切通理作×宮台真司 怪獣VSクソ社会  ウルトラシリーズで語られた「本当のこと」載録|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2017年5月2日 / 新聞掲載日:2017年4月28日(第3187号)

切通理作×宮台真司
怪獣VSクソ社会 
ウルトラシリーズで語られた「本当のこと」載録

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四月三日、東京・渋谷のLOFT9で、『怪獣少年の〈復讐〉』を刊行した評論家の切通理作氏と、社会学者・宮台真司氏のトークイベント〈怪獣VSクソ社会~ウルトラシリーズで語られた「本当のこと」〉が行われた。たっぷり三時間、初期のウルトラシリーズを中心に、平成仮面ライダーシリーズや『シン・ゴジラ』へ話題は展開し、時代を振り返りつつ、現代社会への示唆が深まった。その第一部を、本紙に濃縮載録する。また第二部は、ライブ版をウェブに掲載する。


なぜ「今」、昭和のウルトラシリーズなのか

宮台
 僕は東京オリンピックの翌年、一九六五年に小学校に入りました。『ウルトラQ』が始まったのがこの年の一月。第一期と呼ばれる『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』、そして怪奇現象を扱うけれど怪獣が出ない『怪奇大作戦』。これが僕の小学生時代に重なります。

次の『帰ってきたウルトラマン』まで数年あきますが、僕も中学生になっていたのもあってリアルタイムでウルトラシリーズを追いかけることはなくなりました。

ただ十年前に、第一子が生まれてから、子どもに何を見せるべきかを考えるようになり、DVDのアーカイブスを通じて一九六〇年代コンテンツを見せるようにしたんです。
切通 理作氏
切通
 地上波で流れている現行のテレビ番組を、そのまま見せるのは抵抗があったということですか。
宮台
 はい。六〇年代の子ども番組は勧善懲悪じゃなかったからです。三人の子どもも、今のものより、第一期・第二期の勧善懲悪じゃないウルトラマンの方を面白がる。CGよりも、ピアノ線で吊った特撮や、皺の寄ったかぶり物の方がいいと言う。

最近「親業ワークショップ」をしています。「子どもを親以上の立派な人間に育てる」がテーマです。この二十年の性的退却は、未規定性を恐れる「感情の劣化」に由来するというのが僕の観察で、四年前まで恋愛ワークショップをしていましたが、男子の劣化が激しくて手に負えないので、男子を育てる親に注目したんです。かつての親は御近所に包摂されていたけど、今はそれがないから、コンテンツの利用を考えました。

今回、切通さんの『怪獣少年の〈復讐〉』を機に三人の子どもとウルトラシリーズの話をしたら、子どもらのコミットが半端ないことに気づきました。特に五歳の次女は怪獣も物語も詳細に暗記し、ウルトラマンクイズのスマホアプリもいつも全問正解。やはり第一期・第二期のウルトラシリーズが圧倒的に面白いと言います。なぜそう思うのかを改めて考えてみたいんです。

最初にお尋ねすると、切通さんはなぜ「今」、昭和のウルトラシリーズの作り手たちのインタビューを記録に残そうと思われたのですか。
切通
 二〇年以上前に出した『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』を増補新装版として、昨年刊行したんです。金城哲夫、佐々木守、上原正三、市川森一という四人のウルトラマンの作家についての本です。ウルトラマンが怪獣を倒し社会から排除するとき、抱えていた痛みのようなものを脚本家たちが意識していた、そのことを一つのテーマとしたのです。 

ところが、そのせいかどうか分かりませんが、朝日新聞などが繰り返しやる、以後の大人たちのウルトラマン評価が、勧善懲悪を否定しているから価値があるというようなものに固定化されてきてしまった気がするんです。怪獣を殺さなければならない側の葛藤が削除されて、あらかじめ「優しく無害な物語」だったかのように語られ始めていくことに、疑問を持つようになりました。 

また、田口成光さんは第二期を牽引した、第一期のメインライターである金城哲夫にあたる存在なのに、『怪獣使いと少年』では第一期から書いている四人の、時代への落し前の付け方に焦点を当てたために、ほとんど触れられませんでした。世の中で評価されるのは、金城さんの「ノンマルトの使者」や、上原さんの「怪獣使いと少年」など、僕も本でクローズアップした作品になぜかいつも偏っている。ウルトラシリーズって一話完結で多様な価値観の作品があるのが魅力なんだから、もっと語る人が自分で面白さを発見してくれればいいのに、いま一つそうならない。田口さんのことも話題にならない。そのことに、何となく戦犯のような気持ちになって、責任として書かなければ、と思うところがあったんです。

