現代に生きる山頭火

対談=せきしろ×柳本々々

『新編山頭火全集』(春陽堂書店)刊行記念対談

 漂泊の俳人・種田山頭火(一八八二~一九四〇)没後八〇年を機に、三十二年ぶりとなる新全集『新編山頭火全集』(全八巻)が二〇二〇年十二月、春陽堂書店から刊行開始された。この令和の世によみがえる山頭火を、現代の表現者たちはどのように受けとめるのか。第二回配本(第三巻)を前に、文筆家で自由律俳句の俳人せきしろ氏と詩人で川柳作家の柳本々々氏に、新たな山頭火像とその魅力について語っていただいた。 (編集部)
≪週刊読書人2021年3月5日号掲載≫


自由律俳句×現代川柳 meets山頭火

 せきしろ 僕が初めて山頭火と出会ったのは高校生のときで、国語の授業で使われる国語便覧で見たのが初めてでした。僕はあまり国語が得意じゃなくて理系だったのですが、国語便覧には自由律俳句の俳人として尾崎放哉と種田山頭火の二人が載っていて、それが最初の出会いですね。

 柳本 僕は大学生の頃に俳句と出会ったのですが、そもそも僕は短い文章が好きで小説の最後の一行だけとか短いものへの関心があったんです。ただ俳句だと季語があってかたちになってしまっている。でも山頭火も放哉もせきしろさんの自由律俳句もそうなのですが、小説の終わりにふっと置いても成立するような、みんなのルールの中にはないひと言というのがすごく印象的だったんです。僕が大学生の頃はエネルギーがほとんどない状態で、何か表現したいと思っても長編とかそういうものはとてもできないと感じていたのですが、自由律だったら何にもない今日からでも生み出すことができる。季語を知らなくても五七五七七がわからなくても、自分に何のエネルギーもなくても文学はできるというのが印象的で、それがはじめて自由律俳句・山頭火に関心を持ったところだったと思います。

 せきしろ なるほど。柳本さんは俳句より川柳との出会いの方が早かったんですか?

 柳本 いえ、川柳と出会ったのはかなり後で、そもそも現代川柳の世界を知らなかったんです。最初はサラリーマン川柳とかそういうものしか知らなくて。自由律俳句だと季語や風景ではなくて、自分が今ここにいる心の状態が句になりますよね。現代川柳も同じでそういう心の状態が主なテーマになってくることが多いんです。現代川柳で「お別れに光の缶詰を開ける」(松岡瑞枝句集『光の缶詰』)という句があるのですが、そういう詩の方向ですね、むしろ。山頭火もよく自分は詩人だと言っていて、放哉も死ぬときは詩人として死にたいと言っている。せきしろさんや又吉直樹さんの句も一行詩として成立するようなところがあると思うのですが、そういう現代川柳の世界があるというのは本当に数年前に知ったことでした。せきしろさんの本を読んで、その現代川柳や詩の世界とせきしろさんの自由律の世界というのは似ていると思いました。例えば、『まさかジープで来るとは』(せきしろ/又吉直樹著、幻冬舎文庫)を山頭火と読み比べてみて面白かったのですが、「何の骨だと思う」(せきしろ)とか、ぱっと問いを突きつけて去っていく、こうしたかたちは川柳の世界にもあって、そういう不気味さとか怖さというのを主なテーマとして現代川柳があるんです。

 せきしろ そうなんですか!

 柳本 現代川柳に「干からびた君が好きだよ連れて行く」(竹井紫乙句集『ひよこ』)という句があるのですが、そのような句があったり、せきしろさんの本にも「第九の中ひとり年末」(せきしろ)という句がありますが、どこか暗さがある。山頭火もよく、いつでも死ねると言っていて、そういう暗さからはじめられるというところも魅力だと思います。

 せきしろ そう、暗いですよね。でも自由律はそういう言語化しづらい部分を言葉にできるというか、例えば今いるこの場所でも窓のブラインドが曲がってたりするのに気づいて、そういうことを言いたくなってそこで句が生まれる。そういうことなのかなと思います。柳本さんは小説の最後の一文が好きということですが、僕もそうで僕の場合は書き出しが好きで、自分の書いた句は割と前後を想像させるものが多いと思うんです。意識はしていないのですが書き出しに近いのかもしれないですね。

 柳本 ある意味、小説を圧縮して一行にしたようなところがあるということでしょうか。

 せきしろ そうですね。確かに投げっぱなしではあるのですが(笑)。

 柳本 せきしろさんも又吉さんも、小説を書いたり散文を書いたりされていますが、せきしろさんの『逡巡』(新潮社)は超短編小説みたいだと思いました。俳句のように圧縮されたものを解凍するとああいう感じになるのかなと。山頭火も散文をすごくたくさん書いていましたけれど、どこかで自由律と散文と行き来しているところがあるんでしょうか。

