山野浩一氏追悼パネル 電子版限定(3)

参加者:デーナ・ルイス(翻訳家)、高橋良平(フリー編集者)、大和田始(翻訳家)
司会・本文構成:岡和田晃

SFセミナー2018本会企画 於:全電通労働会館【東京】

●1:SFセミナー2018本会企画 パネリスト紹介

 岡和田 いま、プロジェクターに映っているのは、1978年の山野浩一さんのお写真です。提供してくださったのは、作家の荒巻義雄さんですね。荒巻義雄さんの自他ともに認める代表作『神聖代』の出版記念パーティの模様です。

 それでは、改めて今回のパネルの参加者を紹介させていただきますと……。

 デーナ・ルイスさんです。2007年に発売になった『Speculative Japan』というアンソロジー(黒田藩プレス)に『鳥はいまどこを飛ぶか』の英訳「Where do the birds fly now?」を寄稿されています。また、「ファウンデーション・レビュー・オブ・サイエンス・フィクション(Foundation Review of Science Fiction)」1984年3月号に載った山野さんの評論「イギリス文学とイギリスSF(English Literature and British Science Fiction)」の英訳も担当なさいました。

 大和田始さん。「NW-SF」Vol.5(1972年1月)に「遊侠山野浩一外伝」という山野浩一論を発表されています。「ユリイカ」のアーシュラ・K・ル=グウィン追悼特集(2018年5月号)に、「『闇の左手』の衝撃」と題したル=グウィン論を書かれていますが、これは山野浩一論にもなっていて、山野浩一さんがどのようにル=グウィンを読んでいたか、たくさんの引用をもとに紹介するという形になっているからですね。

 高橋良平さん。創元SF文庫の『鳥はいまどこを飛ぶか 山野浩一傑作選Ⅰ』(創元SF文庫、2011年)が出たときに、巻末解説を寄せられています。こちらは非常に細かく、正確な解説になっていまして、1964年に作家としてデビューした後の山野浩一さんの軌跡を、丹念に追えるようになっています。

 お三方の共通点として、この「NW-SF」という雑誌を発刊していたNW-SF社に参集し、ワークショップにも参加していたという共通項があります。70年代に山野浩一さんのお仕事を中心に、山野浩一さんの思い出や再評価について語っていただければと思います。

 申し遅れましたが、私は岡和田晃と言いまして、いま東京創元社から刊行予定の『山野浩一全時評』という本を作っております。山野浩一さんは、たくさん批評を書いてきましたが、実は単著としてまとめられたものが一冊もありません。冬樹社から、まとまる予定もあったようですが、残念ながら立ち消えになってしまったようです。

 それと、「TH(トーキング・ヘッズ叢書)」という雑誌に「山野浩一とその時代」という評伝を書いています(No.71から連載中)。加えて、日本SF作家クラブのネットマガジン「SF Prologue Wave」で、〈山野浩一未発表小説集〉と題し、単行本にまとまっていない山野浩一さんの小説を紹介する企画をやっています。私は生前、山野浩一さんと交流があった人のうち、作家の樺山三英さん(1977年生まれ)と並んで、もっとも年少の世代に属するのではないかと思います。


●2:1960年代の山野浩一

 岡和田 皆さんのお手元には、SFセミナー2018のパンフレットがあるかと存じますが、その裏表紙には、「ほるぷ新聞」1971年2月25日の山野浩一のインタビューが再掲されています。山野さんのSF観がわかりやすく表明された内容なので、サイドリーダーとしてご活用いただければ。これまでのSFとは異なる「内宇宙としてのSFに共感」する、J・G・バラードらが進めたSFの革新運動、すなわちニューウェーヴSF宣言といった内容です。

 山野さんが亡くなってから、しばらく非公開になっていた自筆年譜(2005年)が、このたび採録できましたので、それでは順を追って、その仕事を確認して参りましょう。

 1939年にお生まれになりました。1960年に「デルタ」という映画を監督されて有名になります。いま、プロジェクターに投影したのは、1961年の「日本読書新聞」で紹介された際の「デルタ」ですね。現物は16ミリフィルムで、当時NW-SF社へ出入りしていた、増田まもるさんも観たことがないとおっしゃっていましたが、1960年代には大変高い評価を受け、TV放送のときに寺山修司さんがコンタクトをとったということ。

