コミュニズムの争異: ネグリとバディウ 書評|アルベルト・トスカーノ(航思社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2017年4月24日 / 新聞掲載日:2017年4月21日(第3186号)

コミュニズムの争異: ネグリとバディウ 書評
傾向と分離――コミュニズムと哲学
政治的敗北を被ってなおコミュニズムを諦めない二人の哲学者の軌跡を追った論文集

コミュニズムの争異: ネグリとバディウ
著 者:アルベルト・トスカーノ
出版社:航思社
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マルクスにとって哲学の目的はコミュニズムの実現だった。実現したとき哲学は終わる。哲学が今なお存在しているとすれば、その理由はコミュニズムの歴史的敗北にある。この間、〈終焉〉の概念自体が形而上学的であるとして疑義に付されもした。あらゆる革命政治は抑圧に転ずるといった論調も依然、支配的である。かくして〈コミュニズム〉というアイディアは反動から貶められ、歴史のゴミ箱に棄てられた。本書は政治的敗北を被ってなおコミュニズムを諦めない二人の哲学者アントニオ・ネグリとアラン・バディウの軌跡を若き俊英が追った論文集である。

ここではこの国の現状を支配する反マルクス主義の掣肘に的を絞って本書を紹介する。

本書は序文に続く第一部にネグリ論を三つ、第二部にバディウ論を四つ収める。一章から三章では各々労働者主義(オペライズモ)、生政治、現代芸術との絡みでネグリの仕事が論じられ、四章から七章では各々マルクス主義、暴力、主体、前―政治的状況という主題と切り結ぶバディウの思考が検討される。労働者主義スピノザ派とプラトンを偏愛する毛沢東派、二者が「争異」的に〈分有〉する概念は「傾向」と「分離」の二つであり、「争異」とは同じ概念を共有しつつ「両立不可能」または「二律背反」的でもあるという、二つのコミュニズム哲学の微妙な関係である(本書二二頁、以下同)。

ネグリ的「傾向」は、資本と労働の敵対を際立たせ、労働者の歴史への出現とその変革を目的とするヘーゲル/マルクス的な〈現実のキプロコ的実現〉、「その内部でわれわれの当初の出発点であった諸要素の特殊性と具体性が端緒で構想されていたその意味を[前進―背進的に再]獲得する可能性がある適切で全面的な理論的展望に到達するために、単純なことから複雑なこと、具体的なことから抽象的なことへと上向すること」(三六―三七頁、[]内訳者)である。資本の動向が労働者の運動を決定するのではなく、これが資本の動向であると判断して決起する労働者の運動が、当の資本の動向を左右する。これがネグリの「分離」である。社会全域に資本の支配が拡がり、労働賃金という形態においては生産が計測不可能となった。これがネグリによる一九七〇年代以降の資本の「傾向」予測である。ここがコミュニズムへの移行の足掛かりとなる(五六―五七頁)。彼にとってコミュニズムとは「生産された社会的富の直接的で社会的な領有」を目的とする「資本主義的な指令の直截な拒否」と労働者の自律的組織化を指す(五七頁)。古典的マルクス主義の後継である。但し、この立場はマルクスと現状における資本の「傾向」予測(労働者主義に淵源)との架橋から成っており、この架橋に寄与したのがフーコーの「生政治」概念だった。さらにネグリは、先に引いた「単純なことから複雑なこと、具体的なことから抽象的なことへ[の]上向」に係わって、現代芸術における抽象化と資本主義下における労働のそれとの並走を指摘したうえで(一二六頁)、「ポストモダン」と「市場」を等号で結び、ポストモダン=市場に覆われた「世界の巨大な存在論的空虚」を「革命派」として「肯定する」(一三〇頁)。コミュニズムを、現実を止揚する現実の運動と捉え、その条件はつねに現存する前提から生じるとした『ドイツ・イデオロギー』に彼は忠実である。