特に語り残した感があったのは、『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣少年の復讐」。非常に屈折した子どもの心理を描いている。
宮台
 切通さんの新刊の表題になっていて、子どもがウルトラマンである郷隊員にビンタされる、今ならあり得ない作品ですね。子どもらと一緒に田口さんの作品をすべて見返しました。「怪獣少年の復讐」もそうだけど、田口さんの作品はギリギリにならないと怪獣が出てこない。十歳の長女がそれに感心して「怪獣の映画じゃないね、普通の映画だよ」と。「ウルトラマン」だから怪獣を出さないわけにいかないけど、シナリオが怪獣との戦いに引っ張られていません。第二期は、子ども向け番組どころか、一筋縄にいかない子どもの心理を描くものが多く、特に田口さんのシナリオは複雑な心理劇を描きます。子どもに分かるのかなと思ったら、ちゃんと分かるんてすね。
世間の子ども像、子ども番組の通念を覆す

切通
 『ウルトラマンA』の「青春の星・ふたりの星」という回に、のちに『ウルトラマンタロウ』で主役になる俳優の篠田三郎が、ゲストで出るのですが。豪華客船が最後の航海を終え、今は鎖で係留されてホテルになっている。その船が再び動き出したら、俺の青春も動き出す、と思い込んでいる。田口さんの観念的な作劇がよく出ています。
宮台
 篠田三郎が篠田一郎役で出ています(笑)。これも怪獣が付け足しみたいな物語だった。怪獣が出ない回が多い『ウルトラQ』へのオマージュなのかな。難解で一度はお蔵入りになった「あけてくれ!」を思わせる作品でした。『タロウ』と『A』に見られる子どもの心理への注目も、思えば『ウルトラQ』です。意識的に怪獣映画から外れよう外れようしているのかな。でも子どもらには評判がいい。それも道理。切通さんの『怪獣少年の〈復讐〉』を拝読して、制作者たちがこんなにも考え抜いて作っていたことに驚きました。世間が考える子ども像から自由に作りたい、子ども番組の通念を覆したいと。それを許していたTBSサイドのプロデューサーの橋本洋二さんも凄いけど。
切通
 真船禎監督が、円谷プロの円谷一社長に、ウルトラシリーズに誘われたときの話が印象に残っています。「子ども向けを作るのは無理」と、子ども番組を区別するような発言をしたときに、円谷さんが本気で怒って、「ガキものを作っている気はないんだ、その言葉をすぐ撤回してくれ」「親父(円谷英二監督)の『ゴジラ』と同じ精神でやっているんだ」と言ったと。

真船さんが最初に監督した、市川森一作の「悪魔と天使の間に…」は、聾唖の少年が実はウルトラマンの抹殺をもくろむ宇宙人なのですが、子どもを純真無垢と考え差別を嫌う大人たちが、それゆえ見過ごしてしまうという話です。

もう一本の石堂淑朗作「呪いの骨神オクスター」は、殺す必要はない怪獣を、ウルトラマンが仕方なく殺す。その二本を監督することで、真船さんは紋切型のヒーローものではないことに驚き、心して演出しなければいけないと思ったと。その話には感銘を受けました。
宮台 真司氏
宮台
 『ウルトラセブン』のBlu-rayBOX特典で満田穧監督と対談した際、監督は、今は子ども向けの番組は情報量を下げて分かりやすく作ろうとするだろうけど、六〇年代後半や七〇年代前半は子ども向けだからこそ、より真剣に勝負するべきだと制作者サイドが考えていた、とおっしゃっておられました。
切通
 第一期はアメリカでのプロモーションも考えていたので、幼児だけに限定しない、ファミリー向け、といった設定だったようですね。
宮台
 満田監督の話を踏まえると、アメリカの話は関係ないかもしれません。監督によると、当時の子ども番組は親と一緒に見ていると想定されていたので、話が難しくても親に聞けると考えて、情報量を下げなかったと。それが七〇年代に入ってしばらくすると、子どもが一人で見る時代になったというので、同じ作り手たちが環境の変化に適応して子ども番組を分かりやすくした、だから当初は思考停止じゃなかったんだよと。だから第二期は面白いんだと思います。そのことが切通さんのインタビューでも引き出されていました。先ほどの「子どもは無垢ではない」という描き方もそう。
切通
 子どもは本当に大人が思い描いているような純真なものなのか、という示唆ですよね。同じことを、田口さんが『ウルトラマンA』でより分かりやすく描いています。

