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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年7月15日 / 新聞掲載日:2016年7月15日(第3148号)

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◇虚構の外へ◇ 『Rain』の意義はその点に絞られる


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横田基地、ワシントンハイツ(在日米軍兵舎1946~1964)、ホテルオークラ(旧館)、TAC(東京アメリカンクラブ)…これらはオキュパイド・ジャパン時代以来の東京周辺の象徴的な施設である。敗戦後の焼野原で、目の前に展開されたモダンで豊かな生活の見本と共に、日本人の意識の底に一つの価値観が浸透していった。米白人男性が社会の最上位につき、その優秀な召使い(=親米派知識人)になれない日本人は、「12才」の被植民地民に据えおかれるという序列である。原爆投下も焼夷弾による無差別爆撃も忘れ、国民として去勢された戦後日本人は、アメリカに与えられた虚構をひたすら生きてきたと言える。

その虚構においては、12才の日本男子が、米白人女性(は旦那様のもの)の代替物として、白人(米は禁忌だから欧!)の少女に甘美な畏怖を、白人の血を引く日本人少女に屈折した妄想を、日本人女子高生に生々しい欲望を抱く。異様なまでの外人タレント崇拝、ハーフ信仰、ワシントンハイツ出自のジャニーズ専制を見れば、日本の芸能界そして広告界はこの虚構の戯画に他ならない。

かつて『構造と力』(1983年)のなかで浅田彰は、当時の花形コピーライターを「歯を食いしばった道化たち」と呼んだが、広告とは言葉や映像を操って、上記の虚構を不可視性のうちにとどめ常態化し続ける装置に他ならない。ちょうど麻薬の売人が、自らは中毒ではなく醒めたビジネスマンでありながら、麻薬売買という仕組みに囚われているように、「道化」とは、抑圧的構造を承知していながら、その外へ出る代わりにその構造に過剰適応することである。

沢渡朔の『60's』『60's2』(2001年)、そしてその後の『少女アリス』(1973年)『ナディア』(1977年)を見れば、彼が占領下に成立した「戦後日本」という虚構のなかで、そんな道化役を巧く演じてきたことがわかる。60年代、ワシントンハイツ界隈の虚構日本を写した前者は言うまでもなく、後者を例えばチャールズ・ドジソン(=ルイス・キャロル)のスキャンダラスな少女写真と比べれば、そのエロスの不能、設えの通俗や貧相は、まさしく戦後日本の刻印を帯びている。それは沢渡朔による、虚構の生=性の表現であった。

そういう写真家が初めて虚構の外へ出た、それが『Rain』である。この写真集の意義はその点に絞られる。無論、スタジオの外に出たからと言って虚構日本の外へ出られるわけではない。この写真集の中に本当に「外」を感じさせる写真は数枚しかないだろう。大部分は、雨の夜景に光が流れ反射して、カラオケボックスのエコー装置のようにエフェクト(夜目遠目傘之内)の掛かった写真に落ちている。しかし彼は少なくとも道化は止めたのだ。巧くもない写真は面白くなくなったが、それがどうした。もう人を笑わせる必要は無いのである。
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