目次

    PART1

    PART2

日本のあらゆる芸能の原点にある「大道芸」を網羅

光田憲雄著『日本大道芸事典』(岩田書院)刊行を機に
対談=光田憲雄×西条昇

PART1

「日本の大道芸」と聞くとどのような連想をされるだろうか。南京玉すだれ、バナナの叩き売り、あるいは「男はつらいよ」の寅さんを思い起こす人もいるかもしれない。この度、岩田書院から光田憲雄著『日本大道芸事典』が刊行された。本書は日本の大道芸の実演者、また消えつつある大道芸を後世に残す伝承家としても活動する著者が独自のユニークな視点でまとめた事典となる。今回は著者の光田氏と日本の芸能史、また浅草という地域を研究対象とする西条昇氏に対談をお願いした。(編集部)
※≪週刊読書人2020年10月30日号掲載≫
『日本大道芸事典』
著者:光田憲雄
出版社:岩田書院
ISBN13:978-4-86602-100-3



忘れ去られた存在の「大道芸」

 西条 『日本大道芸事典』を上梓され、私も読ませていただきました。一般の方は「大道芸」という単語からイメージするのはジャグリングなど西洋系の大道芸が中心だと思います。一方、光田さんがおやりになっているのはガマの油売り、バナナの叩き売り、南京玉すだれといった日本の大道芸です。江戸時代あるいはそれ以前から現在まで続く大道芸を網羅されているのがこの事典です。読んで感じたのは大道芸の幅の広さです。歌舞伎、狂言、文楽から落語、講談、浪曲などの演芸物まで、あらゆる日本の芸能の原点を辿っていくと、大道芸がその出発点になっているんですね。

 光田 漫才もそうですね。

 西条 芸能のほとんどが大道芸に辿り着く。そこをイメージできる人は少ないと思います。この事典を読むことで改めて実感しました。

 光田 これまでの芸能史の中に大道芸はほとんど出てきません。つまり忘れ去られた存在です。大道芸は「物売り系」と「芸能系」に大別されます。「物売り系」は口上で人を集めて何らかの商品を売ります。判りやすいのは「男はつらいよ」の寅さんです。

 一方「芸能系」は芸自体が商品です。事典ではその二つに、願掛けに伴う苦行を代行したり、住吉踊りを踊ったりして対価を得ていた「願人(願人坊主)系」、振り声を上げながら毎日決まった時間に同じ場所を訪れていた「振り売り系」を加えて大きく四つに分類しました。私は芸能の原点に大道芸があると思っているので、ごちゃごちゃに混ぜた状態ですが事典に収めました。

 西条 その四つの内容自体が凄く幅広いですね。大道芸から出発して、小屋の中で演じられるものが興行に結び付き、見世物小屋や舞台芸能になる。それから露店商であるてきやも出てくる。

 私はお笑い、演芸、喜劇といった芸能を中心に研究しているのですが、盛り場である浅草という場所についても研究しています。

 光田 東京における芸能の原点とも言える場所ですね。

 西条 本の中にも浅草についての記述がたくさん出てきます。浅草寺の本堂の横手から後ろにかけて奥山と呼ばれる一帯があって、そこには楊弓場や見世物小屋が作られ、そして多くの大道芸人が活躍していました。その奥山にあった見世物小屋が六区にうつって、劇場になったり映画館になったり、後年にはストリップ小屋になったりします。娯楽を求める大衆に応じてまるでテレビのチャンネルのようにその時々で注目を浴びる芸能のジャンルがどんどん変わっていく。

 私は色々と変わるその浅草を定点観測した浅草芸能史が研究の対象なので関心が重なる部分がかなりありました。項目の書き方も、参考にしている文献から採集したものもあれば、聞き書きや口上を再現しているものもあり自由でバリエーション豊かです。

 現代の芸能と比較している箇所もあって〈操り〉の項目では、マギー審司が操るラッキーくんとの共通点が例に挙げられていて、なるほどと思いました。

 和物の大道芸をしている方もだんだんとおられなくなって、光田さんは後世に伝える伝承家としても活躍されています。保存・伝承を目的とした「日本大道芸・大道芸の会」を立ち上げられて、そこで発行されている「大道芸通信」が今回の事典のベースになっているそうですが、光田さんはなぜ大道芸に興味を持たれたんですか。

