想像力の子供が読む神経症としての文学

対談=澤田直・菅谷憲興

サルトル『家の馬鹿息子 ギュスターヴ・フローベール論』(全五巻、人文書院)邦訳完結を機に

 このたび人文書院より、ジャン‐ポール・サルトル『家の馬鹿息子 5 ギュスターヴ・フローベール論 (1821年より1857年まで)』(鈴木道彦・海老坂武監訳、黒川学・坂井由加里・澤田直訳)が刊行された(邦訳全五巻が完結)。「《現代》小説の創始者、フローベールは今日のすべての文学的諸問題の四つ辻にいる」(「はじめに」)として、フローベールの個人史から第二帝政にいたるまで多様な主題が重層的に論じられている。刊行を機に、訳者を務められた澤田直さんと、菅谷憲興さんに対談してもらった。(編集部)
≪週刊読書人2022年3月4日号掲載≫




足掛け四〇年の壮大な企画、作家の個人史から第二帝政へ

 菅谷 サルトル『家の馬鹿息子』の全訳が完結しました。原著が刊行されたのが一九七一年と七二年で、全体で三千頁。その一〇年後に邦訳が始まり、一九八二年に第一巻、一九八八年に第二巻、二〇〇六年には第三巻が刊行されました。そこで翻訳チームが入れ替わり、澤田さんも新たに加わって、二〇一五年に第四巻が、そして今回、第五巻が完成しました。足掛け四〇年の壮大な企画で、一つの達成だと思います。まず全訳を終えられた感慨と、翻訳事情についてお聞かせいただけますか。

 澤田 おっしゃる通りで、原著が出てから五〇年、翻訳自体も四〇年かかったというのは、昨今の出版界の事情において稀有の出来事だと思います。第一巻刊行時、すでにサルトルのブームは終わっていた感じがありましたが、二段組みで七四〇頁強、威圧感もあって、一般読者の手はなかなか伸びませんでした。

 原著の出版後すぐに平井啓之先生が是非翻訳するべきだとおっしゃって、鈴木道彦先生、海老坂武先生と蓮實重彥さんにお声がけして翻訳チームを作られました。鈴木先生は当時プルーストの翻訳があったので、乗り気ではなかったそうです(笑)。邦訳第一巻と第二巻は一九八〇年代に出ましたが、第三巻は遅れに遅れ、刊行されたときはちょっと呆れられた感じでした。

 菅谷 邦訳第二巻と第三巻の間は二〇年ですよね。

 澤田 いろんな噂が飛び交っていましたね。原著の難解さが遅れの一つの原因ですが、それに諸般の事情が重なりました。第三巻で打ち切りという話もあったようですが、人文書院の森和さんという名物編集者が、それはもったいないと社を説得し、僕らの世代の研究者も加わって第四巻以降続けることになったんです。

 第四巻は四五〇頁弱なので、他の巻よりは薄いですが、それでも訳すのに七年かかりました。なかなか大変な作業でしたね。第五巻は七六〇頁もあって、僕の担当部分も長くて、苦労しました。一九世紀のことを勉強し直さないといけないということもありました。鈴木、海老坂両先生は幅広い教養をお持ちなので、お二人に助けられてなんとか終えることができました。

 途中で投げ出したくなる気持ちもありましたが、今は感無量です。

 菅谷 原著の最初の二巻を邦訳では四巻に分けて刊行していたのが、今回は原著の第三巻をそのまま一冊で刊行されました。しかも、この巻は内容的にも大きく方向転換しています。これまではフローベールの個人史を扱っていたのが、第五巻はフランスの第二帝政、サルトルの言葉で言うとポストロマン主義の文芸一般を扱っています。個人的には一番好きな巻で、啓発されます。というのも、これまでの部分は実存主義的精神分析の側面が強く、要するにエディプスコンプレックスの話です。典型的なのは第一巻の冒頭で、少年ギュスターヴがいかに言語習得に苦労したかについて述べています。これ自体は刺激的な指摘で、あらゆる作家は母語においても外国語で書くという、プルースト/ドゥルーズ的な視点にもつながっています。ところがサルトルの場合、フローベールが、秀才だった兄に比べて成績が悪く、劣等感を抱いていたという家族関係の問題に落としてしまう。正直、その程度のことは多かれ少なかれ誰にでも起こりうることであって、何もそれを二千頁もかけて論じなくてもという気もします。