 また、映画監督の足立正生さんとの交流も、「デルタ」がきっかけだったと、足立正生さんの『映画/革命』(河出書房新社、2003年)で語られています。

「日本読書新聞」に載っているのは、佐藤重臣さんの文章ですが、「やぶれかぶれのような表現がある」、ただ政治を茶化しているようだがどことなく切実なところがある、という紹介になっています。

 当時、山野浩一さんは映画について、ものすごい情熱をもっていまして、昨年(2017年)の日本SF大会でも回覧しま したが、遺品から出てきた映画ノートでは、1939年から60年まで、劇場で観た映画をぜんぶノートし、採点していったことがわかります。俳優のベスト10なんかもあります。

「NW-SF」誌をお読みになった方はおわかりかもしれませんが、山野さんは、何にでもランクをつけるのがお好きな方でしたし、競馬の方の仕事でも「血統主義」の第一人者として知られ、有名な『サラブレッド血統事典』シリーズに顕著ですが、リスト・データ化するのが得意な方でした。なお、映画の「デルタ」は神戸市映画資料館でリマスター版を見ることができます。

 もう少しデビュー前後の話をさせていただきますと、山野さんは草創期の日本のSFアニメーション映画にも関わられていました。『鉄腕アトム』に「メトロモンスター」という回がありますが、これは完全に、「X電車で行こう」の鉄腕アトム・ヴァージョンですね(笑)。ほか、アニメ版『ビッグX』の脚本を担当した回も少なからずあり、現在のDVD-BOXで、一部を観ることができます。また、アニメ『戦え! オスパー』の原作も担当しています。漫画版の連載していた「少年キング」を実際にお持ちしました(客席に見せる)。『戦え! オスパー』が連載されていた号は、東京の公立図書館にはどこにもなく、大宅壮一文庫にも所蔵されていませんでした。私はオークションにて、5000円ほどで買いました。アニメ版は寺山修司が主題歌を作っているんですが、現物の映像が歌のほかに、残っていないと言われています。遺品から出てきた、山野さんの脚本ですね、こんな感じです(会場に見せる)。山野さんの初期作、たとえば「闇に星々」(「宇宙塵」1965年1月号)には、アニメの脚本の影響があるということを、山野さんご自身も明言してらっしゃいました(『殺人者の空 山野浩一傑作選Ⅱ』、創元SF文庫、2011年)。これは『人形劇こがね丸 大蜥蜴の巻』の脚本。こういう脚本も、たくさん書いておられました。


●3:寺山修司と山野浩一

 岡和田 いま、プロジェクターに映したのは『X電車で行こう』の初版ですね(新書館、1965年)。『鳥はいまどこを飛ぶか』の解説で、高橋良平さんは初めて山野さんにお会いした際にこれを渡された、と書いておられますね。安部公房と星新一の帯がついており、安部公房の帯の方は安部公房の全集28巻に入っています。

 このように、当時の文化人から「全会一致に近い支持を受けた」と、山野さんは年譜のほうで書いてらっしゃいますね。「宇宙塵」で「X電車で行こう」が掲載されたとき、三島由紀夫が柴野さんに「面白い」というハガキを書いてきたことがありますが、1960年代における山野さんのお仕事については、『鳥―』の解説に詳しいことから、この頃の山野さんについて、高橋良平さんに語っていただければと思います。

 高橋良平 60年代は会っていないのでよくわからないですが(会場笑)、大阪で学生映画作家として認められて東京へ行って、寺山修司さんがキーパースンだと思うのですけれども、そこで色んな人脈ができてるんですけれども、『鳥―』の解説にも書きましたが、山野さんが小説的虚構を書いたら、寺山さんが「X電車で行こう」については「宇宙塵」を紹介してくれて、「受付の靴下」というのは「悲劇喜劇」に出すように言われ、両方とも掲載されたんですよね。

