権威/市場主義化する世界の中で

宮台真司 読書人カレッジ講座抄録



 読書人では二〇二一年度、日本財団と共同し新たな事業「読書人カレッジ」を立ち上げた。大学生に本を読むこと、思考することの大切さを直接伝える読書講座を届けるという試みで、大学に場を借りて、本に深く関わる方々に、お話をお願いした。共立女子大学ではジャーナリストの田原総一朗氏、上智大学では作家の温又柔氏、桃山学院大学では書評家の長瀬海氏、明治大学では作家の小林エリカ氏、木村友祐氏、ノンフィクション作家の佐々涼子氏、文化人類学者の奥野克巳氏に登壇いただいた。その中で、城西大学で四回行った社会学者の宮台真司氏の講座最終回(八〇分)を抄録する。なお「読書人カレッジ」の講座内容を一冊にまとめた書籍を、今春刊行予定である。(編集部)

≪週刊読書人2022年2月4日号掲載≫



自己増殖する資本主義

◎ルソー『社会契約論』/スミス『国富論』/マルクス『資本論』
 宮台 前回の「民主主義に意味はあるのか」をテーマにした講義で、民主主義はどうすれば機能するようになるのかを話しました。その中で、民主主義は決して多数決のみによって成立しているわけではないことを説明しています。資本主義の話に入る前におさらいします。

 民主主義には成員にpitié(憐れみ)の実装が必要だと説いたのが、フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』(一七六二年)です。成員が、他成員の各々が政治的決定でどうなるかを「想像」して「気に掛ける」こと。pitiéが満たされた状態で行われる決定にはvolonté générale(一般意志)が貫徹します。

 どんな政治的決定にも反発や副作用が生じますが、成員たちにpitiéがあれば「私としての私は良いが、あの人は・この人はどうなるか」と思いつつ意思表明し、副作用の手当てに動機付けられます。この構えが働くには民主主義の規模は二万人が上限だとしました。直接民主制という制度というよりもpitiéの有無に民主主義の本質を見た訳です。

 奇しくも同時代に、政治ならぬ経済について同型の発言をしたのが英国のアダム・スミスだと言いましたよね。スミスはpitiéに似たsympa-thy(同感能力)を重視し、主著『国富論』(一七七六年)で、sympathyやfellow sentiment(仲間意識)がある限りで「市場競争の見えざる手」が働くとしました。市場原理主義とは違うのです。

 英国では産業革命で自営業消失が始まっていたので、重商主義への否定に加え、社会を保守する観点もありました。ところが列強が産業革命を経た百年後の状況を見て「市場の見えざる手」図式が楽天的すぎると批判したのがカール・マルクスです。ここから本日の主題「資本主義をいかに考えるか」という話に移りましょう。

 誤解してはいけませんが、マルクスはスミスを高く評価しています。その上で資本主義的市場と切り離してsympathyを維持できるかどうかに疑義を呈するのです。なぜマルクスが人々のsympathyを信頼しなかったか。それは資本の自己増殖(元手からの利益を元手を増やすのに使う)が資本主義の本質だと見ていたからです。

 直後に社会学者マックス・ウェーバーに継がれる図式ですが、強欲な資本家が弱い労働者を搾取するという善悪図式ではなく、主体は資本家ではなく、むしろ資本という主体が資本家と労働者を客体として使って増殖すると見ます。労働者が他の労働者と同じように振る舞わないと生きられないように、資本家もそうなのだとします。

 関連して、マルクスが労働者は奴隷より悲惨と述べた含意を話します。含意は今日で言う「附従契約 adhesive contract」です。当事者Aには選択肢が沢山あり、Bには少ししかない。するとAは別にBを相手にしなくていいけど、BはAに相手にして貰うのが死活問題。この非対称性で、奴隷主は奴隷を使い潰さないが、資本家は労働者を使い潰せるのだとします。

 そして使い潰さないと資本家は競争に生き残れない──。こうした思考は、本当の主体は人ではなくシステムだとする社会システム論に繫がります。話を戻すと、マルクスは資本は自己増殖の過程で市場の外を市場化するとします。だから、ある時期に市場の外側にsympathyがあっても、どのみち資本の自己増殖が飲み込むと考えました。具体的に説明します。

 我々もそうした過程を絶えず目撃しています。一つが、工場労働からオフィスワークを経て今やサービス業に拡がりつつある労働のautomation化です。小売りでもセルフレジや無人店舗が増えましたよね。市場の外にある人間の肉体を機械やAIに置換可能なことが、資本の自己増殖のための市場を与えます。

 もう一つは、社会学者イヴァン・イリイチが「シャドウワーク」と名付けた、家事育児介護など支払われない労働です。払われない女性が払われるようになるのは平等主義的には良いことですが、資本の自己増殖過程への組み込みです。ケアが支払対象になり(感情労働)、次にケアする身体が機械に置換可能なことが市場を与えます。

 ケアは多少なりとも感情ベースの営みで、当初は市場の外にありました。だからこそ、外にある感情ベースの営みが「感情があるふりをする労働」に置換可能なことで資本主義的市場ができ、次に感情労働する身体をロボットやAIに置換可能なことで資本主義的市場ができます。御存知の通り今は「性愛」が同じ過程を辿ります。

 ここにウェーバーの知見を加えます。感情の提供を人が担うのは不安定です。病気や鬱になります。この計算不可能性が資本投下の障害になります。人をロボットやAIに置換すれば計算可能性が上がります。だから資本の自己増殖過程に平行して社会の計算可能性が上がります。社会のロボット化やAI化は資本主義の必然なのです。

 僕の見解を加えると、そうして計算可能な過程が社会を覆うと、今度は人が計算不可能性への免疫を失います。だから深い恋愛や友愛が避けられるようになります。資本だけでなく今度は人が、人の計算不可能性をコストだと感じ始めます。すると無人化そのものが今度は人のニーズになります。そんな風に社会の無人化が進みます。

 ここで考えましょう。人が人をコストだと感じる社会で民主主義が機能しますか。ルソーのpitiéの条件に従えば無理です。損得で釣る動員合戦で、釣りのリソースを持つ者が勝ちます。加えて資本主義は機能しますか。スミスのsympathyの条件に従えば無理。資本主義の経済が回っても社会が回らなくなり、すると市場が縮小して、経済も回らなくなります。<つづく>

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★みやだい・しんじ=社会学者・東京都立大学教授。専門は社会システム論。著書に『民主主義が一度もなかった国・日本』『日本の難点』『14歳からの社会学』『私たちはどこからきて、どこへ行くのか』『崩壊を加速させよ 』など。近刊に『経営リーダーのための社会システム論』。一九五九年生。