると、こんなにたくさん書けないと思いますよ。退屈なものを長々と書くのも、ひとつの才能なんでしょうけれど、古川は大学を中退して、二八歳で無職と書いてあって、将来は大丈夫なんですかね。まあ、私が心配したところでなんの役にも立たないでしょうけど。
見事に構築されすぎ

ビニール傘(岸 政彦)新潮社
ビニール傘
岸 政彦
新潮社
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小澤
岸政彦さんの『ビニール傘』はいかがですか。私は候補作の中では一番面白く読みました。最後に女の人が自殺する、あのドラマチックな展開はなくてもいいと思いましたが、巧みですよね。バトンが受け渡されていくような小道具の使い方に、手紙が誤配されていくみたいな感じがして、ポーの「盗まれた手紙」とラカンのその読解を思い出したりもしました。ランドスケープを描く小説としてとても面白い。ただ、選考委員の吉田修一氏が「社会学者が顔のない若者たちをサンプルのように扱い描く」と言っているように、緻密に組み立てられている感じが否めない。それは宮内悠介さんの『カブールの園』についても言えることです。見事に構築され過ぎていて、余剰がないというか。
小谷野
社会学者が手すさびで書いただけの小説ですね。小才があればこのぐらいは書ける、いい例です。ひとりの主人公で、小説を書いてみなさいと、私は言いたい。岸田の『ビニール傘』は、社会学者による単なるスケッチでしかない。
小澤
たしかにワンアイディアの短編なので、次作が楽しみです。個人的には、読後感が岡田利規さんの『私の場所の複数』や、これは戯曲ですが『ゴーストユース』といった一連の作品に近かったんですけど、この作品を読んで改めて岡田さんに芥川賞をとってもらいたいと思いましたね。それから『カブールの園』はいかがですか。
カブールの園(宮内 悠介)文藝春秋
カブールの園
宮内 悠介
文藝春秋
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小谷野
書き方としては、宮内が一番よくない。語り手である主人公が、女なのに女に感じられない。自分の経験したことを女に変形して、結果的に失敗している感じがしますね。前回候補にあがった山崎ナオコーラの『美しい距離』もそうでしたが、ジェンダーを変えて、自分の経験を書くのはやめた方がいいと思います。たとえば『カブールの園』では、主人公に彼氏がいることになっていますよね。その彼氏がどういう人物か、全然浮かび上がってこない。男を女に変えて書いているから、そうなっちゃうんだと思いますね。なおかつ、話の筋がわかりにくい。祖父母の話を、母を通して知るという作りになっているんですが、主人公が母親とごっちゃになるんです。一九五三年に生まれたのは自分のことなのか、母親のことなのか、よくわからない。戦時中の強制収容の話を、無理矢理伝聞の形で書こうとした結果、そうなってしまった。今はこういう小説が増えていますね。つまり戦争中のことを書くために、無理矢理おじいさんやおばあさんを出してきたりする。単なる仕掛けにしか過ぎない。いつまでも戦争をひきずっているというのは、いかんことですよ。こんな話は、山崎豊子が『二つの祖国』で書いている。今更三七歳の宮内が書くことではない。もうひとつ。いじめにあったと言うけれど、それが人種差別なのかどうかとか、フロイトの精神分析まで持ち出して語るようなことなのか。かりにそうだとしても、小説にするほどの強さはないですね。
小澤
先程ちょっと言いましたが、『ビニール傘』と一緒で、『カブールの園』も頭で書いている印象が強いんです。構成が上手すぎて逆に引いてしまう。山田詠美氏が「もっともまとまっていて破綻がない」けれど「そつがなさ過ぎて物足りない」と言っていますけど、私も同じようなことを感じました。箱庭的に書いていて、エモーショナルなところでコミットしていない。島田雅彦氏は「プログラムとしてはウエルメイドにできている」と言っていますが、プログラムとして書いているから、どこか他人事として書かれている感じを受けるのかもしれません。それから、百枚程度の分量に、手数が詰め込まれ過ぎていて、ひとつひとつのアイデアが昇華しきれていない。たとえば世界中の離れている人たちがウエブ上で繋がって、同時に音楽のコラボレーションができるという「トラック・クラウド」、それが自分のアイデンティティの問題にも通じる希望の予兆になっているわけですが、展開が性急すぎて見え透いてしまっているんです。三百枚ぐらいの長篇で書けば、もう少し面白い話になったかもしれません。
小谷野
題名の付け方もあざといですね。
小澤
主人公は幼い頃「仔豚(ピギ)ちゃん」と呼ばれ、いじめられていた。アフガニスタンの首都カブールは、イスラム教徒が豚を食べないので、動物園に豚がいる。そこから、彼女が受けているVR治療を、彼氏が「カブールの園」と呼んだというエピソードからきていますが、話のなかではトリビアルすぎて効いていない。
多和田葉子の評価

芥川賞の偏差値(小谷野 敦)二見書房
芥川賞の偏差値
小谷野 敦
二見書房
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小澤
