未来への期待という想像力、感情イメージの形成 ミア・ハンセン=ラブ「未来よ こんにちは」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
2017年3月10日

未来への期待という想像力、感情イメージの形成
ミア・ハンセン=ラブ「未来よ こんにちは」

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ヒロインのナタリーと夫のハインツは共に哲学の教師だ。彼女はルソーを、夫はカントを信奉している。ミア・ハンセン=ラブは『未来よこんにちは』で、彼女の両親を思わせる人物を描く。ナタリーは夫と離婚し、母を亡くす。突然の厳しい孤独。だがそれでも彼女は未来を信じてしなやかに生きようとする。

題名が示すように、未来がこの映画の重要な主題となる。だがここで疑問が生じる。未来に生きるとは過酷な現在から目を背けることではないか。さらには、カメラはレンズの前に拡がる現在の光景を記録する機械だが、未来の主題の重要性は映画のこうした時間的性格とどのように折り合いをつけるのか。

映画の終盤で、ナタリーが教室で行なうルソーの朗読が未来の主題を直接的に提示する。『ジュリーあるいは新エロイーズ』第六部の一節だ。「欲望する限り、幸福でなくても済ませられます。幸福になるという期待があるから」と朗読は始まり、「手に入れたものより期待するもののほうが楽しく、幸福になる前だけが幸福なのです」という言葉で終わる。ヒロインのジュリーは恋を叶えられず、欲望の成就ではなく欲望すること自体に喜びを見出す。つまり、『未来よこんにちは』で語られるのは、未来そのものではなく未来への期待なのだ。未来自体は人間の経験を超えているが、期待という形で人は未来を経験する。確かに、期待に生きることは目の前の現実から目をそらすことでもあるが、現実の過度の重視は想像力の否定につながる。ここではまさに期待という想像力の重要性が問われているのだ。

未来への期待は未来ではなく現在に属し、カメラはそれを記録しうる。それは、ドゥルーズが『シネマ』で論じた感情イメージであり、心的イメージではない。後者は外部の思考、つまり映画作品の外部に存在する精神性に関わる。それに反して、前者は映画の内部に存在する感情、すなわち登場人物などが抱く感情に関わる。勿論、カメラが直接撮影するのはあくまで人物や事物、より正確に言えばそれらに対する光の反射だ。だが、感情イメージは人物や事物の質として記録される。

従って、この作品における未来の主題は、映画の現在的な性格と齟齬をきたさない。ヒロインの現在の行動も未来への期待も全て画面に刻印されている。その豊かさを味わうことが大切であり、ヒロインと監督の母の類似といった外的な要素は二次的な問題なのだ。感情イメージが顔の表情に限らないことに注意しよう。例えば、ナタリーの夫と娘が公園を歩く場面での、娘が父の浮気について話そうと振り返る動作。成瀬巳喜男の映画のような動きだが、描き方が決定的に異なり、鮮烈だ。あるいは、ブルターニュの海岸をナタリーが歩く時の彼女の裸足。最初は引きで足取りが強調され、最後にアップで裸足が示される。これら二つの例はともに行動イメージと感情イメージ、知覚イメージの複合体だ。

未来への期待というナタリーの感情は、映画の終盤で形成される。それが感情イメージとして見事に結実するのがラストショットだ。ナタリーは娘の赤ん坊を抱いてあやす。カメラが徐々に後退して隣室に移るが、さらに引くと右端のドアの奥にもう一度彼女の姿を小さく映す。カメラの緩やかな移動と女の穏やかな表情や仕草に、映画の喜びが溢れている。

今月は他に、『息の跡』『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』『僕だけの先生』などが面白かった。また未公開だが、堀禎一の短篇『天竜区旧水窪町 山道商店前』も良かった。(いとう・ようじ氏=中央大学教授・フランス文学)
2017年3月10日 新聞掲載(第3180号)
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