極めて刺激的かつ興味深い内容 韓国の文芸評論家による司馬遼太郎論|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年7月8日 / 新聞掲載日:2016年7月8日(第3147号)

極めて刺激的かつ興味深い内容 韓国の文芸評論家による司馬遼太郎論

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各文芸誌の七月号は比較的低調だった。その中で韓国の文芸評論家ジョ・ヨンイルの「韓国人は司馬遼太郎をどう読むか」(『文學界』七月号、高井修訳)は極めて刺激的かつ興味深い内容で、蒙を啓かれた。

ジョによれば、司馬遼太郎は韓国では批判的に論じられることが多い作家である。周知の通り司馬は、幕末から明治にかけての時代を舞台とする歴史小説を多く書いた作家だが、その時代に日本の植民地となった朝鮮半島に特別な同情を示すことはなかった。むしろ、「どうして朝鮮が時代の変化に対応できなかったのか」を論じ、韓国人の神経を逆なでしたという。

司馬の代表作である『坂の上の雲』は、朝鮮半島の支配権を巡る対立がきっかけとなった日露戦争を題材としているだけに、「帝国主義の賛美」として特に韓国で批判を集める作品だが、ジョは司馬が日露戦争を必ずしも肯定しておらず、勝利の目算が立たないのに世論に押されて戦争に突入したことや、旅順の指揮官・乃木希典大将の無能ぶりを強調するなど、むしろ批判的に見ていることを指摘していく。「この小説は明治時代の楽天性を扱った小説というよりは、その消滅を扱った小説だと見るほうがより説得力があるのではないか」。ナショナリズムに曇らされない、確かな目を感じさせる。

だがそれは序論に過ぎない。ジョの筆は、『坂の上の雲』の中で「思想性」に目が眩むことがない現実主義者として描かれる伊藤博文を経由して、伊藤の暗殺者で韓国の国民的英雄である安重根へと及んでいく。

ジョは韓国の作家イ・ムニュルが安重根を題材に「国民叙事詩」を書こうとした作品『不滅』を取り上げ、そこに描かれた安を「日本の乃木希典のような(中略)朝鮮の尚武精神を象徴する代表的存在」であるとする。安は乃木に似て、極めて思想性の強い人物であった。空虚なまでに非現実主義的な安は「自分が何をしなければならないのかよくわかっていましたが、その行為が正確にどんな意味をもっているのか、またそれによりどんな結果が導かれるのかの予測に常に失敗」したという。だがそれは、いまだ国家を持たない安重根が国家である日本と対決するために必要な思想性・非現実性だった。そんな安を主人公とした『不滅』は国民叙事詩とはなりえていないが、それは安の思想性を神話化するというパターンから逃れていないからであるという。

ジョは今回掲載された部分を含む著書『世界文学の構造』(未邦訳)で「すべての近代文学は本質的に戦後文学であり、国民戦争をまともに経験し得なかった国家の文学は本質的に貧しいものであるほかない」と主張している。ジョによれば日本文学は近代文学であるのに対し、韓国には近代文学は本来存在せず、「思想」として移植されたものに過ぎない。『不滅』の国民叙事詩としての失敗には、半ば必然的なものがあるとジョは見ている。

ジョのこの議論は、解説として掲載された柄谷行人の「ジョ・ヨンイル著『世界文学の構造』について」という文章が示唆するように、柄谷の『近代文学の終り』を一つの出発点として考え抜かれたものである。また、水村美苗が『日本語が亡びるとき』で示した「主要な文学」の一つとしての日本文学、という位置づけとも通じるものがある。(大きな違いを一つ言えば、水村が「国語」の成立の背景にベネディクト・アンダーソンの図式を援用し、資本主義の発達が後押しした活版印刷の普及という経済要因を見ているのに対し、ジョの見方が専ら政治的なことである。)

三浦雅士の評論「言語の政治学」(『群像』七月号)は、『日本語が亡びるとき』を入り口としながら、言語の形成にかかわる力について論じている。『日本語が亡びるとき』の重要な概念である「普遍語」としての英語は、現在の言語環境を規定する要素であるが、三浦は小説の時代が終わったという水村の認識を「英語が普遍語になったということの帰結」と位置付ける。それにより国民国家のための国語を形成するという小説が歴史的に担ってきた役割が失効してしまったためだ。

三浦は英語をはじめとする言語のクレオール(混血)性を論じ、小西甚一の『日本文藝史』をひきながら日本文学史における中国文学の決定的な影響を指摘する。さらに中国語のクレオール性にまで論は及ぶ。三浦の評論は連載の第一回目とされており、今後の展開が期待される。

ジョの評論にしても、また三浦の評論にしても、日本文学と近隣諸国の言語・文学との関係を描き出しているが、こうした視点はこれまでの日本文学論では大きく欠けた部分であった。それは日本の近代化が欧米との接触の衝撃からスタートしたことから来る結果だったが、日本を専らたとえば英米独仏などと比較し、アジアの近隣諸国を全く無視した形で日本の「他国との違い」「特殊性」を強調するといった論じ方は、少なくなったとはいえ、今もまだ残っている。

だが、日本文学は中国、韓国をはじめ、台湾、香港、さらにベトナムなどの東南アジア地域との関係の方が、欧米よりもはるかに深いことは言うまでもない。歴史的な関係から言ってもそうであるし、現時点において互いによく似た社会的・文化的条件の下に置かれているという意味でもそうである。日本文学を近隣諸国の文学との関係の下にとらえなおすことが実り多い作業であることは間違いない。今回示されたような近隣諸国への注目の背景に近年のこの地域の経済発展があることも疑いえないが、まずは遅まきながらの「正常化」を喜びたい。



吉田修一の「愛住町の女」(『文學界』七月号)は、ごく短い作品だが、新宿のゲイバーで毎晩繰り返される喧噪と酩酊の感覚を伝えてくる。夫と小さな会社を経営している中年女性・律子はほぼ毎晩ゲイバー「ピーチ」で朝まで飲み、そこから会社に通うようになっている。家にいたくない理由はもちろんあるが、それよりもすべてを飲み込むかに見える「ピーチ」の描写が魅力的。朝の光の中で、半裸の男の子たちが白い背中を見せながらズワイガニに無言でむしゃぶりついている、寒々しいながらも不思議に温かい光景が印象的だった。
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