 光田 私は山口県小野田市の育ちですが、昭和三十年前後は海底炭田が盛んで住民がとても多い地域でした。そこで暮らす人たちを相手に色々な物売りが来ていたんです。学校の帰り道にはレントゲン売りや謄写版売りが来ていました。子どもの小遣いでも買える玩具を売っていたんです。

 他にも町には手を変え品を変え色んな物売りが来ていたのを覚えていますね。小学校にあがる前から十四、五歳くらいまで物売り系の大道芸が日常に溶け込んでいました。

 西条 子どもの頃の原体験があるんですね。

 光田 戦後の働き口がない人たちが多くてきや稼業を始めて、その頃がピークだったんでしょうね。その後、私が二十代の頃に旅行している時に、泊まった宿で他の宿泊客と世間話をしていると、そこに老香具師がいたんです。それで啖呵売やてきやの話をしたんでしょうね。すると「おまえ、そんなに興味があるなら教えてやる」と言われ、教えてもらったのがきっかけです。


約四半世紀をかけた集大成の事典

 西条 西条 最初は何を教えてもらったんですか。

 光田 「神霊護符売り」という物売り芸の一つ「お札売り」ですね。イベントでは私も山伏の格好をしてやっています。その口上も事典には書きました。

 これは紐で縛った石を半紙で吊り上げるのですが、はじめは何度やっても半紙が切れてしまう。ところが神霊を吹き込むと、アラ不思議、石が吊り上がる(笑)。

 昔は物売りをする時は一時間二十分が基準でしたが、今はそんなに長いと誰もいなくなってしまいます。それに護符を売ることもできないので、芸能の一つとして見せていますね。

 西条 最初はてきやから入られて、だんだんと芸能系などの大道芸全般に興味が広がってこられたんですね。

 光田 そうです。まともに大道芸を研究している人はほぼいなかったし、まとまった資料もない。あっちの資料から拾って、こっちの資料からも拾ってとしているうちにだんだんと形が見えてきましたね。将来、日本の大道芸を調べようとした人が現れた場合に、基礎資料くらいは提示できたのではないかと思っています。だからなるべく原資料を紹介しています。

 西条 気が遠くなるような大量の原書を当たられていますね。連載が元になっていますが、実際にはどれくらいの期間に書かれたものがこの一冊になっているんですか。

 光田 「大道芸通信」は会の創立と同じなので二十六年経ちます。A4の裏表が基本で、現在、三四七号(二〇二〇年十月時点)まで出しています。事典を作るにあたって、半分以上はもう一度原典にあたりました。散逸してしまった資料もあったけど、「大道芸通信」に少しでも載せておけば、それは記録が残っています。だからこの本は約四半世紀をかけての集大成ではありますね。

 西条 事典という形にまとまって本当に良かったですね。少し自分の話をさせていただくと、私は昭和三十九年、飯田橋(東京都千代田区)の生まれです。靖国神社のみたま祭りには見世物小屋もありましたし、近くの神楽坂では縁日もあって、バナナの叩き売りがあり、或いは神田明神でもガマの油売りを見た記憶があります。

 子どもの頃から父に連れられて浅草にも行っていました。事典にも〈寅さんのモデルになった男〉という項目がありますけれど、五歳の頃に「男はつらいよ」の二作目を飯田橋の佳作座で観ました。それでおもしろさにハマって喜劇に興味を持つようになりました。寅さんの啖呵売を子どもの頃に真似していましたし、小学二年生の時に、テレビ番組の「崑ちゃんのトンカチ歌自慢」に寅さんの格好をして出たこともあります(笑)。だから私もその文化にもギリギリ間に合ったと思っています。

 光田 筋金入りですね(笑)。

 西条 渥美清さん自身が香具師の手伝いをしたり、子どもの時に物売りを見たりしていたので、頭に口上が入っていて、それを山田洋次監督が引き出して「寅さん」という人物を作ったそうです。あの啖呵は日本人のユーモアセンスや語呂合わせでできていて聞いていると心地いいですね。「粋な姉ちゃん、立ちションベン」といった言葉のチョイスが子ども心にたまらなかったですね。