芝公園六角堂跡 書評|西村賢太(文藝春秋)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年3月31日 / 新聞掲載日:2017年3月31日(第3183号)

芝公園六角堂跡 書評
北町貫多の「根」語り
本来の自分を取り戻そうとするときに激しく

芝公園六角堂跡
出版社:文藝春秋
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芝公園六角堂跡(西村賢太)文藝春秋
芝公園六角堂跡
西村賢太
文藝春秋
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西村賢太の小説には、主人公がしばしば「根が××にできてる貫多は…」と、自分を評したり決めつけたりしながら話が進行する際立った特色がある。たとえばこんなふうに。
「根がどこまでも土方スタイルにできてる貫多とは、およそ無縁の雰囲気を放つ店内にあるものらしかった」―本書冒頭に収められている表題作での、貫多が高級ホテルのレストランで開かれる音楽会に出かけてのひとくだりである。会場の、今ふうに言えばセレブな雰囲気に対しての違和感を言っているわけだ。貫多からすると、会場へ案内するボーイにまで値踏みされているように見えるのだが、こういう時、彼の「根」の意識の語りが独特な効果を発揮していると言えよう。

西村小説の読者ならば、これだけでも貫多青年の立つ姿、歩く姿が彷彿としてくるのだが、しかし、初めて聞くという人のためにもう少し例をあげておこうか。この後にも「貫多は真の根がひどくスタイリストにできていた」、「根の稟質がかなり下劣で、ひどく卑しくできている性分」、「一方の根がひどく気弱な後悔体質」、「根が血の巡りの渋滞体質にできてる彼」、「根が可憐にでき過ぎている貫多」、「根が極めてのお調子者にできてる貫多」等々といった具合である。これを要するに、「根」は彼の意識であり目であり、時にはこの世と相渉るための武器でもあるのだ。

これらはみな表題作「芝公園六角堂跡」に見える例だ。スペースが許せば全部を一覧表にしてみたいような面白さだが、いま試みに数えてみれば一六種類あった。ついでだから連作でもある続く三編も数えてみると、二作めの「終われなかった夜の彼方で」には一〇例、三作めの「深更の巡礼」では少し減って四例、最後の「十二月に泣く」が六例となっている。これらのなかには「お調子者」と「調子こき」、「ひどくスタイリスト」と「なかなかのスタイリスト」のような重出、あるいは同種のものあるが、ともあれ全一七六ページの本書に合計三六回の貫多の「根」が言われていることになる。二作めには一ページに三種の「根」が現れているような例もあるが、平均して五ページに一回の「根」の出現である。ただしこの現象は、この一冊では冒頭の表題作に最も多く、後は次第にその波が収まって数が減ってゆくところに特色がある。 

そして、そう気づいてみると、そこには作品モチーフや性格が深く関わっているらしいことも想像できる。一口に言って、作者の力の入った作品ほど、主人公貫多の存在の「根」が強く意識されるのだ。

本書の表題作は、それをごく簡単に要約してしまえば、主人公の、最近のテレビ界や音楽界の有名人たちと付き合ったり、その仲間入りもしている自身のありようについての強い、深い反省を記した一編だ。貫多がある音楽会に行き、関係者から歓迎もされるのだが、その会場がたまたま芝公園近くのホテルであったために彼はそれを強く意識せざるを得なかった。芝公園とは、貫多がその「没後弟子」を自称する、そして貫多を知るほどの人はみな知っているに違いない藤澤清造、彼が貧窮のなかで凍死した、あの場所に他ならないからだ。そういう場所の近くに行って、しかも身にそぐわぬ華やかな世界に泥んでいる、そういう自分の今を、彼は「慊」く思う。自分は堕落しているのではないか…。そうして帰途、彼は改めて「師」の終焉の地に回り、そこに佇ってみて、自身の志の出発点を確認し、また湧き上がる情念を確認するという一編だ。

言い換えれば、矛盾や振幅の大きい自身の言動のなかから、何とか本来本当の自分を取り戻そう、掴みなおそうとする、そういうとき、貫多の「根」語りはいっそう強く激しくなるのではないだろうか。
この記事の中でご紹介した本
芝公園六角堂跡/文藝春秋
芝公園六角堂跡
著 者:西村賢太
出版社:文藝春秋
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