実利に基づく平和思想を唱えた人

『石橋湛山の経済政策思想』(日本評論社)刊行を機に

対談=原田泰×和田みき子

PART1

 石橋湛山(1884~1973)は戦前、ジャーナリスト、エコノミストとして活躍し、東洋経済新報社の経営者としても手腕を奮い、戦後は政治家として蔵相、通産相、首相を務めた人物である。ここまでが教科書的な紹介になるだろう。あるいは戦前~戦後期の歴史に関心がある人ならば、石橋が唱えた「小日本主義」にも聞き覚えがあるかもしれない。

 では石橋湛山はどのような経済政策を論じ、どのような意味を持っていたのか。当時のデータや多くの文献から丹念に紐解いた『石橋湛山の経済政策思想 経済分析の帰結としての自由主義、民主主義、平和主義』(日本評論社刊)が刊行された。

 昭和恐慌の正しい理解と対処法とは。戦後インフレの原因は石橋の責任だったのか。本書著者で名古屋商科大学ビジネススクール教授、前日本銀行政策委員会審議委員の原田泰氏と明治学院大学社会学部付属研究所研究員の和田みき子氏に対談いただき、今日の石橋湛山理解を巡る諸問題などを話し合ってもらった。また昨年発表された両氏による論文「コロナ感染症と石橋湛山の医療体制論」(『自由思想』157号)に関連する話題も本対談後半部に掲載した。(編集部)

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理解が広がらない石橋湛山の業績と思想

 原田 私の石橋湛山に対する理解は、戦前の金本位制への旧平価、つまり為替を切り上げての復帰に反対していたエコノミストであり、また戦後、非常に短期間ながら総理大臣も務めた人物である、と。当初はそれぐらいの理解でした。ところが石橋の昭和恐慌、あるいは世界大恐慌と金本位制とに対する認識が、同時代のケインズや後年のミルトン・フリードマンをも上回る非常に鋭い理解だったことに気が付きました。

 金本位制をめぐる議論について日本国内の一般的な理解ということでわかりやすい例を挙げると城山三郎が書いた『男子の本懐』(新潮文庫)になるでしょう。この本の中で金本位制復帰を実現した浜口雄幸首相と井上準之助蔵相を高く評価していますよね。しかし現実には金本位制に復帰したために日本はデフレに陥り昭和恐慌になったので、とんでもない間違いです。そして未だにこの城山史観に引っ張られているのが国内の左派ではないでしょうか。日本の左派の人たちはなぜか緊縮が好きですね(笑)。世界的には左派の側が財政金融政策を拡大すべきだ、と主張しているにも関わらず。ようやく最近になって、ブレイディみかこ、松尾匡、北田暁大著『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』(亜紀書房)が刊行されて、左派の緊縮的な経済理解に対して反論を投げかけました。そういった議論が交わされる機会も増えてきましたが、まだ十分に理解が進んでいるとはいえません。

 金本位制理解以外にも石橋湛山には優れた業績や分析がたくさんありますが、それらが今日ほとんど理解されていないのは残念だという思いが、本書を書き始めたという経緯です。

 和田 私は猪間驥一という経済学者の研究をしていますが、猪間についていろいろ調べているなかで石橋湛山と密接に関わりがあったことがわかり、石橋湛山にも興味を持つようになりました。

 猪間は東大経済学部の第一期生で、物価指数方程式についての論文などを書き、講師として教鞭をとっていましたが、マルクス主義者たちによって東大から追放されてしまいます。その猪間を迎えに来たのが石橋湛山でした。猪間自身、以前から石橋のことは知っていたと思いますが、追放以後、急激に石橋の思想に影響を受けながら、石橋を支えていくことになります。戦後間もなく、石橋蔵相期の大蔵省内に在外財産調査会が秘密裏に設置され、その報告書を執筆することになった猪間は、日本及び日本人の在外財産が正常な経済活動の成果であることを示すためには、日本の歴史を記す必要があると考えます。そこで書き上げたのが『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(以下『海外活動』)でした。そこには、石橋の経済思想が色濃く反映され、日本を良い方向に導いたのが石橋の言論活動であったことが示唆されています。ただ、その報告書はマルクス主義者の大内兵衛の手によって日の目を見る機会は失われてしまいました。

 原田 先程私が述べた石橋湛山の昭和恐慌、世界大恐慌理解を論じたのが本書の第1章です。金本位制から離脱したことによって戦前の日本経済は力強く回復しました。石橋は経済の悪化理由だけでなく好転させるための分析を行い、結果も出したので政策分析としても政策提言としても完璧だった、というわけです。

