【寄稿】
読書と研究の仮想空間

著 者:服部典之
出版社:

【寄稿】
読書と研究の仮想空間

日本英文学会第93回全国大会に寄せて――服部典之



 二〇二一年五月二二日と二三日に早稲田大学で開催されるはずであった日本英文学会第九三回全国大会が昨年に引き続きウェッブカンファレンスとなった。日本英文学会が、前回早稲田大学で開催されたのが一九五五年! であるから、もし開かれていれば六五年ぶりとなったはずで、誠に残念なことである。「史上初めて」という言葉はコロナ禍が始まって以来しばしば聞かれる言葉となったが、昨年この欄でも原田範行会長が「日本英文学会始まって以来」という表現をされている。去年はデフォーの『ペストの記憶』が描く一六六五年にロンドンを襲ったペストに現状を準えて、一年は辛抱しなくては、と思ったものだが、ロンドンのペストが終息するまでにかかった一年を今のコロナ禍の期間は越えていて、デフォーがペスト回避の手段として提唱した「自主閉鎖」が常態化している。

 カズオ・イシグロの最新作『クララとお日さま』(二〇二一年刊)の世界でも、人と人とのコミュニケーションが希薄になり、授業もオンラインで行われる社会が描かれ、ジョジーという病弱な少女の女友だちクララはAI搭載のロボットである。ジョジーのボーイフレンドであるはずのリックも機械鳥を操るリモート(リモコン)にかまけて、ジョジーが話しかけても上の空だ。二〇〇五年に出た『わたしを離さないで』は映画にもドラマにもなり多くの人に親しまれているが、この作品と『クララとお日さま』は、異様な状況設定である点と、切なさという感情を呼び起こす点で共通している。『わたしを離さないで』では「不可視性」が一つのテーマとなっている。クローン人間養成という制度を作った権力主体は全く見えず、クローン養成学校ヘールシャムのエミリー校長は誰もいない教室でしきりに何かを語りかけるし、ルースは目に見えない馬をキャシーに貸すことで友情を勝ち取る。

 オンラインという不可視(肉眼で直接見えないという意味の)の社会を生きていると、誰しも不安を覚える。私も学生が誰もいない部屋でカメラに向かってズーム授業を行っていると、自分がエミリー校長になったようで、空っぽの部屋で熱弁を振るう自分を俯瞰して見ると、ふと自分がおかしくなったのではないかとも感じる。しかし、実際にはズームの向こう側には九〇名の学生がいて、話しかければ応答してくれるのだから、「仮想的に」授業空間は成立しているわけだ。

 そう考えると、そもそも読書という行為においても、読者は作家という不可視な存在と仮想的な対話を行っているわけで(時には他の読者や研究者とも)、学会での議論も対面であろうがウェブ上であろうが成立していることになる。この『週刊読書人』という新聞上でも、日本英文学会で発表される方のエッセイやこの欄を書く私たちが仮想的に集まって、英文学の魅力を語っているのであるから、ヴァーチャル・リアリティという言葉が使われてずいぶん経つが、非対面は決して「特異」な事態ではないといえる。

 百年の長い歴史を持つ日本英文学会が、このたび二度目のウェッブカンファレンスを開き、この全国大会が仮想空間の中で実現するわけだが、発表者の中から六人の中堅・若手の方に、今回『週刊読書人』の紙面をお借りして発表される研究のテーマを披露していただいている。学会が仮想空間で開催されるわけだが、さらにその学会のエッセンスが新聞という仮想空間に凝縮されるわけだ。これを機会に英文学に少しでも興味を持っていただければこれに過ぎる喜びはない。

 自己紹介が最後になったが、優秀な原田範行会長の後を今大会以降より受け継ぐことになった服部典之がこの文章を書かせてもらっている。関西から会長が出るのは私が英文学会史上三人目で極めて珍しいことだ。ただ、仮想空間やらオンラインやらウェブやらを基軸にした本エッセイの趣旨からすると、私が大阪に住んでおり、大阪大学を三月で退職して関西外国語大学に勤めているといったパティキュラーな情報を書き連ねても、今のところ「日本英文学会会長」なる不可視の存在なのだから、詮無いことかもしれない。来年二〇二二年五月に同志社大学で開催される第九四回全国大会では、是非生身の姿で現れたいものだ。(はっとり・のりゆき=日本英文学会会長・関西外国語大学教授)