柔軟と屹立 日本近代文学と弱者・母性・労働 / 綾目 広治(御茶の水書房)現代社会に対する危機意識が鍛え上げた〈思考の態度〉が貫く|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年3月10日

現代社会に対する危機意識が鍛え上げた〈思考の態度〉が貫く

柔軟と屹立 日本近代文学と弱者・母性・労働
出版社:御茶の水書房
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「森鴎外に始まり、夏目漱石、正宗白鳥、「第三の新人」、筒井康隆といった名の知れた作家たち、「南洋」と差別の問題といったテーマ群、果ては『永遠の0』のような大衆的ベストセラーまで、本書で俎上に上げられる対象は余りに多岐に渡る。その分、関心のやや粗い集積の印象はあるが、右傾化しつつある現代社会に対する著者の危機意識、それが鍛え上げた〈思考の態度〉が確実に本書を貫いている――「柔軟と屹立」である。

「柔軟」とは何か。例えば、正宗白鳥の文学の底に居残る不条理の感覚である。突き放した視点から生の理不尽を見つめながらも、なお宗教的な「絶対」に靡かず、また逆に自棄的なデカダンスにも流されず、その虚無感に留まり続ける「広やかな精神」のこと。また、広津和郎の「散文精神」のいう、生の無価値を自覚しつつも結論を急がぬ粘り強い態度のこと。また、「堕落」の先に見出され、いずれ「生の肯定」の母胎ともなるような、坂口安吾のいう「ふるさと」の心向きのこと。あるいは、戦時下の徴用作家としてシンガポールに居た井伏鱒二が「怠ける」ことに限りなく似通う「遠慮する」姿勢で示した<不参加>の戦略のこと、また、現地民への差別の構造に囚われない描写がはらむ間接的な「抵抗の意志」のことである。共通するものを突き詰めるなら、「強さへの憧れ」という表看板の裏に潜む「弱さの価値」の肯定のことになるだろう。

以上の観点から「転向」の問題に接するなら、幾人かの文学者の相貌はずいぶんと変わって見えてくる。里村欣三は確かに転向作家である。だが、もともと正統な「労働」の擁護者ではなかったという。彼のシンパシーが向かう先は、組織化可能な正規労働者ではなく、その括りからも排除された最下層の「窮民」だった。その意味で、プロレタリア革命運動の先鋭的「理論」から庶民の実生活感情へと転がり落ちるという図式は、里村の一貫した愚直な「弱者」贔屓の態度には当てはまらない。似たような性向は三好十郎にも見られる。「理論」への信奉は強さをもたらすが、ひとたび目的意識や根拠を失うと、別種のイデオロギーに一息に乗り換わってしまう。図らずも三好の転向は「なし崩し」の形を取っており、結果として理論的な短絡を拒絶している。つまりは「柔軟」の思想に他ならない。

同じことは、永瀬清子の詩想にも言える。本書の副題の中で「弱者」と「労働」に挟まれた格好の「母性」とは、永瀬にとって社会的な「敗者」へ向けられる無償の眼差しのことになるが、それは女性としての根源的な「飢え」の感覚と背中合わせのものである。母性的なあり方を生の基盤とする代わりに、身に負う「私」の「欠乏」―その眼を通してしか鮮明化しない世界がある。そうした広義の「貧しい」立場の尊重は「老い」の問題を呼び寄せて、瀬戸内寂聴『いよよ華やぐ』や田辺聖子の〈姥シリーズ〉などの「無駄」を肯定する思想にも繋がっていく。これもまた「柔軟」の一形態といえるだろう。

総じて本書は、井上靖『孔子』が描き出した孔子像のように、禍福ともども受容して実人生を放棄しないことの持続から「屹立」の姿を探るというスタンスである。したがって、「第三の新人」の再評価を促すのも、彼らの文学が自己の矮小さを自認し、即物的な生活に立脚していること、また各々の仕方で「母性」や「家庭」を描いており、逼塞した現代社会における「弱者救済」のあり方を考えさせるからである。他方で、一見「弱さ」に寄るようで「向こう受け」狙いの姿勢が出た時の太宰治や村上春樹らには手厳しい。

かくして「柔軟」に寄り添う論述が続いた後、巻末の数章で、著者の現状を憂える思いは俄にあふれてくるのだが、それはまさに本書の「屹立」のモメントである。テクストへの切り込みは控えめなだけ、深読みが引き起こしがちな文脈の混濁をわかりやすい文章に漉してくれている。文学と社会問題の絡みに関心を持つ人に読んで欲しい一書である。
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2017年3月10日 新聞掲載(第3180号)
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著 者:綾目 広治
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