 一方で今回の第五巻は打って変わって、非常に射程の広い議論になっています。澤田さんに訳者の一人として、この巻の読みどころを紹介してもらえればと思います。


サルトルの自己投影の側面、「客観的神経症」の問題

 澤田 ご指摘の通り、第一巻のフローベールの家族関係の分析には、確かに荒唐無稽に見えるところもあります。ただ、僕が思うに、サルトルの自己投影だと考えると腑に落ちる部分もある。言語習得の困難についてはサルトルの自伝である『言葉』にも書かれていて、彼があらゆる作家のうちに見出すのがこの言語に対する疎外感なのです。『家の馬鹿息子』自体が『言葉』と裏表の関係にあるというのが僕の解釈です。

 全体は四部構成で、第一部のテーマは「素質構成」です。作家は、生まれつきの素質や身体的な特徴だけではなく、家族環境や社会状況の影響を免れられないという出発点から、フローベール家について多角的に分析していく。第二部では「人格形成」と題して、投げ入れられた周囲の環境や状況のなかで、フローベールは自分なりにどう対応していくかを問題にする。そして、第三部は一番わかりづらいところですが、サルトルはマラルメを意識して「エルベノンまたは最後の螺旋」と題して、一八四四年にフローベールが襲われた発作の意味を長々と考えていく。それを受けて第四部(第五巻)に向かうわけです。

 菅谷さんのおっしゃったように、そこまではフローベール個人と家族や社会との関係を扱っていたのに対して、もっと広いレンジで、一九世紀全体のフランスの社会、サルトルの言葉ではロマン派とポストロマン派との関係でフローベールの立ち位置を考察します。『文学とは何か』以来のサルトルお得意の世代論、すべての作家は前の世代の作家の作品を読んで、それとの関係のなかで新たな作品が作り出されていくという話もしている。本巻の前半は、神経症の問題を「客観的神経症」として、フローベール個人の問題ではなくて時代全体の問題として捉える点が眼目です。第四部の後半では少し時代が進んで、第二帝政期とフローベールの関係が扱われる。

 少し不思議な構成になっていますね。「客観的神経症」の部分では、一九世紀の作家たちが神経症をどのように生きたのかということを、様々な角度から考えていこうとする。それまではフローベールの発作ないし神経症を個人的な問題として捉えていたのに対して、このパートでは、その時代自体がそういう人物を殉教者として求めていたのだという話に展開していく。当時の社会状況の大きなパノラマを見せてくるこの部分が非常に面白いですね。一八世紀の文学、その後のロマン派の文学がどう読まれたのか、当時の状況についても考えていく。ここで重要なのは読者と作者の関係です。「芸術家の挫折」、「人間の挫折」、「作品の挫折」という三つの挫折が論じられ、読者層の中でもブルジョワジー、有識階級が扱われる辺りが、個人的には第五巻の読みどころだと思います。

 この辺りを菅谷さんはどうお読みになりましたか。<つづく>

本編のつづきは以下で読めます


★さわだ・なお=立教大学教授・フランス哲学・文学。著書に『サルトルのプリズム 二十世紀フランス文学・思想論』など、訳書にサルトル『言葉』など、共訳書に『自由への道』『イマジネール』など。一九五九年生。
★すがや・のりおき=立教大学教授・フランス文学。訳書にフローベール『ブヴァールとペキュシェ』『フローベール ポケットマスターピース07』(訳・編集協力)など。一九六六年生。