アーカイブと図書館を知り、よりよく活かす

対談=根本彰・田村俊作

『アーカイブの思想』(みすず書房)刊行を機に

 東京大学名誉教授で図書館情報学を専門とする根本彰氏が、『アーカイブの思想 言葉を知に変える仕組み』(みすず書房)を上梓した。言葉がどのように記録され、集められ、広められてきたか。その仕組みは社会でどのように求められ、形づくられてきたか。アーカイブと図書館、知の在り方と方法に着目してその系譜を辿るとともに、その活かし方も考察している。刊行を機に、著者の根本氏と、慶應義塾大学名誉教授で図書館情報学を専門とする田村俊作氏に対談をお願いした。お二人の研究、アーカイブと図書館の現状と可能性、また独学などについて幅広くお話をうかがった。(編集部)
≪週刊読書人2021年4月9日号掲載≫


アーカイブと図書館情報学

 根本 本書は、慶應義塾大学文学部の「図書館・情報学」専攻で、二〇二〇年四月からオンラインで行った一〇回の講義を基にしています。日本で図書館の位置づけが低いことに疑問をもち、いままでの仕事でも自分なりの解決策を出してきました。西洋と日本において、図書館、アーカイブの位置づけがどのように違うのか、なぜ違うのかを明らかにするために、西洋思想の源流から見ていくことにしました。

 田村 根本さんのその発想は、私が監訳した、デビット・ボーデン、リン・ロビンソンの共著『図書館情報学概論』に近いと思います。つまり、書物からだけでは、図書館の意義がうまく説明できない。それを超えた知の大きな枠組みから説き始めないと、図書館の意義が見えてこないということです。

 最初に『アーカイブの思想』というタイトルを見たときに、正直に言ってどういう意味なのかがよくわかりませんでした。どうして「図書館の思想」ではなく、このタイトルを選ばれたのでしょうか。そのあたりから説明していただければと思います。

 根本 近年はデジタルアーカイブが話題になっていて、行政機関として二〇二一年九月にデジタル庁が発足する予定です。一般的に考えられているデジタルアーカイブは、写真や音楽、映像や美術作品などです。問題は、あるネットワークやアーカイブの装置を作ったとして、そこにいったいどんなコンテンツを流すのかということです。

 いろいろなコンテンツのなかでも、言葉で表現されたものをどう処理するかということが、図書館情報学の中心的課題のひとつだと思っています。アメリカの図書館情報学では、一九六〇年代ごろからそのことが問題になっていました。日本では、デジタルアーカイブのなかでも、とくに書き言葉に関わる部分があまり議論されていません。

 本書はアーカイブという用語を、「後から振り返るために知を蓄積して利用できるようにする仕組みないしはそうしてできた利用可能な知の蓄積」と定義しています。その複数形のアーカイブズは、文書や記録、またそれらを管理する文書館を意味します。本書では、より広い文脈でアーカイブの議論をするなかで、図書館の問題を考えていきました。本書の議論の全体像を示すために、「アーカイブ」という言葉をタイトルに選びました。

 日本で図書館や公文書館が重要な機関であることが理解されにくいのは、言葉がアーカイブ化されることによって操作可能なものに変わるというのが西洋の思想の根底にあることが受け入れられていないからだと考えます。図書館情報学はこの操作のための分野です。それは、言葉をそのまま受け入れるものであることが前提となった日本の思想との違いです。本書の中心的な主題は、西洋思想の流れを探り、それと直面した日本の近代化の過程でこのアーカイブの部分を軽視したことを描き出すことに当てました。

 田村 本書で根本さんは、記録・文書の類と、複製されたり編集されたりしたものとしての書物を区別しています。人々の活動の中で記録や文書が生み出される。その中で、後で参照される可能性のあるものがキュレート(編集)され、アーカイブとして残される。さらに、人々に広く伝えられるべきものは複製されて書物となる、そのように理解できるでしょうか。西洋では、記録・文書をキュレートし保存するものとしての文書館、保存するとともに伝え広めるものとしての図書館という、それぞれの機能が明確化されてきたように思います。

 デジタルのインフラの整備が進むなかで、メディアも再編成されてきています。記録・文書と書物と分けられていたものが、デジタル化によって同一レベルで扱いうるようになりました。そういう背景から、アーカイブや図書館の役割が再定義される必要があると思います。

 根本さんの本で興味深いのは、その再定義の際に、そのベースとなる知の系譜学が示されていることです。副題にある「言葉を知に変える」方法が、古代ギリシアのころから考えられてきたのではないか、と。そこから語り始めているところに共感しました。

 根本 やや戦略的に、そういう方法を選んでいるという面があります。慶應義塾大学文学部の「図書館・情報学」専攻で扱われるのは、図書館を運営していくための技術的な要素が中心です。アメリカのライブラリー・スクールも、大学院レベルでの職業人養成コースです。いまはデジタル化の流れを受けて、図書館情報学の授業も多様化していますが、基本的には図書館員を養成するカリキュラムになっています。

 問題は、ほかの分野との接合がないことです。書物の歴史、書誌学とのつながりを含めて、図書館情報学は人文学全体とかかわる分野ですが、人文学の考古学の部分がほとんど無視されていたと言っていいと思います。図書館情報学を見直していくと、その内容はどうしても古代ギリシアに遡らざるをえません。人文学の基礎的なところから説き起こさなければ、説得力がないのではないでしょうか。図書館は歴史的にどういうふうに位置づけられてきたのか。日本では、その点を省略して制度化しようとしたから、図書館の位置づけがあいまいなのではないかと思っています。

 アメリカの大学のようにリベラルアーツをきちんとやれば、図書館情報学と人文学が自然につながるはずなんです。本書に書いたように、人文学の系譜のなかから、一種の技術学として出てきた書誌学、文献学、考証学は、一九世紀になって職業化します。その系譜に現在の司書(図書館員)も位置づけられます。日本ではそういうつながりがほとんど意識されていないと思います。本書では、そのことをもう一度まとまった形で確認しようと試みました。個別の議論を取り出せば新しくないのですが、そういう視点から図書館情報学を再構成してみることで、面白い議論ができたのではないかと感じています。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます



★ねもと・あきら=東京大学名誉教授・図書館情報学・教育学。博士(図書館・情報学)。東京大学大学院教育学研究科教授、慶應義塾大学文学部教授等を務めた。著書に『理想の図書館とは何か』など。一九五四年生。

★たむら・しゅんさく=慶應義塾大学名誉教授・図書館情報学。慶應義塾大学文学部教授、同大メディアセンター所長等を務めた。共編著に『公共図書館の冒険』など。一九四九年生。