 岡和田 ちょうど「X電車で行こう」の祝賀会については、足立正生さんが去年の「映画芸術」でコメントしていましたね(2017年10月号)。これは、「おめでとう」と言うばかりではつまらないと、山野さんと足立正生さんで――つまり自分たちで自分たちの――出版記念パーティをボイコットしたという面白い内容が書いてあります(笑)。
高橋 山野さんの仕事でSFと呼べるのは、「宇宙塵」に掲載されてからなんですよね、『X電車』にしても、新書館から出たのは、寺山さんが新書館からたくさん競馬がらみの本を出していた関係もあるんですけど、そのときの『X電車』を担当者した方が内藤三津子さんといって、そのあと澁澤龍彦の雑誌「血と薔薇」の編集をしたり、薔薇十字社に入ったりしました。そういう山野さんは付き合いが密だったようですね

 岡和田 内藤三津子『薔薇十字社とその軌跡』(論創社、2013年)に、当時に関する回想が記されていますね。寺山修司や山野浩一の名前も出てきます。そのことからも裏打ちされますが、山野さんには、保守本流のオールドスクールでガジェット指向なSFよりは、内宇宙を追究する指向性があったのは間違いありません。これは新書館版の発売記念パンフレット(プロジェクターに上映する)。で、山野さん自身は「宇宙塵」の方でデビューしたものの、「もっとSFらしいSFを書け」と、おたより欄で「宇宙塵」の会員から言われたからか、山野さんも反論しながらも、自分なりの「SFらしいSF」を模索しているようなところがあります。


●4:1970年代における、山野浩一との交流

 岡和田 一方、1960年代中盤からはアニメの仕事や「日本読書新聞」で連載をしていたSF時評の仕事などが増えていき、徐々に活動の幅が広くなっていきます。1970年に「NW-SF」を創刊され、非常に精力的な活動を開始されます。今回のパネラーのお三方には、山野さんとの出会いについて語っていただければと思います。まず、デーナさん。

 デーナ・ルイス うまく日本語が話せるかどうか(笑) 聞こえますか。2回目に日本を訪問した際、小さな街の本屋で、大阪で泊まって電車に載っていて、日本SFを探して本屋を探したが、奥の方に、「SFマガジン」など、たくさんSFの本があって、「日本にもSF作家がいますね」と思い、一番薄くて軽いものを選んだのですね。『鳥はいまどこを飛ぶか』(ハヤカワSFシリーズ、1971年)です。裏表紙にある若い時の山野さんの髪型は、「(石原)裕次郎カット」でした(笑)。

 大学生だったので、卒業論文のときに、日本SFを翻訳紹介しようと思って山野先生に相談したら、筒井康隆編の『70年代日本SFベスト集成』から三本選んで、いちばん好きな作品を訳すという話で、A評価をもらって卒業しました。

『鳥―』を翻訳したのは、1976−77年頃。訳して山野さんに手紙を添えて送ったんです。そのお返しに、「NW-SF」なんかが30冊くらい詰まったダンボールを送ってくれました。日本に来る時に、1977−78年頃ですけど、新宿の方南町のコンクリート・ビル(柏倉マンション)にあった山野さんのオフィスまで行きました。

 そこで山田和子さんや、何人かのNW-SFの人たちと会いました。後に翻訳家になる野口幸夫さんもいたように思いますが、そのときは、こんなに日本語が話せなくて、「こんにちは」、「暑いね」と言ったらチヤホヤされました(会場笑)。

 すごく気持ちよかったし、山野さんたちにチヤホヤされて、アパートの部屋で飲みながら徹夜するとか、終電を無くしたので床で寝させてもらうとか、そういう、とても楽しい時期があったんですね。

 岡和田 『鳥―』の訳稿にはデーナさんのお名前はないのですが、これを最初に送ったということですね。それを山野さんが大事に、晩年まで持ってらっしゃったと。

 デーナ その後、ジャーナリズムの仕事を選んで、新聞の仕事の関係で何回も日本とアメリカを行ったり来たりして、SFとも疎遠になりましたので、山野さんとの関係は薄れた部分もありますが、それでも時折、方南町へ遊びに行ったりすることもありました。

 岡和田 ありがとうございました。なるほど、日本SF史のミッシング・リンクという感じもしますが。続いて、大和田始さんに山野さんとの出会いについて語っていただければと。

