作家・大竹昭子さんに聞くリトルプレス「カタリココ文庫」

――何かを問いかけつづける本、頭の中を散歩するように…

 自身の仕事を、「関心の網にひっかかる事柄を、ジャンルに関係なく回遊し、らせん状に降りて行く」と表現する作家の大竹昭子さん。大竹さんはコロナ自粛期間に三冊の本を自主制作した。「カタリココ文庫」と名付けたこの書籍レーベルについて、刊行の経緯や、出版や表現に対する思いなどを伺った。



「カタリココは二〇〇七年に始めたトークと朗読のイベントで、これまでも本にしないんですか、とよく訊かれたのですが、ライブの場に意味があると思っていたので、関心を払わなかったんです。ところが、二〇一八年に『ひかり埃のきみ 美術と回文』の著者である美術家の福田尚代さんとのトークが、未知のものに触れている醍醐味があって、彼女の所属するギャラリーが本にしましょうといってくださったんですね。自分たちで編集作業をしたんですが、そのときのやりとりがとても楽しく、反響も大きく、振り返ると始まりはそこですね」

 二〇一九年には、めったに人前に出ない漫画家の高野文子さんとの対談を「カタリココ文庫」の第一号として刊行。

「これが好評で、二〇〇〇部があっという間に売れ切れました。対談はいまやネットで読むものになっているので売れ筋ではないのですけど、ちゃんと作れば読まれるのがわかりました。それなら年に一冊ぐらい、過去の対談を掘り起こして刊行していこうかと」

 しかし二〇二〇年、コロナ禍で自粛生活を余儀なくされると、もっと頻繁に出したくなったという。

「あの頃はトークなどがすべてキャンセルになり、考える時間がたくさんあったから、いろいろなことを思いついて、まず美術家の鴻池朋子さんとの鼎談を本にしようと思いました。「ことばのポトラック」という、東日本大震災直後にはじめた、ことばをもち寄るイベントに登壇いただいたときのものですが、コロナ禍が大震災のときの危機感と重なって見えたんです。それで内容を再構成し、鴻池さんともうひとりの聞き手である堀江敏幸さんに加筆していただいたんですが、その作業のあいだに、対談だけでなく散文も出せばいいと閃いて〈散文シリーズ〉を企画し、カタリココ文庫の二本の柱ができました。〈散文〉は現在、私が過去に発表した文章を刊行していますが、軌道に乗ったら未知の書き手のものも出したいと思っています」

 装幀や造本にも大いにこだわった。

「本に興味があるけれど、なにを読んだらいいかわからないという人に届かせたかったので、手にとりやすい文庫サイズの薄手のものにし、通勤の行き帰りに読めるくらいの分量にしました。でも読んだあとも手元に置いて時々開いてみたくなるような愛着のあるものを、と表紙のデザインやレイアウトにこだわりました。
〈散文〉の一冊目『室内室外 しつないしつがい』は、「PAPERSKY」という雑誌に「場所」をテーマに連載したものですが、コロナ禍にあって室内に居ながら室外が感じられることをテーマに加筆・再構成し、「随筆集」と銘打ちました。
 つぎの『スナップショットは日記か?』は『新潮』七月号に発表したもので、サブタイトルにあるように、森山大道のスナップショットという手法と、平安から現代まで連綿とつづいてきた日本の日記文学の伝統との関連を探った、随筆よりもう少し論じる部分が多い内容なのですが、評論という言葉は使いたくなかったので、悩んだあげくに「随想録」としました。モンテーニュみたいで、恐れ多いですけど」

 確かに、大竹さんの文章は「想いに随」って歩きながら考えているようだ。そして読者も共に「その場所」に迷い込む。

「頭のなかを散歩するような感じなんです。最初から着地点がわかって、そこに向かって書くのではなくて、寄り道をしながら、思考の尾っぽを辿っていくうちに、だんだんと思考が熟してくる。その過程を書きたいんです。書く対象も一冊ごとに違います。世間は情報に通じた専門家を求めますから、私のようにジャンルの看板を掲げていない人は訳がわからないだろうけれど、枠にはめられるのが窮屈で、こうと決めつけられると逃げ出したくなる。これは子供のときから癖で、もう変えられないんですよ(笑)」

