猥褻なD夫人 書評|イルダ・イルスト(英宝社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年4月10日 / 新聞掲載日:2017年4月7日(第3184号)

猥褻なD夫人 書評
死を前にした人物に押し寄せるイメージの奔流

猥褻なD夫人
著 者:イルダ・イルスト
出版社:英宝社
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イルダ・イルスト(一九三〇―二〇〇四)はブラジルで異彩を放った詩人・作家で、批評家たちには二十世紀ブラジルで最も重要な作家のひとりと見なされた存在だ。その彼女が満を持して、というよりは興味深い巡り合わせを経て、四方田犬彦の翻訳によって紹介されるのだから面白い。

ブラジルの大学で日本文化を講じていた四方田さんがある日、受講者に向けて、ジョルジュ・バタイユの二十世紀ブラジル文学における影響を問うたところ、ロシア語の教授オルガ・ケンピスカが彼女の名を出したという。「全能の神に対する罵倒とエロティシズム、死への不吉な欲望に裏打ちされた詩と小説を書いた」(「イルダ・イルスト覚書」)人だとケンピスカさんは紹介した。そこで、これは読まねばと思って読み、「大きな感動に襲われ」た四方田さんが、このたび、翻訳紹介する運びとなったのが、本書『猥褻なD夫人』だ。

『猥褻なD夫人』は表題作(一九八二)と『わたしの犬の眼で』(一九八六)の二作の中篇小説を含む作品集だ。「中篇小説」と、今、書くには書いたが、これが果たして本当に小説なのか、自信は持てない。何しろ、四方田さん自身、最初に読んだときに「いったい何が語られているのかは、論理的にそれを再構成することはほとんどできなかった」というし、個々の作品の解説にしても、ストーリー説明となると、何やら心細げなのだ。

実際、本書に収められた二作品は、論理的なストーリー展開に支えられたテクストではない。少なくともそうは見えない。表題作『猥褻なD夫人』は、D夫人ことイレが、死んだ夫エウッドを回想するというのが大枠のようだ。しかし、イレの言葉に死んだはずのエウッドが呼応し(それともイレがエウッドの発話を回想しているのだろうか?)、話題がとりとめもなく移っていくから流れがつかめなくなる。セックスの思い出が語られているかと思えば何やら変身譚のような話になり、時には神に向かってあなたにも肛門があるのかと訊ね、……といった具合で、なるほど、ケンピスカさんのように「神に対する罵倒とエロティシズム、死への不吉な欲望に裏打ちされた詩」とでも言うほかはない。これは小説というよりは詩に違いない。盲目のイレが死の床で呟いた言葉だ。詩的譫妄だ。

『わたしの犬の眼で』の方は、まだストーリーを語れるようにも思われる。数学者アモス・ケレスが授業中に意識を失ったりすると悪評が立ち、学部長から休暇を取るように勧められ、それから自殺を試みた嫌疑で死刑になるまでの話だ。しかし、この間の条理は説明できない。少なくとも目に見える論理に支えられているようには思えない。この作品もやはり、死刑宣告を受けたアモスの死の直前の詩的譫妄と理解した方がよさそうだ。

ふたつの作品を、死を前にした人物に押し寄せるイメージの奔流だと捉えれば、いくつかのパッセージが俄然リアリティを帯びてくる。死刑執行直前に眠ることを欲し、勃起を正当化するアモスの言葉は切実だ。神を飲み込み、エウッドとひとつになろうとするイレの試みは自然なものとして納得できる。自己と他者の境界が崩れて両者が同一化し、人間が動物にもなり、嚥下と排泄の区別もつかなくなる。私たちは確かに、死の瞬間、こうして壊れていくのだろう。詩は私たちに死を感じさせて胸に迫る。(四方田犬彦訳)
この記事の中でご紹介した本
猥褻なD夫人/英宝社
猥褻なD夫人
著 者:イルダ・イルスト
出版社:英宝社
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