 つづく第2章はなぜ石橋の完璧な昭和恐慌理解が歴史から葬られたのか、を論じています。それは『男子の本懐』の大ヒットも要因の1つでしょうし、和田さんのお話にあったマルクス主義者たちによる部分もあるでしょう。石橋湛山は昭和恐慌、世界大恐慌の原因を経済政策の失敗によるものと分析しているわけですが、恐慌の原因を資本主義の構造的欠陥に見出すマルクス主義的理解では石橋の説を受け入れることはできないんです。そういった理解が世間一般に広がっていることも理由として考えられます。さらに、日本の経済学者のケインズ理解の歪みにも原因があることを論じたのが第3章です。石橋の昭和恐慌、世界大恐慌理解は金融政策に重点を置いています。ところが日本のケインジアンはなぜか金融政策を否定的に捉えています。それが現在もつづくケインズ理解の歪みにつながっていて、だから石橋理解もなかなか深まらないのでしょう。石橋理解が進まないことと関連して、なぜ彼の業績が低く評価されたか原因を探ったのが第4章です。石橋はインフレーショニストのレッテルを貼られ、戦後のインフレを引き起こした張本人であるかのようにいわれています。確かに彼が蔵相を務めた1年はインフレでしたが、終戦直後、極端に供給が減少し経済活動の自由が制限されている状況の中で起きたインフレを彼だけのせいにするのはいかがなものか、とを論じました。そもそも、戦後から49年までずっとインフレでした。

 第5章では以上の議論を踏まえて現在行われている金融政策を石橋湛山ならどう考えるか、を検証しました。昭和恐慌下にデフレ克服のための有益な提言をした石橋なら当然現在の金融政策に対しても高い評価を与えるだろう、ということを彼の全集に記されている様々な発言から紐解いています。

 石橋湛山の思想の根幹には人間と資本を十分に用いる、つまり両者が一生懸命働いていることが大事だ、という哲学があり、失業や不景気は悪だということを繰り返し強調していますので、そもそも緊縮的発想が嫌いなんですね(笑)。石橋の分析は学問的なテクニカル面でも非常に優れていますが、人間と資本がよく働くことに善を見出している、その理念が何よりも素晴らしいと思います。石橋の理念こそが後の高度成長の思想に結びついていたといえるのです。


戦前の人口問題と貿易問題

 原田 つづく第6章では戦後石橋湛山がはじめた傾斜生産方式がなぜ社会主義者の有沢広巳の業績になったのかについて、第7章では石橋が戦前日本の人口問題と世界貿易をどう考えていたかということを主に和田さんが論じられました。前段の話の流れから先に第7章の人口問題と関連する世界貿易について話を進めていこうと思います。

 本書中で行った分析は後ほど和田さんに詳しく語っていただきますが、まず私が前提になる部分をお話させていただきます。現在の日本は人口減少が社会問題になっていますが、戦前日本は逆に人口過剰を心配し、人口問題を解消するために海外領土や植民地が必要で、そのために強力な軍隊を編成しなければならない、という議論が盛んでした。対する石橋は経済成長によって雇用を創出し、それによって人口過剰問題は解消できると考えていました。

 当時の欧米列強は植民地を獲得することが経済的利益につながると考えていましたが、石橋は植民地経営をしたところで大して収益は上がらないし、そのために余計な軍費がかさみ経済的効果が見込めないことを立論しました。加えて彼は人道的観点からも植民地政策に反対する立場でもあったので、経済・倫理の両面で平和主義を唱えていたのです。日本は戦争に負けたことにより全ての植民地や海外領土を失いましたが、それにもかかわらず戦後は飛躍的な経済成長を果たして豊かになりましたよね。くしくも敗戦という結果が石橋の主張の正しさを証明したわけです。

 和田 石橋湛山の人口論をお話する上で外すことができない人物に上田貞次郎という経済学者がいます。前述の猪間驥一と並んで石橋と関係のあった重要人物で、私はこの上田と石橋こそ当時の自由主義経済学者の双璧だったと見ていますが、不思議なことに従来の石橋研究の中に上田という人物が登場しませんし、逆もしかりです。双方が協力関係にもあったにも関わらず、です。本書の第7章では石橋と上田が1930年代にどのように連携して、人口問題の解決を目指したか論じました。

 上田も石橋と同様に経済成長によって職が得られれば人口に過剰はない、という結論に達していました。1930年代のはじめにはまだ日本の将来人口を合理的に予測したデータがなかったので、日本の人口が急激に増加し大陸に手を伸ばすのではないか、と海外の人たちからの不当な誤解による恐怖を抱かれていました。上田は、国勢調査が開始された1920年から以降10年間の出生数が毎年210万人で静止していることを発見し、そのデータを元に将来的に日本の人口は8000万人程度で静止するだろうと予測しました。ただ、乳児死亡率の低減等もあり、これは結果的に誤りだったわけですが。