『室内室外 しつないしつがい』の中に、「風景を眺めているとき、純粋にそれだけを見つめているということはないのではないか。無意識のうちに記憶のなかに似たものを手探りし、重ねあわせて見ている」という印象的な言葉がある。

「長いこと生きていると、重なる記憶が増えてきて、はじめて見るものにも想念が働きます。その重なりが、私にとっては関心のらせんを降りていく感じに近いんですね。また記憶と意識の関係性は写真への興味とも繫がります。カメラは人の眼の反応を機械的に捕獲し、その結果を像にして差し出します。それを見て人は自分の記憶を掘り起こしたり、想念を働かせたりする。だから一点の写真から炙り出されるもの、読み取るものは万人が同じではないし、解答もないのです。その一方で、全世界の人が共通して受け取る印象というのもあって、それは文化を超えたヒト科の感想といってもいいものです。そんなふうに人の経験したものが、幾重にも広がっていくところが写真の最もスリリングなところで、この写真のあり方に私は多くのことを教えられたし、ジャンルを超えた書き方をしているのも、ひとつには写真の影響なのです」

 表現をしている最中に意識が高まると、自分の存在が消えて、向こう側に突き抜けるような感覚になり、そこからもどってきたとき、作品が生まれる。

「そんな道行きが感じられる作品に惹かれるし、そういう作品との出会いは世界の見え方を変えます。本も同じで、ことばを手がかりにある世界に入って行き、読み終えてもどってくる。その過程をことばで表現したいという欲求が強くあります。らせんは同じところをぐるぐると廻るのではなくて、ズレていくでしょう。一周したときには問いかけた時点と少し違う場所にいて、問いを深めながら回遊していく。これは考えたら、一時も留まることなく変化している生命の原理そのもので、たぶん私は生命の働きに沿って書くというのを大事にしたいんですね」

 いま、リトルプレスを作ることの意義はどこにあるのだろう。

「出版社から出すものは、一言で内容を説明できるようなものが求められます。タイトルの付けかたも、装幀もすべて「わかりやすさ」が基準です。一定の量を流通させて商品として成立させるには、そうするしかないという状況が、どんどん拡大しているんですね。でも、そういう「わかりやすさ」ではない、何かを問いかけつづける自問自答のような書き物を読みたいという読者もいるはずで、それに応えようとすれば個人の力で出すしかないんです。
 リトルプレスとはISBNコードのついていない、取次を通さない本を指しますが、そういうものを流通させる手段がここ数年間に整ってきました。まず個人の出版物を置いてくれる場所、古書と新刊書が一緒にあって、カフェが併設されているような書店が増えました。そういう場所は、本の文化を支えたいという個人が経営していて、リトルプレスとの相性もいいです。また東京堂書店や、ジュンク堂池袋本店のように、ISBNコードがなくても置いてくださる新刊書店も出てきています。
 カタリココ文庫の場合は、私がそういうお店を探してお話し、配本と集金はH.A.Bさんという個人で代行業務をしている方にお願いしています。いまはトークショーが軒並みリモートになっていますけど、ライブの場が復活すればそういう場所でも売れますし、トークのあとはみんな熱気が高まっていますから、よく売れるんです(笑)。手渡し感覚で書いた本を届けられるのは、作者にとっても大きな励みになります。それに、既存の出版社から出すとばらばらに見えてしまう私の関心の持ち方が、カタリココ文庫にまとまることで明らかになってくる気配があるのは、なによりうれしいですね。これまでそういうことを意識してこなかったので、どんな全体像が描かれていくか、自分でもとても愉しみなんです」(おおたけ・あきこ=作家)
≪週刊読書人2020年10月23日号掲載≫

*「カタリココ文庫」の詳細および取扱店はhttps://katarikoko.stores.jp/をご覧ください。また『室内室外 しつないしつがい』を三名にプレゼントします。ご希望の方は、〈読書人・カタリココ文庫プレゼント係〉まではがき(住所・氏名・年齢・感想を記載)か、読書人ウェブフォームからご応募ください(11月20日まで)。