 大和田始 私は高校1年のときにSFを読み始めました。伊藤典夫さんがJ・G・バラードを紹介なさっているのに衝撃を受けまして、その流れで翻訳されないものも読んでいくようになりました。大学に入ってからですね、同人誌を作っていたんですね。バラードのコンデンス・ノベル(濃縮小説と呼ばれる独自のスタイルの作品)を翻訳して載っけて。伊藤さんに送ったら山野さんにも送れと言われ、山野さんからのお返事として、「ちょっと来なさい」という葉書をもらったわけです。

 岡和田 「遊侠山野浩一外伝」では、山野さんに小説「レヴォリューションNo.2」(「NW-SF」No.2、1971年)のファンレターを出したら、「論を書け」と強制されたとありますが(笑)。

 大和田 事実です(笑)。山野さんが先ほど、詳細なノートを作ってらっしゃいましたが、私も映画青年でもありましたので、映画評を書いていたんですね。それを山野さんが見まして、山野浩一のことを書きなさいと。それで、いろいろと活動を進めまして。

 商業誌のデビューが72年の「NW-SF」で、大学3年か4年ですね。山野さんは「SFマガジン」の森優さん(2代目編集長)と仲がよかったのですが、森さんに新しい小説を訳せと言って、まずは山田和子さんにラファティとル=グウィンを訳させて、私も翻訳をやりなさいということで、森さんから提案があったのは、ロバート・シルヴァーバーグの「太陽踊り」。それを大学4年の夏休みに訳したと思います。その年の暮れか翌年だったかに、就職もしないままブラブラしていたものですから、「NW-SFの仕事をしなさい」と。

 岡和田 大和田さんは「話の特集」にもお書きになっていましたよね(1972年11月号)。

 大和田 あれは、山野さんの紹介です。

 岡和田 山野さんのご自宅には、大和田さんが提出された履歴書が残っていましたよ(笑)。川上弘美さん、山田和子さん、加えて、「NW-SF」Vol.4までの編集に携わっておられた、佐藤昇さんの履歴書もありました。

 大和田 私は就職をしたことがあるんですね、NW-SF社に(笑)。

 岡和田 では、高橋良平さん。

 高橋 『鳥―』の解説にも書いたのですけど、実際にお会いしたのは、荒巻義雄という人の企みで『錬金術師の夢』(フォーカス産業、1972年)というアンソロジーを作成するにあたって、挟み込みの月報を作ろうと決めまして。

 岡和田 ちょっと説明を端折ってしまったのですが、いわゆる「山野×荒巻論争」が終わったあとですよね。
高橋 字面だけ見ると、「山野×荒巻」論争は、言葉のやりとりが厳しいんだけど、山野さんにしても、矯激な表現をしちゃう人ですが、お二人は人間関係としては仲がよかったんですね。

 山野さんとの出逢いは、山野さんに、ファン出版のものに短いものを書いてもらおうと思って(岡和田注:『錬金術師の夢』の月報のこと)、柏倉マンションへ原稿依頼に行ったんですよね。だから即決で引き受けていただいたのですけど(後に「フリッツ・ライバーのイナー・スペース小説」として発表)、山野さんはすぐに人を帰そうとはしないんですよね。
そのときは山田さんの部屋だったと思うのですけど、ゲームをしたがるから、その日はけっこういたと思うのですけど、たぶんワークショップをやったと思うので、「いらっしゃい」という風なことを言われて。それで、山野さんのところへ伺うようになるのですけど、途中何号かは忘れましたけど、「NW-SF」の新号が出ると、それを取次に搬入するという仕事をやっていました。トーハンと日販の二社だと思うのですけど、僕と、あと別の一人で、トラックで詰め込んで搬入するという。営業社員というわけではなく、アルバイトだったんですけどね。

 それで、最後はね、「スターログ」という雑誌の副編集長だったときに(ツルモトルーム版)、原稿依頼をしたんですよね(「80年代のSF」、1980年1月号)。

 プライベートで会ったのは、三鷹の方へ移られてから、クリスマス・パーティへの招待があって、うかがったら、SF関係は野村芳夫さん(翻訳家)や元「SFマガジン」の編集さんくらいで……競馬関係の人は、高橋源一郎さん以外、(私は)誰も知らないという恐ろしいパーティに出たのが、最後ですね。