子どもに化けた超獣が、自分を可愛がってくれた老人を惨殺する前に、「子どもの心が純真だと思っているのは、人間だけだ」と言うんです。第一期では、『ウルトラマン』のホシノ少年に代表されるように、純粋無垢で勇敢で、科学特捜隊やウルトラ警備隊に憧れを抱いている子ども像が主だった。一方、第二期の子どもたちは、防衛隊が弱いから親が殺された、などと隊員に食ってかかったり、郷隊員に石を投げつけるシーンもある。正直、僕が子どものときには、少々抵抗がありました。逆恨みではないか、隊員たちも一生懸命やっているのに、と。
宮台
 郷さんのビンタもショックでした。怪獣を見たと言った子どもを、オオカミ少年だと思い込んでひっぱたくわけだから。ウルトラマンがその瞬間ヒール(悪役)になっちゃった。
切通
 テレビを見ている子どもたちは、怪獣がいると知っているから、大人は分かってくれないんだと、不信が生まれますよね。
〈見ず知らずの仲間〉の存在を信じられた時代 

宮台
 そこに第一期になかった対立があるわけですね。六〇年代にはSF作家レイ・ブラッドベリのブームがありました。「子どもにしか見えないものがある、子どもにしか聞こえないものがある」というモチーフを貫いた作家です。日本でも大島弓子さんが大きな影響を受けています。六〇年代に公害問題やベトナム戦争が起る中、先進各国の若い世代に「大人への失望」「社会への離反」が拡がったのが背景です。子どもが感じられるものを大人が感じられないのはなぜかという問題意識や、子どもだけに分かるものがあるという考え方は、六〇年代的です。

これを反映していた第一期でしたが、七〇年代に入って第二期になると、第一期にはなかった社会を憎む暗い世界観を持つ少年たちが出てくるようになります。

切通さんは何年生まれですか。
切通
 一九六四年です。
宮台
 僕と五歳違うとすると、第二期をリアルタイムで見ておられますね。 
切通
 そうです。『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』を再放送で見た後に、『帰ってきたウルトラマン』を新番組で見ています。
宮台
 七〇年代に、暗い子どもが描かれるのは何に由来すると思われますか。
切通
 『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』という、「東宝チャンピオンまつり」の一作目では、鍵っ子の少年が頭の中に怪獣島を作っているんです。怪獣は、映画内の現実世界にいないんですよね。

『帰ってきた』以降は、放映一年間を通して登場する少年がいて、ウルトラマンに変身する青年がその成長を見守り、去っていくという成長物語が繰り返されます。少年は孤児であるなど、孤独な設定がほとんど。ウルトラマンも、たまに兄弟が助けにくることはあるけれど、基本的には地球に一人ぼっちの異星人ですよね。当時は僕を含め、番組を見ていた子どもたちに鍵っ子が増えてきた時代で、一人で過ごす孤独と、それに寄り添うウルトラマンへの願望が、リアルだったように感じます。
宮台
 なるほど。もう一つの説を考えました。僕らは中学高校闘争を経た「シラケ世代」。紛争後の中三の頃を思い出すと、第二期の暗さとシンクロします。親や教員のヘタレぶりを目撃し、でも俺らの番だとなったらゲーム終了。つんのめってアノミーに陥ります。今の若い世代と違って社会から退却してるんじゃない。大人や社会への失望や不信を共有しつつ、大人や社会にどう関わればいいのか分からない。そんな気分が第二期を覆っている感じがします。
切通
 確かに、社会や大人を信用していない雰囲気は、第二期でより濃厚ですね。ウルトラ兄弟にも完全なヒーロー感はなく、「ウルトラ兄弟がいるから怪獣が攻めてくる」と住民たちが排斥するシーンがあったりする。そんなことを言われてまで、地球を守る価値があるのか、と思った記憶がありますけど。
宮台
 僕は自他認める『怪奇大作戦』マニアで、DVD―BOXの長い解説にも書きましたが、『怪奇』は第一期シリーズとは何だったのかという反省的な集約です。東大安田講堂砦が落城、学園闘争への期待が一気にしぼむ時期にオンエアされた。佐々木守脚本「京都買います」には、学園闘争を気取った連中が社会を何も分かっていなかったことへの反省と失望が描かれている。同時期の若松孝二監督の映画『理由なき暴行』『新宿マッド』と同じです。