 せきしろ 僕の場合、散文は自由律から派生して作れると自分では感じていて、例えば自由律を一〇〇作ったら散文も一〇〇本できると考えています。山頭火に散文が多いのもそういうことなのかなと思ったりしました。


どうしようもないわたし/山頭火VS放哉

 柳本 山頭火の生き方を見ていて思ったのですが、僕も大学院を辞めたり職場を辞めたりしているんですけど、山頭火も大学を辞めて図書館に勤めてもまた辞めたり、母親と弟を自殺で亡くしたりしています。「どうしようもないわたしが歩いてゐる」(山頭火)という句がありますが、どうしようもないものを文章にすると本当にどうしようもないものがそのまま出てしまうのですが、自由律だとパッといってすぐ戻ってこないといけないので、そこでそのどうしようもなさがどこか変わる。自由律にすることでバランスが取れるというか、ある意味バランスが取れる表現が句になる。ですから山頭火の句だけを見ていると、山頭火の人生のそのどうしようもない感がわからないような気がしました。

 せきしろ 僕は高校生の頃に山頭火と出会って少し読んだときに、実はあまり好きではなかったんです。なんというか相田みつをとまではいわないまでも誰かに見られることを意識して書いているような、ああいう匂いがちょっとしたときに最初は拒否してしまいましたね。今はもういい大人なので受け入れますけど、僕はやっぱり山頭火より尾崎放哉の方が好きだったんです。例えば、お店に色紙が飾られたとき、共感を得て違和感がないのが山頭火で、飾っても何のことだかわからないのが放哉だと思うんですけど、山頭火はポジティブとはいわないけどそういう感じがあって、そこが支持されるところかと思うんです。言葉は悪いですけど、良くも悪くも一般に受け入れられやすいなとも思います。でも改めて読むと実は違っていて全部がそういうわけではない。僕の若いときみたいにもしかしたら拒否してる人もいるかもしれないけれど、全集を読むとそうではないということがすごくわかります。

 柳本 多分山頭火の代表句があまりにも有名になりすぎてその印象が強くなっているんですね。今回新たに全集が刊行されて、読み直してみたら意外な山頭火がいた。一人で歩き続けている人かと思ってたんですが、割と人に会いたい人で、誰かに会えたとかそういうこともたくさん書いている。

 せきしろ 意外と人がまわりにいる人なんですよね。

 柳本 以前読んだ山頭火の本の解説で伊集院静さんがこの人はやはり誰かに会いたい人だったんじゃないかということを書いていて、そういう視点で読むと全然違う山頭火が出てくるのかなと思います。先程せきしろさんが山頭火と放哉の違いについて色紙に喩えてお話しされましたが、山頭火ってラーメン屋の名前にもなっていますよね。でも放哉はラーメン屋の名前になっていない。

 せきしろ 放哉っていう名前のラーメン屋には行きたくない(笑)。

 柳本 ですから、ラーメン道といいますけどやっぱり山頭火は道に近くて、「らーめん放哉」だと道にならないというか(笑)。「咳をしても一人」は放哉の代表句ですが、山頭火だと「鴉啼いて私も一人」で、カラスも一緒にいる感覚や、誰かも一人だけど私も一人みたいな。山頭火はみんなに囲まれている人なんだけれど、放哉だと本当にきっぱり一人というところがあって、そこらへんが山頭火との違いかなと思います。

 せきしろ 「まつすぐな道でさみしい」は山頭火の代表句ですが、そのさみしい感覚を得るのが山頭火だと思います。僕が高校生のときにはその感覚は理解できなかったのですが、今だとわかります。やっぱりさみしがりやで絶えず誰かを求めてる感じはあるのかな。

 柳本 さみしいとかきみに会いたい的なものが見え隠れするというのはちょっとポップな感覚なんでしょうか。甘さともいえるのかもしれないけれど。基本、俳句は風景なのであまり俳句で会いたいとか好きだとかは出てこないんです。「きみに会いたい」のだけれど「きみのために歩く」みたいにはならない。これだけ歩いてるならどんどん人に会いにいけばいいようなものなんだけれど、そこはバランス感覚で自分の道みたいなものを限定してる感じがします。