●5:NW-SFワークショップについて

 岡和田 いまプロジェクターに映しているのは、國領昭彦さんが保管されていた、NW-SFのワークショップ案内ハガキです。

「ある男が、友人からの手紙を受け取る。それには、ある港から船に乗ってある中継点まで行くように指示されている。そこで友人が待っているか、更に指示があるかもしれない。男は船に乗ったが、その中継点も全く知らず、自分は友人の手紙だけを信じてきたが、果たしてそれは正しかったのかと不安におそわれる。その不安な状態を描写する。(400字詰2枚以上)」

 ……という、すごい課題があったようですね(笑)。

 では、パネリストの皆さんに、NW-SFワークショップの参加経験を語っていただこうかと思います。

 デーナ 私は正式なメンバーとは言えないと思うんですね。参加したことはありますが。あのアパートは小さかったので、台所前の小さなテーブルに座ってワイワイ言いながら、話が聞き取れないほどガヤガヤしてるんですけど、その頃は自分の個人的な問題が起きていて、山野さんのところにいたのは一つのRefugee(避難所)というか……幸せでした。そういう雰囲気を作るのが上手かったのですね。

 岡和田 英語でしゃべっていたのですか?

 デーナ 日本語で。山野さんは、後で競馬の仕事も増えて海外旅行もするうちに、英語も話すようになるのですけど、それはNW-SFワークショップが終わってからの付き合いにおいてで。

 大和田 初期の頃は、ハガキで案内が来て、出かけて行って、参加者は10人から20人くらいという話。山野さんが舵をとって、山野さんのコメントは厳しいこともありましたが、創作については容赦ないですね。小説を読んだり翻訳をやったり、思想的なテキストを読んだりと、色々とありましたね。SFについても、「アメリカSFはスペキュレーションがなさすぎる」という話をするだけではなく、哲学を大事にする形で、ワークショップをやっていました。一番、山野さんが傾倒していたのはオルテガ。それと、山野さんの思想のバックには、マックス・ピカートとベルジャーエフもありました。

 岡和田 『X電車で行こう』に収められた「赤い貨物列車」の冒頭には、ベルジャーエフからの引用がありまして、調べたところ、ベルジャーエフのドストエフスキー論からの引用だとわかりました。かなり深く調べておられたようですね。

 デーナ いま、(プロジェクターに映された)案内ハガキを見て、はじめて参加費が200円かかると知りました。払うべきでした(会場爆笑)。一度も催促されたことがなかった。

 岡和田 増田まもるさん曰く、NW-SFに行くとご飯を食べさせてもらえた、とか(笑)。

 大和田 みんなで話していると、うしろで山野さんがご飯を作ってくれるんです。山野さんの手料理。美味かったですね。

 岡和田 若者の避難所であり、かつ食料も供給していたと。

 高橋 はい。ワークショップにも顔を出していたんですが、(プロジェクターに映された案内ハガキを見て)こんな案内もらったかなあ。結局、電話して「今日大丈夫ですか」と聞いてそのまま出向いたりしていました。『鳥―』の解説にも書きましたが、思想・哲学書の読書会をやっていて、山野さんがクリアーしたのも、僕に言えば、特にロラン・バルトの『神話作用』は面白かったですね。「SF論叢」誌を立ち上げる新戸雅章さんとか、志賀隆生さんとかも、創作に参加されていましたね。

 山野さんはけっこう厳しいですよね。非常に突き詰めた質問をしちゃう。本質を突き詰めて、「なんでこれを書いたんだ?」とか、「最初のこれって何?」と聞いて、「えー!?」と答えなきゃならないんですけど、学生運動の用語で言えば、「自己批判」を促すような追い詰め方をしないでもない。

 基本的には論争というよりも、何か問題について話し合うと、非常に厳しい。「お前はなんで生きているのか」と(会場爆笑)。そんな言葉は使わないんだけど、突き詰めてしまう。山野さんが疑問を呈すると、答えられないと、突き詰めて、こちらが答えざるをえないところに追い込んでしまう。山野さんは非常にカリスマ性のある人だし、人は集まってくるし、何か問題について話し合うと、そういうきついことになるというのが、ワークショップの思い出ですね。

 岡和田 自筆年譜では、NW-SF社は、いわゆるノンセクトの牙城だった、とありますが?
 