そもそもバーチャルリアリティの情報が生きていない。『縫わんばならん』や『しんせかい』は、自他の境界とか、現在と未来の境界のあいまいさみたいなものを、いろんな手法を駆使して描こうとしていますが、宮内さんはVRを入れることによって、自分の現在と過去、祖母・母と自分の過去を繋げていくという同種の試みをやっていると思います。けれども、その肝心のVRの仕掛けが生きていない。先ほど言った「トラック・クラウド」に一種の希望を見るという結末もそうですが、全体がていよくまとまり過ぎていて、大学院生の論文かなにかを読んでいる感じがしてしまう。一方で、小谷野さんがおっしゃっていたように、彼氏のキャラもいまひとつだし、髙樹のぶ子さんが「日本語ができない日系女性の心の転変を日本語で書く、という難しい試みに挑戦している」と書いているんですが、別に挑戦しているというほどのことでもない。いろんな要素を詰め込みすぎだし、それを作品の中にうまく生かせていないんですね。
小谷野
主人公は、日本語ができないという設定になっているんですよね。ならば、もうちょっと下手な日本語、翻訳調で書かないと駄目ですね。
小澤
日本語がわからない人間が日本語で語っているというそもそものところがスルーされていますよね。ハリウッド映画なんかでよく、英語圏でもないのに登場人物がみんな英語でしゃべってたりしますけど、そういう違和感がありました。
小谷野
たとえば最初から英語で書いて、翻訳すればよかった。それだけの時間がなかったんでしょう。今や人気作家だから。やっぱり今の文芸雑誌にはSF期待があって、SF作家に書かせると人気が出るんじゃないかと思っているふしがありますね。その期待を背負って、宮内は書いている。でも、この人のSFにしても、意味がわからない。初音ミクが降ってくるとか、そういうのを書きたいのであれば、そっちの世界に行った方がいい。私は、文芸誌の編集者に聞いてみたい。宮内に書かせるほど、そんなに書き手がいないんですか。宮内にはオカルト的なところもあって、『芥川賞の偏差値』にも書いたけれど、「超常現象は『ある』と答えるのは科学的ではない。しかし『ない』と答えるのは心が無いとも思える」とか、インタビューで答えている。変な人ですよ。
小澤
その小谷野さんの新しい御著書、早速読ませていただきました。毒舌が奔放で面白かったです。「この頃の芥川賞は選考委員の顔ぶれにブレがあったが、病んでいた」とか、ある作品を褒めた人たちに向かって「みんな死ね」とか。受賞作に対する言葉も辛辣で、たとえば楊逸『時が滲む朝』に対しては、「どうしようもない日本語で、新人賞に応募したら一次選考ではねられるレベル。中身も辻褄が合っていない。単なる日中友好のための受賞としか思えない」と書かれていたり、田中慎弥の受賞会見の言葉を取り上げながら、こんなことも言っています。「石原慎太郎の悪口を言えば受けると思っているあたりに単なるバカさが感じられた。その後『宰相A』などというのを書いたところを見ると、やはりバカらしい」(笑)。でも、この本で私が一番興味深かったのは、あとがきに書かれていることですね。先程からずっと話してきたことですが、芥川賞をとる秘訣について、「いかにもうまいという風に書いて、かつ退屈であることが重要」であると。巻末に載っている「芥川賞受賞作偏差値一覧」もすごくて、偏差値50以下が三分の二ぐらいを占めている。一般には評価の高い作品も、軒並み偏差値40台です。
小谷野
小澤さんに聞きたいんだけれど、たとえば多和田葉子って、そんなにいいですか。
小澤
私は現代作家のなかでもっとも素晴らしいひとりだと思ってます。でも小谷野さんは『犬婿入り』に偏差値44を付けている。その辺り、私とは文学観がかなり違っているところがある。たとえば二〇一〇年代以降に絞ってみても、私なら、滝口さんの『死んでいない者』や朝吹真理子さんの『きことわ』に偏差値70を付けると思いますが、小谷野さんはそれぞれ42と44しか付けていない。小谷野さんの評価にはかなり独特のバイアスがあるとは思うんですが、バイアスのない評価なんてありえないですし、視点のぶれなさ、評価の基準が一貫しているので、信頼のおける本だと思います。
小谷野
恨みがある宮本輝の『蛍川』に58を付けてるんだから、これほど公正な評価はないですよ。
小澤
『時が滲む朝』も、そんなに酷い作品ですか。ぶっちぎりの最下位で、偏差値25。
小谷野
こんなものに授賞して、リービ英雄にあげないなんて、無茶苦茶もいいところですよ。逆に、今回意外だったこともあって、選考委員の中で私と同意見の人がいるんですよ。かなり貶していて、選評を読んでいるだけでは、なんで受賞したのかわからない。そこは面白かった。
小澤
楊逸の25の次に悪いのが36で、伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』、中村文則『土の中の子供』、阿部和重『グランド・フィナーレ』といった作品があがっていますね。
小谷野
