ケアなき社会から「共同体」はいかに構想されるか

論潮〈1月〉 中村葉子(大阪府立大学客員研究員・社会学)

 新たな年の幕開けに、何を書こうかと考えを巡らしている。この間、ようやく新型コロナウィルスによる感染状況は落ち着きを見せているものの、状況が長引くにつれて、仲間と共同で取り組むさまざまな活動が生みだしづらくなっていると感じる。全体的な社会状況を見渡しても人と人とのつながりが希薄になり、孤立し困窮する人々が増大している。けれども政府はこの「危機の時代」にあっても、医療や介護、保育、教育への支援を拡充するのではなく、軍事に莫大な予算をつぎ込み、大企業を優遇し、貧富の格差を拡大し続けている。

 岡野八代は今もっとも必要とされているはずのケア(ケアとは自らの生存に必要な活動に困難を抱える人のために、必要なものを満たす活動・営み・実践であるとされる)が、社会構造的に異様に貶められ、低い報酬である要因を次のように挙げる。第一に、ケア労働(家事・育児・介護)を家父長的家制度のもとで女性に押しつけ、不可視化することでその価値を低く見積もってきた。第二に、しかしたんに女性に対応している労働だからというだけでなく、ケア労働は資本主義経済の価値基準で評価できない特徴を持つためとされる。というのは、ケア提供者はケアの受け手の個別のニーズに合わせて時間をかけてケアを提供するのであって、容易にマニュアル化できる(代替可能な)サーヴィスではない。それゆえ、ケア労働は非効率的で利潤を生み出しづらく、報酬も低くなるというわけだ。第三に、西洋政治思想史において、国家の存立にとって「何者かへの依存」は「弱さ」を際立たせるがゆえに、国家はそれ自体「自足」的であることが尊ばれ(そのため自国を防衛するための軍事安全保障体制が確立されていく)、理想の「市民」像にもこの「自足」が投影されてきた。そのためケアを受けることもそれを提供することも「市民」に相応しい活動から排除されるか、低く見積もられることとなったという(「ケア/ジェンダー/民主主義」『世界』一二月号)。

 こうした「自足」的な個人が尊重される傾向は、現在の新自由主義のもとで競争社会を生き抜くたくましい企業戦士像に引き継がれているといえるだろう。コロナ禍の中で出版された『ケア宣言』(大月書店、二〇二一年)はまさに、現在のケアのない社会は新自由主義的政策によってもたらされたものであると批判する。新自由主義的政策は、福祉国家を切り崩し、民主的な諸制度を縮減させた。またケアに「依存」する人々を、自己責任論によって非難したのである。そして自分自身に関係のあることにのみ配慮する姿勢は、世界中で右翼ポピュリズムを生み出したと説く。本書はそうした現状を覆すべく、これまでに実践されてきたケアについて取りあげている。たとえばあるコミュニティのケア・ホームは公的機関から民間企業に外部委託されたために労働環境が悪化、そこにコロナが追い討ちをかけたことで何千人もの高齢者が感染の初期の段階で亡くなった。そのため、コミュニティ独自で医療機関を所有・運営するという「ミュニシパル・ケア」が登場した。あるいは新たな連帯と相互支援にもとづくシステムが構築されようとしている(食料の無料配給、独自の製品流通網、自主運営される大学、労働者の協同組合など)。このようにケアを社会の中心に据え直すことは、市場原理のもとでの社会の破綻を目の前にして、それに気づいて対抗し、他者と共に生き抜くための変革的な行動を起こすということである。

 一方、日本の状況においてケアはどれほど重視されているのだろうか。岸田内閣によって設置された「新しい資本主義実現会議」の提言の一つに「公的部門における分配機能の強化」が盛り込まれている。これはエッセンシャルワーカー(看護師、介護士、保育士など)の賃金引き上げを行なった企業に減税措置を取るといったものである。井上智洋はこのような減税措置は対処療法に過ぎないのであって、コロナ禍での現金給付のような大胆な政府支出を行うことがインフレ率の上昇につながり、分配政策の要になるとする(「「新しい資本主義」とこれからの経済政策」『中央公論』一月号)。

 しかしながら現行の資本主義の枠内で、どれほどの変革が実現可能なのか。それは政府に求めるよりもまずわたしたちみずから見出さなければならないのではないか。昨年の夏に感染爆発が起きた時、わたしたちは命の危機を危機として感じ取ることができないほど感覚が麻痺していた。感染初期の頃、PCR検査の拡充は医療崩壊を招くという政府見解を鵜呑みにして、海外では標準的に見られた大規模なPCR検査体制、緊急の医療施設の建設がほとんど実施されることなく、結果、医療崩壊を招いたのだった。多くの助かる命が失われ、わたしたちがそれを黙認したのである。こうした事態を酒井隆史は次のように振り返る。「わたしたちのこの日本が異様だったことは、〔…〕あいかわらず医療崩壊を避けるためといった口実をそのままに、感染症対策を最低限に済ませようとしたことである。つまりそこには、人々の健康を守るための制度の現状保持のために人々の健康を犠牲にすると言った倒錯がある」。そしてわたしたちはいまだに「いまある世界以外の世界は不可能であるという揺るがせない前提と、厳格なフレームの内部で「最善」を求めるという発想」しか出来ないのである、と(「反平等という想念」『世界』一一月号)。こうした「死」が迫り来るなかで、共同で今ある資源を有効活用し、ケアに満ちた相互扶助的システムを構築できる決定的な機会をわたしたちはやすやすと放棄してしまったのかもしれない。

 ケアとは社会全体に蔓延する「病」、「死」、「生存」の危機をテコとして、他者と共に生き抜くための変革的な行為であると先に述べた。それは歴史的に見ても女性の「性と生殖に関する権利」を求めたフェミニズム運動や、HIV感染者を「乱交的ケア」によって看病したゲイ・コミュニティの実践など、具体的な形をとってあらわれてきた。現在進行中のグローバルな「災厄」においても、ケアにもとづいた「連帯」や「共同体」が構想されなければならない局面に来ているといえる。

 J=L・ナンシーが逝去したことを受けて組まれた特集を読むと、あらたな「共同体」の原理を個人主義的なものではなく、まさにケアの論理にもとづいたものとして捉えることができる。西谷修によると、ナンシーは、ハイデガーの「共存在」を踏襲しつつ、他者と「共に在る」(「分有」)ことによってはじめて、「個的主体」は存在しうるということを思考し続けたという(「〈共〉を生きるということ」『思想』一二月)。さらに西谷によれば、この「共に在る」こととは、「死」の契機において開示されるものでもあるという。「「死」において共同性があらわになり、それを受け止めることで現存在は自らの本来性に目覚める」(『週刊読書人』二〇二一年九月二四日)。これはBLM運動に寄せて考えると次のように捉えられるだろう。つまり、黒人男性の「死」は彼が死んだことで終わるのではない。それを看とったわたしがその「死」を引き受けることによって彼の未完の生を生き直し、己の成すべきことに覚醒していくのである。このような連関関係において共同体を捉える発想はまさにケアの論理と通じる思想であるといえる。ケアの論理はなによりもケアを必要とする人がまず中心となるのであり、そこに集まってきた人たちがそれぞれの役割を担い、連携しながら、集合体を構築していくプロセスなのだから。他者があって、己がある。その逆ではないのだ。(なかむら・ようこ=大阪府立大学客員研究員・社会学)