東京と生活史に導かれて

対談=岸政彦×古田徹也

岸政彦編『東京の生活史』(筑摩書房)刊行を機に



 社会学者で立命館大学教授の岸政彦氏の編著『東京の生活史』が、筑摩書房より刊行された。東京の生活史を編むというプロジェクト、二段組で一二〇〇頁超という圧倒的なスケールで反響を呼んでいる。本書では一五〇人の聞き手が、東京と関わる、語り手ひとりひとりの固有の人生の足跡を聞き取っていく。刊行を機に、編者の岸氏と、ウィトゲンシュタインをはじめ現代哲学・倫理学を研究する東京大学准教授の古田徹也氏に対談していただいた。(編集部)
≪週刊読書人2021年11月19日号掲載≫


他者理解とウィトゲンシュタイン

  古田さんにお聞きしたいことはたくさんあります。社会学者がウィトゲンシュタインを読むとき、基本的には言語ゲームを中心に読みます。簡単に言えば、ある言葉や生活形式を本当に理解できているかどうかは、周りの人々の認定や相互行為のなかで決まる、と。ところが、古田さんは『言葉の魂の哲学』で、言葉が生命をもって生き生きと際立ってくること、あるいは言葉が生命を失って死んだようなものになることを問題としています。「魂」という表現を使うときに、躊躇はなかったですか。あの問題設定にはすごく勇気がいると思います。ともすれば素朴な本質主義とも捉えられかねないと思いましたが。あれは分析哲学のなかではどう受け入れられるのでしょうか。

 古田 私の場合、半分は分析哲学に足を入れつつ、もう半分はそうではないと思っています。『言葉の魂の哲学』でも、カール・クラウスやホーフマンスタールなども大々的に取り上げていますし。もちろん、言葉の「魂」といっても、それこそオカルト的な方向に行くのではなく、分析哲学の議論の俎上に載せても耐えられる議論にしなければいけないと思って書きましたが。

  「魂」という言葉がタイトルに入っているので、勘違いして手に取る人もいるでしょう。

 古田 むしろ、怪しんで手に取らなかった人も多いと思います(笑)。

  (笑)。他者理解を考えるうえで、社会学の質的調査でも、一度はウィトゲンシュタインを通った方がいいと思うんですよ。たとえば、ある人がお腹が痛いと言っているときに、本当に痛いかどうかということがどうやって分かるのか、ときどき問題になります。でもね、二〇年以上一緒にいる私の連れあいが、よくお腹が痛いと言う。体がもともと弱いんですね。彼女がお腹が痛いと言っているときには、本当に痛いかどうかはわからないけれど、私に疑う理由がない。彼女と長い時間生活を共にしていて、事情を知っているからです。一方で、アホみたいな話ですが「お腹が痛い人には大学の授業の単位をあげます」っていうことにすると、学生がみんな「お腹が痛い」と言い始める(笑)。そこには疑う理由が発生するわけです。私たちは日常的に、そういうふうに解釈していることが多いですよね。

 古田 いまのお話は、まさにウィトゲンシュタインの他者の痛みに関する議論と通じています。学校が休めたり単位をもらえたりするから「お腹が痛い」という場合は別として、普通、目の前の他者が「お腹が痛い」と言っているとき、その痛みを疑ったり留保したりせずに、また、確信したりもせずに、ただ端的に慰めようとする。そこでは、他者の痛みを感じているわけではないけれども、言うなれば、他者の痛みが見えている。そう言いたくなるし、そう言っていいのではないかと思います。

『文藝』(二〇二一年冬季号)の岸さんの論考(「聞くという経験」)に、沖縄戦を経験した男性の語りが出てきます。その男性は、沖縄戦の爆弾の破片を身に被って亡くなった祖父の「血を見なかった」という。岸さんはそこで、「血の印象を上回って、内臓の白さの記憶が残ってしまったのではないだろうか」と述べています。岸さん自身がその聞き取りのなかで「その白さを見た」というとき、おそらく、白い臓器の映像のようなものが浮かんでいるわけではない。

  そうですね。それは「白さの像」ではないです。

 古田 その「白さ」を見るということは、他者の痛みを見るということと重なる部分があるのではないかと思います。他者の痛みを想像したり感じたりするわけではなく、その他者の痛みを見ているような仕方で、岸さんは、男性が語る沖縄戦の経験に「白さ」を見ている。