 高橋 影響はあるのかな。


●6:山野浩一をどう位置づけるか

 岡和田 では、3つ目の質問。これから、山野浩一をどう再評価していくか、というフェーズに移っているのかなと思います。小説も、東京創元社の傑作集は電子書籍でしか入手できない状態です。他の第一世代の作家とも微妙に違うような位置づけにあると思います。SF史・文学史・文化史へ、どう位置づけていけばよいでしょうか?

 デーナ 私は日本語を話し日本のSFに興味のある外国人ということで、いろいろな集まりに参加してきましたが、私にとって――ニュアンスが悪くなるかもしれませんが――「知的に一番挑戦された場所」というのは、山野さんのところだったのですね。そんなに海外のSF界と違う雰囲気と思わなかった。ボストンのワールドコン(世界SF大会)と、日本のDAICON(大阪でのSF大会)は、すごく似ている雰囲気だったのですけど、NW-SFの集まりには、演劇もあり、政治もあり、革命もあり、ぜんぜん違う雰囲気だったのですから。山野さんが自分でおっしゃっていたように、政治的なんです。
私が自分で書いているSFには、そのような要素はないのですけど、自分がそうやったらいいなと思う雰囲気だったのですね。

 岡和田 つまり、日本のSFに知的・政治的なものを持ち込んだ人という評価ですね。大和田さんはどうでしょうか?

 大和田 山野さん、最初は小説と評論と2本柱だったのですけど、批評は単著が出ていませんね(岡和田さんが作っていますが)。日本のSFが始まってから50年以上経ちましたが、作家としては半村良、批評家としては山野浩一、これに尽きると思います。山野さんも私も、SFを読んで育ってきたわけではないですが、普通に文学や哲学を読んできた延長でSFを読むようになった・つまり、外側から見てSFの可能性に気がついて、それを伸ばす方向で、そのためにはどうしたらよいかと、「NW-SF」で文学運動をしたわけです。そういうところが、これから評価されるんじゃないでしょうか。

 岡和田 作家としてだけではなく、評論家としても評価されるほうがよい、という話ですね。

 高橋 松岡正剛の「遊」という雑誌とか典型ですが、SFと前衛的なものが接近していました。『X電車で行こう』の同時期の新人作家は『東海道戦争』(ハヤカワ・SF・シリーズ、1965年)という短編集を出した筒井康隆でした。そういうわけで、同じ時期にSF界から出た新人は、その2人であったわけで、その意味で筒井さんとよく似たスタンスのSF作家ではないかという気がします。60年代からの70年代にかけての全体的な文化現象のなかで、自覚的にSFを選び取った人だという気がします。

 岡和田 1960年代−70年代の全体的な文化状況のなかで、山野浩一を位置づける必要があるという話ですね。ちょっと時間を超過しているので、質疑。

 麻枝龍 自分は麻枝龍と言いまして、山野浩一で卒論を書こうとしているのですけど(会場どよめく)、高橋さんの説明で筒井康隆の話が出ましたけど、山野浩一との類似性は語られましたが、差異性については、どのあたりにありますでしょうか?

 高橋 それは、筒井さんが持っている演劇性のようなものかと。筒井康隆さんは自分が俳優でもあるが、山野さんは演出家。自分では演技をする人ではない。それだけ、「理性」が勝っている部分があり、俯瞰的に見ちゃう。そのへんが作品の数の少なさにつながるんですが、山野さんにもっと書いてほしいと言うと、書きたいことは書いたとおっしゃるんですね。「小説世界の小説」の続きは、というと、「あれはあれでいいんだ」という。

 岡和田 「小説世界の小説」は、序章にあたる未発表原稿も発掘できましたので(「TH(トーキング・ヘッズ叢書)No.74」の「山野浩一とその時代(3)を参照)、今後、そのあたりの解釈が、課題になってきますね。若者も山野浩一に興味をもっているということからもおわかりのとおり(笑)、これから本当の意味で「山野浩一の時代」が始まるということです。
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