十年を経て、突き付けられる問い

対談 金田諦應×島薗 進

『東日本大震災 3・11 生と死のはざまで』(春秋社)刊行を機に

 二〇一一年三月一一日午後二時四十六分、東北地方を中心に観測史上最大となる巨大地震が発生した。未曾有の被害を引き起こした、東日本大震災である。震災から十年目となる今年、金田諦應氏(曹洞宗・通大寺住職)が『東日本大震災 3・11 生と死のはざまで』(春秋社)を上梓した。あの震災は、原発事故は、われわれに何を問いかけているのか。刊行を機に、島薗進氏(東京大学名誉教授・宗教学)と対談をお願いした。本号六面に〈10年目の「3・11」〉広告企画として震災関連書籍の紹介と和合亮一氏のエッセイを掲載。(編集部)
≪週刊読書人2021年3月5日号掲載≫


きっかけのシンポジウム/カフェデモンク誕生

 金田 最初に、刊行までの経緯をお話します。一昨年、医療者と宗教者が集まるシンポジウムが慶應義塾大学でありました。私も呼ばれたので、傾聴移動喫茶「カフェ・デ・モンク」の活動や、在宅緩和ケアの先駆者であった故・岡部健医師の話をしました。東日本大震災後、様々な物語が交叉し、そこから更に新しい物語が生まれましたが、一時間ほどの講演時間では、切り取った一部分しかお話することができません。出来事の背景の、さらに後ろにある物語を六〇分の講演ではとても伝えきれないもどかしさが残ります。その様子を感じ取った春秋社の編集者が近づいてきて、「金田さん、話し足りないんじゃないですか。話せなかった部分を本にしませんか」と耳元で囁きました。この十年に及ぶ体験を文字化するのは大変な作業だと直感して、即答はできませんでしたが、二つの理由でお受けすることにしました。

 カフェデモンクは発災後から、瓦礫の中避難所仮設住宅そして復興住宅へと移動を続けました。その中で私たちは、大切な人や大事な財産を失い心が動かなくなった人々や、原発事故に怯えている多くの人々に出会った。そして、その方たちが苦しみ悲しみの中から立ち上がっていく様子を、傍らで見聞きすることができたのです。人が立ち上がり前を向いて歩き始める時、そこには神々しい命の輝きがあります。長い時間その傍らに居る事を許された者として、その様子を何らかの形で世界に伝え、後世に残すことは私たちの使命であり、その方たちへの敬意だと思いました。執筆を決意した、一つ目の理由です。

 そして二つ目です。震災から五年目の年、高野山でカフェデモンクを開きました。その際、高野山奥の院に建っている東日本大震災供養塔の中に、私たちの想いを込めたガラスの塊を納めました。日本総菩提所である高野山に、一先ず背負っている荷物を降ろし、身を軽くしたかったからです。同じように活動十年目を迎え、それまでの様々な想いを一冊にまとめ、五年目と同じように肩から荷を下ろし、次の新しい段階へ進みたかったのです。

 島薗 きっかけとなったシンポジウムには、私も参加していました。たくさんの写真、スライドの中から数枚を選び出し、話す金田さんの姿を、今でも覚えています。被災者でもあり、支援者でもあった金田さんの経験が、何かの形でまとまるといい。当時からそう思っていたので、書籍を受け取ってすぐに最後まで読ませていただきました。ここに書かれていることが、金田さんが体験したことのすべてではない。それは重々承知していますが、断片的に少しずつ報告されていたカフェデモンクの支援活動が、本書でかなり見えてきた気がします。新聞報道では、早い時期から宗教者の働きが伝えられていました。それを見て、東日本大震災の支援活動に宗教者とともに関われないかと考えていた、私のような宗教研究者は何人もいた。そういう人にとっては、日本文化における宗教の意味や、重要性を解き明かす手助けになる「待望の本」だと思います。

 対談の前日(二月一三日)の夜にも、余震がありました。東京も震度4だったので、かなり大きな揺れだった。十年経ってなお、あの時の余震が発生するとは、やはり自然は恐ろしいですね。東日本大震災の発生時、私は日本にいなかったので、改めて金田さんの被災経験とカフェデモンクの活動についてお話しください。

 金田 地震が起きた時、私は自分の部屋にいました。今までとは明らかに違う大きな揺れは、地球全体が揺れているようだった。停電の直前、テレビでは高さ六メートルを超える津波が来ていることを告げていました。リアス式海岸では、津波の高さは二倍にも三倍にもなります。海岸線を熟知している私は、「多くの人が死ぬ」と直感しました。けれど、事態はもっと酷かった。翌日、復旧したテレビが映し出したのは制御不能に陥った福島第一原子力発電所と、故郷を追われる住民の姿です。あんなに恐怖を感じたことはありません。もちろん津波や地震は恐ろしいですが、目に見えない放射能の方がはるかに恐ろしかった。

 発災一週間後、遺体が内陸部の火葬場に運ばれ荼毘に伏される事になり、行政と慎重に掛け合って火葬場での読経ボランティア、震災から四十九日目には、僧侶一〇名と牧師一名で四十九日犠牲者追悼行脚を行い、その後は法衣を脱いでうどんの炊き出しへと活動が動き出します。そこで私たちが目の当たりにしたのは、静謐で残酷な生と死、故郷を失った人々、そして凍り付いた心と、未来への物語が紡げなくなった人々の姿でした。私たち宗教者は、何ができるのか。日々悶々と考え、そして辿り着いたのが「傾聴」活動でした。人間は語ることによって、内に秘めた生への力と客観的に事態を観る力が湧いてきます。こちらから出向いて「聴く」空間を作ろうと思い、スタッフを集め、カフェデモンクが誕生しました。私たちは特製ケーキと飲み物、音楽や花、お香を用意して、避難所を巡ることにしました。この震災に向き合う為には教団や教理の枠組みを飛び出さなくてはならない。それまでの肩書を捨て、素手素足で歩く。これが、私たちの覚悟でした。しかしながら、作務衣を着ていますから、私たちがお坊さんの集団ということは、なんとなく分かったかもしれません。被災地での活動は、避難所にせよ仮設住宅にせよ、公共空間です。そこでは、布教と誤解される行為は厳に慎まなければならない。公共空間で活動するための配慮として、スタッフにはニックネームをつけ、本名は名乗らないことにしました。ちなみに私は風貌から、「ガンジー金田」を名乗った。「金田さんは、どこから来たお坊さんですか」。そう問われたときは、「風上から来た、だから帰るのは風下かな」と答えていましたね。場合によっては、インドと答えたこともあった(笑)。目の前の出来事を教理・教義のフレームに収めてしまうと、現場を見失ってしまう恐れがあります。ニックネームを使うことは、宗教を超えた大きな視点で現場を見るという自分たちへの戒めであり、また、同時に現場をほぐしていく遊び心にもなりました。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます



★かねた・たいおう=曹洞宗・通大寺住職。傾聴移動喫茶「カフェ・デ・モンク」主宰。日本臨床宗教師会副会長。日本スピリチュアルケア学会会員。著書に『傾聴のコツ』など。一九五六年生。

★しまぞの・すすむ=東京大学名誉教授・上智大学特任教授・グリーフケア研究所所長・宗教学・近代日本宗教史・死生学。著書に『宗教を物語でほどく』『宗教ってなんだろう?』など。一九四八年生。