生活史の語りを解釈する方向性

  他者の痛みが分かっているか、分かっていないかということではなく、その痛みを疑う理由がある状況と、疑う理由がない状況の二つに分けたほうがいいと思うんですね。

 古田さんは『言葉の魂の哲学』で、言葉の理解は、言葉の用法、使われ方の理解に還元していいのかどうかという問題を、ウィトゲンシュタインに即して論じています。そこから、ある言葉の理解には、他の言葉に置き換えることができるということと、他のどんな言葉にも置き換えることができないということの二面性が含まれるという話に展開していく。言葉の「本質」、悪い意味での「魂」を持ち出してこないという点で古田さんは一貫しています。そしてそれは、非常に長いスパンでの生活形式の共有ということが関係する。

 今回の『東京の生活史』で、聞き手の方々にお願いしたのは、語り手に「あなたにとって東京とは何ですか」とずばり聞くのはやめてほしいということでした。実はその質問をした人が一人だけいたんですが(笑)。私が大学院で院生の論文を査読するとき、社会学の質的調査の分野では、経験的かどうか、データで実証されているかどうかを過度に重視する査読者がいます。たとえば、院生がシングルマザーの聞き取りをして、この人は家族とこういう独自の付き合い方をしているから、こう名づけましょうと論文で書いたら、語り手がそれを端的に表現する言葉を言っていないから駄目だという。「あなたにとって家族とは何ですか」とちゃんと聞きなさい、と。つまり、語り手に言語化をさせて、明確な証拠を示せというわけです。

 ある人に長時間インタビューしていると、生い立ちの話に広がっていきます。そうすると、その人はこういう状況にあったんちゃうかな、全体としてこの解釈でいいのではないか、という方向性が見えてきます。拙著『同化と他者化――戦後沖縄の本土就職者たち』で、私は沖縄へのUターン経験者に「なぜUターンしたのですか」という質問をほとんどしていない。三時間ぐらい話を聞いていると、その人の人生のなかの行為がどういう意味をもってくるのか、なんとなく見えてくるのですが、そのものずばりのことを本人が言っているわけではない。だから、果たしてこれを「わかる」と言ってしまっていいのかなと思う。でもわかる気がする。そういうところでずっと悩んでいます。

 古田 「なぜUターンしたのですか」や「あなたにとって東京とは何ですか」という質問に対する答えが、本当にその語り手にとっての答えだとはかぎりません。

  そうですよね。それでは、その人にとっての本当の答えを、聞き手が「総合的に」解釈しても大丈夫なのか。そこが難しいところです。

 古田 Uターンであれば、その人があるとき東京や大阪に出てきて、そこで過ごして、その後に帰ってきたという、さらに大きな文脈のなかで、なぜその選択をしたのかを見ていくということですよね。

  まさにそうです。そういうことを聞き取りしたつもりです。

 古田 一般に、ある種の自己意識に対する幻想みたいなものがあるように思います。過去の自分を振り返って、あのとき自分はこうだからこうしたんだ、というふうに本人が出す答えこそが本当の答えだ、というような。けれども、私たちは普段、必ずしもその通りに行為を選択してなどいませんよね。かといって、勝手に体が動いているわけでもありません。私たちは、「選択」と言われているものの像を捉えなおす必要があると思います。

  そうですね。ものすごく単線的な、因果論的な説明をしたいわけではありません。その人自身の五〇年なり七〇年なりの人生全体を細かく聞いていって、その人生とともに、もう少し大きな歴史的な文脈、たとえば沖縄と本土との関係を総合的に解釈していく。先ほどの腹痛の話のように、聞き手が語りの内容を疑う理由をなくしていくということです。そのように、当座理論のすり合わせを続けていくことで、理解に到達していくのではないかと思います。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます


★きし・まさひこ=立命館大学教授・社会学。著書に『同化と他者化』『断片的なものの社会学』『マンゴーと手榴弾』『はじめての沖縄』など、共編著に『質的社会調査の方法』『地元を生きる』など。一九六七年生。

★ふるた・てつや=東京大学准教授・現代哲学・倫理学。著書に『不道徳的倫理学講義』『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』『はじめてのウィトゲンシュタイン』など、訳書にウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』など。一九七九年生。