唐十郎の『佐川君からの手紙』も36。本にも書きましたが、私は唐さんの芝居は好きなんですよ。小説にしても『下谷万年町物語』はいい。でも一番酷いので受賞しちゃった感じがしますね。石原さんの『太陽の季節』についても、今までは少し遠慮があって言わなかったんですが、今回ははっきりと「くだらない」と書いて、38を付けました。遠藤周作の『白い人』も改めて読んでみたら、なんだかよくわからない小説だということがよくわかった。これだったらノンフィクションを読んだ方がよっぽどいい。森敦だって、妙に尊敬されている不思議な人だけれど、『月山』は、ただ茫洋とした小説にしか感じられなかった。多和田にしても、みんながいいと言うから、長いこと黙っていたんですよ。でも、はっきり言って、つまらない。『容疑者の夜行列車』とか『雪の練習生』なんて面白いですか。
小澤
私は面白いと思いますけど。小谷野さんは、言語実験的なものにはあまり興味がないということなのかな。
小谷野
多和田に言語実験はありますか。
小澤
言語実験というか、多和田さんの場合は詩的言語に通じるものですが、言語の物質性をとことん突き詰めていくという作業をやっていますよね。
小谷野
それならば詩を書けばいいのであって、また言語実験といっても、筒井康隆みたいにやるのであれば面白い。娯楽的効果を持っていない実験は駄目ですね。
純文学=現代音楽

小澤
「退屈=つまらない」ということだとすると、その反対に「面白さ」があるわけですよね。でも、あまり面白過ぎると、娯楽小説・通俗小説になってしまう。そうすると、芥川賞のカテゴリーに入るには、適度なつまらなさが必要ということですか。
小谷野
その点は、読者の問題になってくると思うんですね。つまり、ある程度文学を読んでくれば、これは大衆には受けないだろうけれども、面白いと思える小説がありますよね。それが純文学というものですよ。
小澤
私は、その面白さを、言語や人称の操作といった手法の新しさや意外性に感じる傾向があります。はっきりとした線引きまではできませんが、そこが通俗小説と純文学の違いにもなりませんか。
小谷野
小澤さんが言うようなことは、音楽で言えば現代音楽がやっているみたいなことですよね。現代音楽なんて、今面白がっている人はあまりいない。だけど、音楽における実験を一世紀ぐらいつづけてきている。文学の世界で、言語実験をうまく娯楽化したのが筒井康隆であって、筒井以降はもうできないと、私は思いますね。
小澤
でも、リミックスでもサンプリングでもいいんですが、この手があったのかという面白さをみせてくれる小説はまだまだありますよね。小谷野さんはあとがきで「いわゆる「文学」は終わりに近づいている」と書かれていますが、その意味では、私は、文学に希望を持っています。
小谷野
いや、そこは希望を持つ持たないという話じゃないんですよ。『源氏物語』が書かれた後、『源氏』とは違う文学が出てくるまでに何百年も経っているわけです。みんな『源氏』の亜流しか書けなかった。今でもその状態がつづいていると言ってもいい。私は、その中では私小説が一番面白いと思っているということです。少し前に話題になった『夫のちんぽが入らない』という自伝的小説がありますよね。主婦ブロガーが書いている。もっともなぜ入らないのかちゃんと自分で検証してないから、さほど評価はできないけれど。
小澤
小谷野さんは私小説では自分の情けなさみたいなものを書くべきだとおっしゃってましたよね。
小谷野
それを書ける人があまりいない。度胸がいるんですよ。クッツェーの『サマータイム』はそういう方向で書かれていたと思います。なおかつ、それなりに実験的で、面白かった。
小澤
読者の側からすると、純文学というのは、一種勉強と同じで、退屈さに耐えるとレベルアップするというか、そういう教養主義的な要素もあるんじゃないでしょうか。
小谷野
ただ、正確には、その教養主義も一九五〇年ぐらいから崩落していますよね。たとえば『百年の孤独』がやたらと人気があるけれど、何のことはない『アブサロム、アブサロム!』の亜流でしかない。『百年の孤独』で止まってしまって、『アブサロム、アブサロム!』を読まないのが知的大衆なんです。これは日本に限らないですが。たとえば『モービィ・ディック』が面白くないという人だっているだろうけれど、私には面白い。面白くないと思っている人に、その作品がいかに面白いかを伝えるのは難しい。純文学の面白さと娯楽小説の面白さとは違うということもわかります。本にも書いてある通り、「『面白い』には、高級な意味と低級な意味とがある」。芥川賞に関しては、どちらから見ても面白くないものを選んできた伝統があるということです。
小澤
それにしても、三分の二以上が偏差値50以下という評価は衝撃的でした。
小谷野
作品の評価に関しては、ちゃんと議論すべきだと思いますね。私はこういう点を付けたけれど、それが絶対ではない。佐々木敦ならば、当然まったく違う見方になるでしょう。今は意見の違う文芸評論家同士の交流がなくなっているから、議論ができない。佐々木は佐々木で、言いたいことを言っている。私は、佐々木なんて馬鹿だと言っている。それぞれが勝手に意見を言いっぱなしで、昔みたいに論争には至らない。この状態が解消されることはないでしょうね。

小谷野さんへの応答(村田沙耶香)
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年3月10日 新聞掲載(第3180号)
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