古典をいま、境界を越えて読む喜び

対談=林道郎×井上隆史 (司会=中西豪士)

「いま読む! 名著」シリーズ(現代書館)二〇冊刊行記念

現代書館の「いま読む! 名著」シリーズで、二〇冊目となる荒川敏彦著『「働く喜び」の喪失 ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み直す』が刊行された。同シリーズの二〇冊刊行を記念して、紀伊國屋書店新宿本店、東京堂書店神田神保町店、丸善丸の内本店でフェアが開催されている(シリーズ全体の相関図も配布中)。それに合わせて、同シリーズの編集を担当している中西豪士氏の司会のもと、上智大学教授の林道郎氏(美術史・美術批評)と、白百合女子大学教授の井上隆史氏(日本近代文学)に対談していただいた。同シリーズで林氏は『死者とともに生きる ボードリヤール『象徴交換と死』を読み直す』を、井上氏は『「もう一つの日本」を求めて 三島由紀夫『豊饒の海』を読み直す』を執筆している。(編集部)


現在の問題意識から読む国の状況の中で意味を問う

中西 本シリーズは、古典・名著を題材にしてはいますが、いわゆる解説書、解題書ではなく、「いま読む!」というシリーズ名通り、様々な問題を抱えた現代社会の中で、改めてこれらの書物を読んだら、どう感じるのか、何が見えてくるのかを、問題意識の高い著者の方々に書いていただきたいという意図で二〇一三年にスタートし、今回のヴェーバーで二〇冊目の刊行にこぎつけました。
 今までシリーズで取り上げた名著は、アレント、フーコー、ルソーなどの思想書や哲学書に留まらず、ドストエフスキーなどの文学書、マルクス、ケインズ、スミスなどの経済学書、さらには、フロイト、ダーウィン、宮本常一、吉本隆明まで、ジャンルや時代を越境して領域を広げています。今回の対談企画で、私がお二人を選んだのは、それぞれの著作はジャンルとして同じ書棚に置かれる本ではないのですが、お二人の視線が共通のものを孕んでいると感じたからです。それはボードリヤール、三島由紀夫を読み直すなかで、原典の刊行時、現代、そしてコロナ禍後という、過去・現在・未来という連続性をもって日本という国のあり方を考えてみようというもので、この共振は私には新鮮な驚きでした。
 まず、それぞれの著作を読んでいただいたご感想を伺いたいです。
 
井上 実にスリリングな読書体験でした。林さんもお書きになっているように、ボードリヤールはどちらかと言うと傍流の思想家と見なされ、三島由紀夫も「エリート」の先生方からは軽視、というか軽蔑されてきた作家です。私の大学時代はニューアカデミズムのころで、特にそういう傾向が強かった。私はそれを不愉快に思っていました。けれども時代が進むと、この二人の著作に大きな意味があるということが明らかになってきました。林さんの本を読んで、そう感じます。
 ところが、コロナの時代になって、さらに状況が進んだ。そのとき、ご本で言及されている詩的言語の働きやアナグラム論、「死者とともに生きる」ということが、どういう意味を持つのか、そのメッセージがどういうふうにバージョンアップしていくのか。これが、今日お聞きしたいと思ったことのひとつです。
 
 ボードリヤールは一九八〇年代の日本ではずいぶん参照されましたが、九〇年代からはほとんど無視されているような状況だと思います。ですので、本書の執筆を依頼されたときには躊躇しましたが、一方では、一九八〇年代前半に『象徴交換と死』を読んで、未決な感覚がずっと残っていました。ボードリヤールは「シミュラークル」や「ガジェット」という言葉で簡単にまとめて片付けられるけれども、どうもそれでは片付かない感覚があったので、それに向き合ってみたいと思いました。さらに、そこで死や死者の問題が扱われている点も気になっていました。一九世紀以降の哲学にとって死の問題はものすごく重要ですが、ハイデガーやフロイトと、ボードリヤールでは死の問題に対するアプローチの仕方が少し違います。ボードリヤールの死の扱い方から受けた感触が、3・11以降の日本の状況と響き合うところがあるのではないかと思いました。
 
中西 井上さんの本に対する林さんのご感想はいかがですか。
 
 二〇一〇年にベルリンで三島由紀夫の国際シンポジウムがあったときに、美術の方面から三島について語ってほしいと依頼されました。高校時代に三島にはまって読んでいた時期があり、それからずっと離れていたのですが、その機に『豊饒の海』も含めていろいろと読み直しました。この人はやはり端倪すべからざる小説家だぞという印象を改めて受けました。それ以来三島はずっと気になっていました。
 一九七〇年の衝撃的な死との関わりでのみ三島が語られることが多いですが、井上さんは文学との関係において三島の死の意味を問い直されています。三島の死が『豊饒の海』という小説と深く関わっていたということ、三島の著作は「近代」という問題と表裏一体のものだったということを、井上さんの本を読んで納得しました。
 彼が殉じようとした日本の文化、また「文化天皇制」という問題をどう受けとめたらいいのか、三島を読み直すことの意味は何なのかを、今一度問われたという感じです。
 
井上 そのシンポジウムを企画したイルメラ・日地谷=キルシュネライト氏は、ヨーロッパだけでなく世界で三島研究をリードしている研究者の一人です。三島はアートのなかでもいろいろと引用されますね。たとえばデヴィッド・ボウイが三島由紀夫を好きで、三島の肖像画も描いていますが、ベルリンのアパートに飾ったその絵の下でボウイが眠っているところを撮った写真があります。これも、冷戦の臨界地の一つだったベルリンという場所に意味がある。つまり、アートと政治の問題はつながっているのです。
 気になるのは、ボードリヤールのいう「想像力も表情ももたない」が「いたるところに、微量に現前」しているような、全世界に浸透していく「透明な悪」というものは、どこまでポジティブな意味をもっているのか、です。それともどうしようもなく否定的な意味しかもたないのでしょうか。<つづく>

★はやし・みちお=上智大学国際教養学部教授、美術史・美術批評。著書に『静かに狂う眼差し 現代美術覚書』、共著に『シュルレアリスム美術を語るために』(鈴木雅雄との共著)など。一九五九年生。

★いのうえ・たかし=白百合女子大学教授、日本近代文学。三島由紀夫文学館研究員。著書に『三島由紀夫 幻の遺作を読む もう一つの『豊饒の海』』、共著に『決定版 三島由紀夫全集42 年譜・書誌』(佐藤秀明、山中剛史との共著)など。一九六三年生。

★なかにし・たけし=編集者。大手出版社勤務を経てフリーに。「いま読む! 名著」シリーズ(現代書館)の企画・編集を担当している。一九六〇年生。



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