熾火のような美しくぬくい言葉
――言葉が言葉として在ることのアリガタサ――

文芸〈3月〉 川口好美

水原涼「焚火」、高瀬隼子「水たまりで息をする」、李琴峰「彼岸花が咲く島」

 今月は読み切りの論考が多く、どれも面白く読んだ。尾崎世界観の小説『母影』を論じた町屋良平「書ける/書かれる私になってしまう」(『新潮』)。尾崎はすぐれた言語感覚によって不可能を可能にしてしまう。たとえば言葉の力で自分自身の記憶に、あるいは読者の記憶に憑依し、それを揺さぶることが出来てしまう。しかし、と町屋は論じる。そう「なってしまう」ことへの尾崎の緊張、躊躇、警戒、戸惑いの姿勢こそ重要であり、それが書く者と読む者の共振の磁場を創り、重層的な「私」の感触を立ち上がらせるのだ、と。さいごの段落は自身小説家である論者の実感がこもる素晴らしい文章だ。ひとかけらだけだが引いておきたい。「書けるようになってしまうことを肯定していく他ない。しかしそれが容易くできてしまうようではいけない」。小川公代「不文律を貫く巡礼者――宇佐見りん論」(『文學界』)は、宇佐見が敬愛する中上健次作品を手掛かりに、「かか」と「推し、燃ゆ」をときに瞭然と、ときに暗渠のように貫いて流れる主題を掬いあげ、宇佐見の「巡礼者」の位相を明らめている。物足りないのは、作家の文に生動する「破壊的な根源的エネルギー」に論者の文が匹敵しておらず、そのため引用が論を運ぶための潤滑油みたいに感じられたことだ。町屋の場合も、書くことをめぐる肯定と否定が引き合う危険な淵(エツジ)で尾崎が「重い責任」をあえて引き受けるその現場を原文の中にはっきり指差した上で、それに町屋自身の「責任」を対置してくれていたらもっと良かったのにと思う。自戒を込めて記すが、どうしてもソレについて書きたいという願いを自分に生じさせた原文を堂々と引用し、そこに自らの文をはげしく拮抗させる瞬間、それが批評の時間が動き始める瞬間なのだ。まさしく〝批評は引用に尽きる〟のである。だれの言葉だったか忘れてしまったが……。
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 小説も読もう。わたしはしばしば乾燥の不十分な薪をストーブにくべて家中に煙を充満させ、同居人から文字どおり煙たがられている。はんたいに長期間乾燥させた薪は、燃やすと煙の少ない熾になる。熾火には美しく好ましいぬくさが宿る。ただそこに在ることのアリガタサ、と言うとちょっと大げさだろうか。さて、水原涼「焚火」(『すばる』)。『タブッキをめぐる九つの断章』という書物を中心に、「ぼく」の勤務先の図書館の日常があり、ほとんどただ一人の友人との関係があり、交通事故で死んだ年上の従姉との交わりの記憶がある。それら実在と不在のあわいで揺らいでいるものたちが作者の静かな「低い声」によって――熾火のような言葉によって、繫ぎ合せられている。言葉が言葉として在ることのアリガタサが実感されたこと、単純だがそれが今月読んだ小説の中で断トツだと感じた理由である。「ぼく」は従姉の「ちかちゃん」のパソコンのロックを解除することができず、そのため彼女が人知れず書いていた作品はおそらく永遠にお蔵入りになってしまう。だが後に作家になる「ぼく」は小説を書き出したきっかけを問われたら「ひとつも作品を読んだことのない、ほんとうに小説を書いていたかどうかもわからない」従姉の名を挙げようと決めている。もちろんこれは虚構だが、作者の言葉が帯びているある本質的な持続力の根源にそういう名もなき作家(たち)や作品(たち)との深い交情の時間があるのでは、と想像したくなる。たぶんそのような時間だけなのだ、作品を〝作りもの〟の白々しさや野蛮さから救うのは。

 高瀬隼子「水たまりで息をする」(『すばる』)。ある日突然夫がまったく風呂に入らなくなるという設定こそ奇抜だが、印象に残ったのは最終章の文章、飼っていた魚を放す場面や夜の夫とのやり取りの叙述だった。主人公と外界の調和と不調和の意味を見据えようと必死に思考するとき、作者の文章は生きて動いている。はんたいに都会と田舎の比較は説明的で平板だった。前半は半分の長さでも良かったのではないか。李琴峰「彼岸花が咲く島」(『文學界』)。物語の舞台である「島」の風物や言語を細密に構築した努力には頭が下がる。残念なのはそれらが〝歴史〟と〝今ここ〟を素朴に癒着させる道具としてしか機能していないことである。両者の連続の不可避性と不可能性のあいだをおののきながら縫って歩くことがフィクションの言葉の本懐ではないだろうか。緊張したその歩みにこそ、書き手の固有性が輝くのではないのか。そうあってくれれば〈ニホン〉〈タイワン〉〈チュウゴク〉のごとき構図がどれほど大雑把であってもわたしとしては構わない。「新境地」だということだから気長に乾燥させてほしい。

 今回取り上げた小説の書き手は偶然皆同年代である。彼らが文芸ジャーナリズムの衰微や、にもかかわらず(だからこそ?)唐突に演じられるお祭り騒ぎと無関係に自らの主題を模索していることを頼もしく思う。(かわぐち・よしみ=文芸批評)
≪週刊読書人2021年3月5日号掲載≫