ざんしょもきびしいワー

文芸〈九月〉
荒木優太

砂川文次「小隊」/羽田圭介「滅私」

 世の中には説教臭い小説というのがある。これこれこう生きよ、みんなが望むAよりもBのほうが大切なのだ、といった台詞を善なる登場人物が吐くのは露骨が過ぎる例だが、そこまででなくても、なんとなく課された価値観の押しつけに窮屈を感じたりする。これは純文学度を著しく下げる要因の一つである。

 今月号で説教臭いと思ったのは、石倉真帆「夏の終わりかた」(群像)。精神病で入院した母を忌物にする村社会のなか悪戦苦闘していた一一年前を、いまは三〇になった吉垣開耶よしがきさくや
が回想する。臭みの大本は、脇役の書き割り具合にある。母親を非難する祖母は「恥や! ほんまろくでもない。情けないのう、死んでもうたろか、ええ」といったいかにも悪者然とした調子を崩さず、はたまた開耶の女友達は全メールの語尾に長音符「~」をつける能なしキャラクターとして造形される。意地悪と馬鹿に挟まれながら、いささか乱暴であっても忌憚なく交わされることで際立つ母娘の交情の誠実さは、しかし脇役が一面的すぎて結果的に押しつけがましい。読書趣味のある開耶は女友達のことを「~」にかこつけて「陰毛」と呼び終始馬鹿にするが、なぜ彼女が偏執的にそのような語尾を選択するのかについては想いを巡らせない。壮絶な過去があってその語尾にたどり着いたのかもしれないのに。親族連中の悪口を「不毛な会話」と断じるとき、「陰毛」を馬鹿にするテメエには不毛がお似合いだぜ、という軽口も叩きたくなる。あと、小説というのはどんな事情があるにせよ、写真とりますよハイ、カシャ(笑顔)……で終わらせてはならない。「腐ったちんぽ」というフリを効かせていてもダメなものはダメだ。あまりにも安っぽい。小説版ROOKIESって呼ぶぞ。夏はまだ終わってないのでいつかちゃんと終わらせてほしい。

 小暮夕紀子「裸婦」(文學界)も母娘もので、母が見せる一瞬の悪意とそれに動揺する娘の姿には目を引くものがあったが、それを除けば割とどうでもいい話がつづき、やや退屈であった。同誌ならば砂川文次「小隊」を推したい。釧路を舞台に自衛隊とロシア軍とのありえるかもしれない戦争を、戦闘未経験の一小隊長の視点からリアルに描く。数々の隠語や軍事用語の厳密さに関しては判断を保留せざるをえないが、身体欠損や死体をともなう具体的な戦闘描写へと踏み込む姿勢は高く買いたい。置いてきた恋人、バイオハザードやコーラの日常を恋しく思い、「ふてくされながら」任務に集中するものの、その身体は意識の怠惰と不釣り合いに「一個の義務」―—「3等陸尉という階級に付随する、無数の手続きが、総じて一つの義務となり、自分を支えている」―—に縛られ、戦意喪失隊員を足蹴にするような、不思議な規範のなかで躍動する。この逆説には説教っぽくない多くの示唆を受け取ることができる。一点、前線の混乱との対比で「おれたちの屎尿処理とか風呂を心配する声はな」い平和ボケした銃後Twitterの状況が説明されるが、現在のSNSではむしろ、現場という圧倒的現実を人質にして己の我意を押し通そうとする論客(笑)こそがRTリツイート欲しさに手ぐすねを引いてるのではないか。現場を心配している(知っている)……というマウントはいまや最強の武装だ。いうまでもなく戦争に限った話ではない。ここは説得力がないと思った。

 ほか戦争関連では、日本が香港を占領した一九四一年の前後、日本人・イギリス人・中国人の三人の男連中の運命の上に世界史の悪戯を重ね合わせながら切り抜いた、松浦寿輝「香港陥落」(群像)に読み応えを感じた。さらに、やはり有名作家で癪だが、ミニマリズムの極致で起こる悲喜劇、羽田圭介「滅私」(新潮)も良い。恋人の前でさえ貰い物をことごとく捨てていくことに躊躇ない冴津武士は、サイト「身軽生活」を運営し、そこに集うスカした連中と物捨てコミュニティを結成するが、そんな彼の下に正体不明の「胎児の、エコー写真」が届く。その写真はやがて捨てようとしても捨て去ることのできなかった過去との対決を冴津に迫っていく。文学通からすれば、分かりやすさが過ぎる、と評価されるだろうが、適度に面白くて適度に考えさせられる。純文学を読み慣れていない読者には入り口として適当なのでは。そう、念のために確認しておけば、純文学度というのは高ければ高いほどいい、というものでもないのである。(あらき・ゆうた=在野研究者)