「ステイわたし」/「いまここ」を宝物に

 柳本 今はコロナ禍でリモートワークしながら自分の生活を見直したり過去を見つめ直したりしている人が多いと思うのですが、考えてみれば山頭火もこの頃すでに自主的リモートというか、ステイホームじゃないんですけど「ステイわたし」で、ずっと一人でいるしかなかったようなところから作品を作っていたのかなと思います。そのときに山頭火がしたことが歩くとか風とか水とか「いまここ」にあるものを宝物にするということだったような気がして、山頭火はすでに「いまここ」しかなくて「ステイわたし」の状態でいるしかなかった。そういうリモート感覚があるのかなという気がしました。

 せきしろ コロナウイルスによって、世間のいろんなことが流動的になって、それにあわせて僕も柔軟にはなったんですけど、同じような感覚を山頭火から僕はすごく感じるんです。彼の生き方自体はいいとは思わないし、そのまま真似する必要もないんですけど、具体的に言えば仕事もリモートでいいし連絡はメールでいいんだとか何でもいい。そういう柔軟性、リモートっぽさは山頭火にあります。

 柳本 みんなマスクをしているのもそうだし、夜の街を歩いてたときに自警団みたいな人たちもいて、何か社会が「みんな化」するように感じていて、昔観た映画に似ているなと思ったんです。確かキェシロフスキ監督の『偶然』(一九八一年)という映画だったと思いますが、みんなが同じ行動をしているのに、次の日(突然検挙があったりして)誰かがいなくなったりしている。それが今のコロナの日々と重なりました。

 せきしろ その映画は僕もどこかで観た気がします。

 柳本 そういう「みんな化」する社会の中でみんなに溶け合わないかたちで「ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない」(山頭火)なんですけど、そうした自分の姿勢をみんなに混ぜ合わせないで持っていく強さのようなものを山頭火からは教えてもらえるのかもしれません。全集には戦争の句も少し入っていますが、山頭火は銃後から句を作っていて、マッチョな感じにもなれなくて、社会から外れて働いてもいなくて、そうした外れた視線をずっと持っていたのではないかと思います。このコロナ禍の中で山頭火を読むと上から何か言うわけでもなく、下から卑屈に言うわけでもなく、すごくバランスよくものを言うし、山頭火の作品の材料は全部「いまここ」にあるものなので、そこが一つ魂のワクチンみたいなものとして機能するような気がするんです。山頭火はよく詩を書くんだといっていましたが、自由律もそうですが季語や定型がなくて、「いまここ」にいる私が理由になるしかない。でもそのことで「いまここ」というのが実は宝物なんだよということを教えてくれているような気がしました。


山頭火にスマホを持たせたら?/山頭火と愛

 せきしろ もし現代に山頭火がいたらツイッターなんかめちゃめちゃ更新するんじゃないですか。山頭火にスマホを持たせたら景色も撮ってると思うし、妄想ですが(笑)。でも山頭火は日記を燃やしてるんですよね。だから割とブログも消しちゃうと思うんです。そこでまたなんで消したのっていうところを気にしてもらいたいタイプ。

 柳本 SNSで炎上したり誰かと喧嘩したりするのはどうでしょうね。

 せきしろ 荒れたら消してるタイプだと思うんですけど、どうなんですかね。逆に放哉さんなんかはまるっきり更新しない。

 柳本 山頭火は誰かからDMが来ると「ちょっとお金貸してもらえないか」とか別の感じでSNSを使うような気もして、僕は山頭火ってすごくバランス感覚があるような気がするんです。句にはうらぶれた感じとかものすごい悩んでるとか死にそうな感じが出てなくて割とすました感じがあって、山頭火の句や書いたものをあわせて読むとバランス感覚の教科書として読めるんじゃないかなと。あと、山頭火にとって愛ってどういうことだったのかなと少し思って、山頭火は自分は女の人の愛がよくわからないみたいなことも書いていて、手紙では女の人を買っちゃいましたとか出てくるんだけど、あまり女の人が出てこない。

 せきしろ 確かに山頭火と愛ってあまりないですね。

 柳本 山頭火の写真を見ると丸眼鏡をかけて愛される感じで、最初にせきしろさんが仰ったように一般的なことを書いていて過激なことは書かない。ジェンダー的、フェミニズム的にもあまり問題がなさそうだし、そこらへんも愛される理由だったのかもしれません。

 せきしろ 言ってみれば自己プロデュース力ですよね。写真に撮られるときも傘をかぶったりして自己プロデュース力が高い。

 柳本 俳句には「おそるべき君等の乳房夏来る」(西東三鬼)とか、乳房の句も結構ありますが、山頭火はそういうものも書かないし、電車を止めたという逸話もあるのに電車もまったく出てこない。「ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯」(山頭火)もありますが、そんなふうにわりと等価というか、男もいるし女もいるしみんなお風呂に入ってるみたいな。酔ってコオロギと寝てるとかカエルになるとか、いろんなものと自分が交換可能で、山頭火はあまり偏りがなかったのかもしれません。

