自由軽気球の着陸 読写 岩尾光代|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年7月15日 / 新聞掲載日:2016年7月15日(第3148号)

自由軽気球の着陸 読写 岩尾光代

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大正三年七月十六日所沢陸軍飛行場に於て十数名の兵卒に依り曳出されたる自由気球は悠々風なき空に昇騰を始めたり。かくて気球は遠く東京方面に現はれ午前十時三十分無事泉岳寺前埋立地に降下したるが……。(「写真通信」大正三年八月号)


写真の中央にある巨大な円形物は、気球である。大正三(一九一四)年八月号『写真通信』に掲載されたものだ。

「自由軽気球の着陸」と見出しにあるように、気球飛行が無事に着陸したところ。異様に見えるこの一枚で語りたいことはいくつかある。

まずは、写真説明から。「折柄藪入りの小僧連中、すは気球の墜落よとひしめき立ちて一時は非常の混雑なり」

「藪入り」とは、住み込みで働く者たちが、正月と夏のお盆に帰省できる「休日」だった。そんな奉公人たちが「事故か!」と、物見高く寄っている光景でもある。

さて、気球のことだ。現代では「大空の散歩」を楽しむ気球だが、かつての日本帝国軍は気球を兵器の一つとして着目していた。空から敵情を見ることができる、新兵器だったのだ。

明治十(一八七七)年の西南戦争で、熊本城攻防戦に使おうとしたが、実用化する前に戦闘が決着してしまった。

明治三十七(一九〇四)年、日露戦争が始まると、旅順攻囲戦の戦況偵察に臨時気球隊が投入された。ロシア軍には空中偵察の配備はなかったと思うので、まあ「制空権」を得たことになる。翌年に気球班が編成された。

明治末期、飛行機が日本軍にも移入されたが、当初は気球の方が主流で、明治四十二年には臨時軍用気球研究会が発足して、軍と学者が一体となって研究に力を入れることになる。

この写真は、所沢陸軍飛行場から東京品川の「泉岳寺前埋立地」に着陸した気球を撮影したもので、大正三年七月十六日、ちょうど百二年前のいまごろだ。

日露戦争で使用した気球は、着陸地点にほど近い芝浦製作所が作製したので、この気球も同様だろう。
巨大な気球の陰で見えないが、この後ろには埋め立てたばかりの東京湾岸地が広がっている。人垣の向こうにある水面は、埋め立て地に作られた運河だろうか、見えない風景が惜しい。

このとき、ヨーロッパは第一次大戦前夜の緊迫状態にあった。八月一日、各国はそれぞれに総動員をかけ、翌日から戦争が始まる。

日本は日英同盟の一員として、十月末から一週間で中国青島に在ったドイツ軍陣地を攻略するが、ここにも気球班が徳川好敏大尉の飛行機班とともに出撃、写真の気球を操縦していた伊藤赳陸軍大尉は気球班として参戦する。

第一次大戦は、気球と飛行機が「兵器」としての重要度を逆転させる節目になった。ヨーロッパ戦線では飛行機が空中戦を展開するようになって、日本陸軍の気球班もやがて解体するが、気流に乗って空を飛ぶ「兵器」の発想が第二次大戦の「風船爆弾」につながっていった。

今年七月七日、日本人宇宙飛行士の大西卓哉さんら日米露の宇宙飛行士三人が搭乗したロシアの宇宙船「ソユーズMS」が、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた。

ソ連(当時)のガガーリン少佐が世界初の有人宇宙飛行に成功してから五十五年が経って、人類は「天空の平和」を守ろうとしている。

その空に向かって、平成の芝浦地区は高層ビルが立ち並ぶ街に大きく変貌している。
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