 当時の日本の人口増加問題に対して、海外の経済学者や人口学者からは移民は現実的な対策でないと予め議論から除かれた上で産児制限が提案されましたが、上田はこの提案に対して「これは産児制限ではいかんともしがたい、なぜなら、生産年齢人口はすでに生まれてしまっているから」と主張します。これはどういうことかというと、これから生まれる子供は、産児制限等で減らすことができるが、すでに生れている子供たちは、これから20年間、次々と生産年齢人口に参入していく。これはどうにもならない。そのこれから増加する生産年齢人口1000万のうち、少なくても女性を除くこの半数に対しては確実に職を与える必要がある、と説明をしました。この主張が1933年夏のバンフ太平洋会議において発表されて、「要職人口1000万」というスローガンが新聞の見出しにもなり世界に発信されました。上田の発表は人口増加の圧力で満州事変のようなことが再び起こらないことを願っている海外の人たちから歓迎されたのです。

 上田はその3年後の1936年、二・二六事件直後に開催されたヨセミテ会議でも同様の主張を続けます。その頃、日本が軍国主義を加速させて大陸政策を推進するのではないか、という疑惑もさらに広がっていた最中だったので、上田も苦戦を強いられましたが、日本への市場開放を求めるその主張が一定程度の理解を得て、翌年初頭に日米綿業協定の成立という、貿易政策上の大きな成果をもたらしました。

 ヨセミテ会議の1ヶ月後、石橋は上田を後押しする意味で「世界開放主義」を発表します。これは「貿易に関する限り植民地を完全な独立国とみなす」、という保護主義を強めている英連邦を念頭においた提唱です。これが国際連盟原料品委員会における日本代表の資源再分配の1試案としてコンゴー盆地条約、東部アフリカの各植民地に対する各国の利害を調整するために生まれた条約の精神の適用を求める訴えとなって結実します。戦前の2人の働きによって人口増加問題に伴う海外からの誤解を解き、合わせて日本の貿易政策の拡充につながった、というここまでの話は、実は従来の研究の中であまり語られてきませんでした。

 以上の人口増加問題や貿易の議論を踏また上で今回の石橋湛山研究で得られた最も重要な結論は、日本の輸出は世界の利益を奪っていなかった、という事実の確認でした。1931年12月に犬養内閣が成立して高橋是清蔵相がただちに金輸出再禁止を断行して、日本は世界恐慌の不況から世界に先駆けて立ち直りました。その勢いをもって日本は不当に輸出を伸ばしたと語られてきましたが、ドル建てに直したデータで世界全体の輸出のシェアを見ると、日本の輸出のシェアは3%からせいぜい4%に上昇しているだけでした。ここが理解されずに当時ソーシャル・ダンピングといった声も上がり、人口増加問題に対する恐怖も重なって日本には批判が集中しました。ところが日本は「入超」つまり貿易赤字の状態が続いていたのです。これは自国の景気回復のために輸出だけでなく輸入も同時に拡大をしていたということの証明にもなります。ですから当時の世界経済の回復のために日本は多大な貢献していた、と言い換えることができますね。

 原田 1930年代の日本の輸出は世界的に大変評判が悪かったとされていますね。1931年が当時の世界経済のボトムで、その年と比較して日本の輸出が3倍近く増えているというデータが良く出てきます。しかし、それはあくまでこの時期下落していた日本円で換算した数値であり、ドル建てで見ると横ばいです。このことを石橋湛山はきちんと指摘していたのですが、国内の右派は欧米列強による日本の輸出を妨害するための日本バッシングだと被害妄想的な論じ方をし、左派側は和田さんがおっしゃったソーシャル・ダンピング、つまり日本人の生活水準を犠牲にした輸出量増加だと批判しました。しかし、そもそも両者の主張は事実ではなかったのです。当時、日本は綿織物の輸出を伸ばして、そのためにイギリスがさかんにケチをつけてきましたが、同時期にイギリスから機械などの工業製品を大量に輸入していました。ちなみに私が最近見学したある造船所では1920年代か30年代にイギリスから輸入したクレーンが現在も使われていました。この時代のイギリスの工業力は圧倒的で、日本はまだまだでしたから上等な機械製品を輸入する必要があった。だからいくら輸出を拡大しても貿易赤字は続いていた、ということです。貿易相手国の一部の業者からの反発はあったでしょうが、他方で日本はいいお客さんでした。石橋の貿易をめぐる議論にはこのあたりの分析もきちんと含まれています。