 せきしろ そこまで考えたことはなかったですが、そういわれると確かにそうですね。でも「蛙になりきつて跳ぶ」(山頭火)はちょっと狙ってますよね。「こんなことしてるけど俺はどう?」みたいな。それも魅力なのか、甘え上手というか。


山頭火とわたし、そしてあなた

 せきしろ 僕はいつか自伝を出したときに、ここでこういうことがあった方がいいかなとか考えながら選択して生きてきてるんですけど、その要素がいっぱいある人だなあとうらやましいですけどね。山頭火は生活をガラリと変えるじゃないですか。僕はそういうふうに環境が変わることに抵抗があるのですが、そういうことをどんどんやっているところは評価してしまいます。ロックスター的な生き方で何回か自殺もしていて、真似したいとは思わないですけど、そういうエピソードがあるのはすごいし正直羨ましいとも思います。僕も今回こういう場で柳本さんに出会って川柳にも触れてみようとさっそく思いましたが、詩歌っていうのはそういうふうに何もなくても今すぐにでもやろうと思えばできることなんですよ。小説とは違って。多分世の中には自分でわかってないけど詩歌の才能がある人がすごくたくさんいると思うんです。

 柳本 せきしろさんが仰ったように、詩歌って普段の暮らしの中で表現しちゃってる人たちがたくさんいて、それに気づくか気づかないかだと思うんです。

 せきしろ もしかしたら自由律俳句が一番入りやすい入口、きっかけになるかもしれませんね。言葉はよくないですけど何でもいいという感じが自由律にはあって、何でもいいというのは悪い意味ではなくて、悶々としている若者がいたときにこの句を読んで、「こんな作品でいいんだ」とか「これなら俺もできるんじゃないか」とか感じられるのではないかと思うし、僕もそういうふうに思いながら生きてたので、山頭火はそういう気づきを与える人ではあるなと思います。

 柳本 ラジオとか車内広告とか本のタイトルとか、自由律だと思って見ればいろんなところで自由律のようなものがあって、いろんなところとつながっている。だから自由律って実はジャンルで括れなくて、液状に広がっているものじゃないかと思います。

 せきしろ この全集が詩歌に目覚めるきっかけになるかもしれませんね。本当にそう思います。僕はたまたまそれが国語便覧だったのですけれど。

 柳本 短歌やってるっていうと、烏帽子かぶって神主みたいな格好して和歌を詠んでるみたいに思われたりする。でも本当に電話で喋るような詩、「けふもいちにち風をあるいてきた」(山頭火)にしても、ユーチューバーが「今日も一日風をあるいてきました」と言っても一行詩みたいな感じで不自然じゃないし、時代も感じない。

 せきしろ やはり詩歌は普遍的なことをテーマにしていますからね。この対談で山頭火に興味を持って、自由律俳句をやってみたいと思う人がいたら僕は歓迎したいと思います。(おわり)

★せきしろ=文筆家・自由律俳句俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』、又吉直樹との共著に『蕎麦湯が来ない』など。一九七〇年生。
Twitter:@sekishiro

せきしろ選
■「何が何やらみんな咲いてゐる」(山頭火)

 山頭火の句で「何が何やらみんな咲いてゐる」という句が僕は好きですね。山頭火の句は絶えず動いているイメージがあるんですけど、動きを感じない立ち止まった句です。「よろ〳〵歩いて故郷の方へ」も好きで、動いているようで実は気持ちだけという印象があります。将来自分がこの状態になる気がして、その時また思い出すんだろうなと思います。あとはトンボが出てくるイメージもあります。水が出てくる句も多いですね。(せきしろ)

★やぎもと・もともと=川柳作家・詩人。第57回現代詩手帖賞。著書に『バームクーヘンでわたしは眠った もともとの川柳日記』。一九八二年生。春陽堂書店公式サイトで「もともと予報-ことばの風吹く」連載中。

柳本々々選
■「どうしようもないわたしが歩いてゐる」(山頭火)

 僕はいつも表現を考えるときにエネルギーを単位に考えていて、山頭火を読み直して今回思ったのは、自分がすべて失って終わったとしてもまだ文学ってはじめられるということで、山頭火のこの句は今日はじめることの文学というのを手渡してもらえるような、どうしようもないわたしでも文学をはじめられるというところが山頭火を読んで救いを感じるところです。山頭火はゼロからの文学をずっとやっているような人のような気がします。(柳本)