他方、バディウはコミュニズムを一つの〈イデア〉と捉え、むしろ現実の運動とコミュニズムとの接近を測定する道標とする(二八頁)。彼にとって「ネグリとは異なり、資本主義に内在するコミュニズムの種子など存在しない」(同前)。資本主義と呼ばれる集合に〈帰属〉する諸要素ではなく、この集合に〈内包〉された非資本主義的要素を探りあて、〈コミュニズムのイデア〉=太陽に照らしたその促成栽培が課題となる(二九―三〇頁)。彼にとってコミュニズムの不変項は、「非―支配」(一九八頁)という解放の政治、経済的なそれに尽きない「平等」(二三頁、一六八頁他)の創出、そして「国家との分離」(一五六頁)である。ここに資本主義および国家からの「分離」の論理がある。彼はマルクス主義における主体の欠落(マルクス経済学(科学)への信認による、生産様式の変化が政治体制の変化に自動的に反映されるという客体主義)を批判し、主体化の問いによって新たな地平を切り開いた。彼は、マルクス主義政治の核は国家掌握ではなく「プロレタリアートの力能」による非―支配の促成にあるという(一五六頁)。「非―支配が浮上するために支配を支配する必然性という難問」(一九八頁)がここに生じる。マルクス主義による国家掌握の経験は多くの死をもたらした。そこからマルクス主義と全体主義を同一視し、ひいてはあらゆる政治的行為を抑圧とみなす者が出現する。彼らは武装闘争を、自分たちとは無縁な輩の蛮行と捉えて人道的に批判する。だが真に暴力を回避するには、こうした客体的視点は役に立たない。むしろそうした視点こそがテロルを再生産する。彼らはマルクス主義者と同じく客体主義だからであり、旧来の図式から出ていない。革命という新たな事態がもたらす不安への耐えきれなさがテロルを起こす以上、主体化という新たな問いにとりくまない限り、マルクス主義と反マルクス主義、いずれもテロルを克服できない。バディウのこの分析を本書は精査する。現在、支配的なのは、反マルクス主義がふるう日常性の再生産という暴力である。どれほど平穏に感じられても、日常とは暴力による秩序の制定と維持である。「新しさを欠いている純粋に構造的な現象[…]では、[…]保全と連続を駆動する衝動は、バディウにとっては、途方もない暴力を伴っているのである。彼の「何ごとも変わらなければ、死ぬのは人間である」という直截な表現を見ればよい」(二〇〇頁)。「構造」ないし「客体」は旧来=日常の側にある。新たなことが到来しない限り、いかに平穏に見えても、そこには暴力が充満している。日常という秩序の中で死ぬ人はポル・ポトの虐殺以上に多く、その死がどれほど安らかであっても現存秩序に殺され続けている。バディウにとって日常という風景はそう見える。革命家の知覚である。反マルクス主義者こそが現存秩序を維持するために暴力を用いている。彼らは彼らが嘲笑する客体主義的マルクス主義者と同類である。

ネグリとの対比に戻る。「プロレタリアートの力能」がバディウにとっての「傾向」である(二〇二頁)。傾向は構造(客体)と非対称的に組み合わされている。反マルクス主義の中で支配的な〈権力/抵抗〉という対称的二項対立の観念論に反対するために、この非対称性をバディウは導入したとトスカーノは指摘する。権力とそれへの抵抗という、往々にして道徳的な善/悪の区分を伴いがちな対立軸設定においては、抵抗(善)の側は己が悪と化す事態を想定しない。それゆえ抵抗者が権力を掌握しても対称性を担う軸は変わらず、依然、構造的暴力が続く。対立軸を設定した暴力自体を打破するには人道的観点を離れ、権力と抵抗の双方を横切る視点を獲得する必要がある。二項対立に乗るのではなく、両項各々の内側から亀裂を走らせること。〈一(悪)〉対〈一(善)〉における二つの〈一〉は、各々が〈二〉に支えられる。国家の方針に反対する動きが出現したら、政府と反政府を横切ってこの動きに介入し、双方をその内側から分割し、新たな事態を引き起こして「国家との分離」を強化すること。これがバディウにおける〈傾向と分離〉である。

ネグリには、バディウは資本と労働の「傾向」を軽視していると映り、後者には前者は経済と政治の「分離」を疎かにしていると見えるようだ。この「争異」を踏まえた今後のトスカーノ自身の哲学構想が注目される。哲学を終わらせる哲学は今も支配を支配する解放の政治と並走する。(長原豊訳)
この記事の中でご紹介した本
コミュニズムの争異: ネグリとバディウ /航思社
コミュニズムの争異: ネグリとバディウ
著 者:アルベルト・トスカーノ
出版社:航思社
「コミュニズムの争異: ネグリとバディウ 」は以下からご購入できます
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