登場する犯罪者の約三分の一が太平洋戦争の元兵士。社会から忘れられて居場所を失ったことに元兵士たちが復讐します。こうした恥辱を拭い尊厳を回復するための犯罪、輝きと不気味さという科学の両義性、他人や社会への愛ゆえの犯罪という善悪の曖昧さなど『ウルトラマン』や『セブン』に見え隠れしていた第一期のモチーフを総ざらいし、第二期の『帰ってきた』『A』『タロウ』『レオ』にバトンを渡します。だから第二期も勧善懲悪にならなかったんですね。

第三期は八〇年を挟んだ『ザ・ウルトラマン』と『ウルトラマン80』。十五年以上の時間があいて平成ウルトラシリーズが九十六年からで、平成仮面ライダーシリーズが二〇〇〇年から。『仮面ライダークウガ』『アギト』以降の勧善懲悪を否定する設定を、宇野常寛氏らが褒めました。うちの子どもたちも面白がるけど、第一期・第二期のウルトラマンシリーズほどじゃない。

振り返ると、第一期ウルトラシリーズは、「子どもの方が凄い」「子どもより駄目な大人」という具合に、ガキは半人前という従来の子ども像を刷新し、手塚治虫『ジャングル大帝』などと同じく「悪いのは人間社会」という具合に、善悪図式も刷新しました。両方とも同時代の社会的気分や共通感覚に支えられたものです。

第二期は、「大人が信じられない」のは当たり前として、「子どもも信じられない」「子どもの味方をする存在も信じられない」という具合に、カウンターパワーやオルタナティブな共同性を信じて手ひどく裏切られたという失意が満ちています。これは逆にオルタナティブな共同性を信じたい気持ちの表れだと思います。

実際、平成仮面ライダーシリーズになると、共同性も皆無、共同性を信じたい気持ちも皆無、という状態で勧善懲悪が否定されている。キネマ旬報の四月上旬号で『ひるね姫」について対談した神山健治監督が、映画版『009 RE:CYBORG』を作ったときに自分には「社会を救いたい」という動機づけが失われていることに気が付いた、と話しています。重く感じます。なぜなら僕も「善は善、悪は悪」といった勧善懲悪を信じない気持ちは昔のままだけど、「社会を救いたい」という動機は失われて「社会はクソだ」という気分に抗えないからです。

思えば、社会とは大規模定住社会。見ず知らずの他人の集まりです。見ず知らずの他人を仲間だと思えたから――〈見ず知らずの仲間〉の存在を信じられたから――死を覚悟して戦争に出かけたし、再配分のために高い税金を取られても耐えられた。それも昔の話で、ずいぶん前から「弱者であってもどこの馬の骨とも分からないクズだらけで、そんな連中のために自己犠牲を支払って貢献することなどあり得ない」という気分が満ちている。今では霞が関官僚が日本国民のために働いていると信じる者も、トランプ大統領がアメリカ国民のために命を賭けていると信じる者もいない。「誰が誰のために何をするのか」についての疑念が溢れています。

平成仮面ライダーシリーズはそんな時代に対応しますが、子どもらを見ると、彼らが惹かれるのは共同性や共同性を信じたい気持ちに満ちた第一期・第二期ウルトラシリーズです。子どもらは「いい人と悪い人がはっきり分かれるのはつまらない」と言うけど、同時に「命をかけて守りたい仲間や家族がいるのがいい」とも言う。実際「仲間や家族を守るために悪をなす」という『怪奇大作戦』に共感します。でも平成ライダーシリーズになると、なぜ人類を守りたいのか不明で「善の暴力も悪の暴力もどっちもどっち」というシニカルさに彩られます。一番下の三歳男児と一緒に見ていて、シニカルな勧善懲悪否定はオウム的黙示録(終末論)を引き寄せるかもしれないと気づきました。
黙示録的世界観に抗い得る「共同体」のゆくえ

切通
 『クウガ』の主題歌の二番は、ゼロから次の時代を始めるんだ、俺が一人で越えてやる、というような歌詞です。宮台さんは、ウルトラシリーズの、特に第二期が、勧善懲悪でないところを評価している。でも『クウガ』や『アギト』には危うさを感じた。黙示録的な乗り越えの思想が、気がかりだと。
宮台
 トランプのイデオロギー的バックボーンとされる首席補佐官スティーブ・バノンの思想は黙示録そのもの。黙示録とは世界の破滅に際して神が現れるという預言です。生贄を捧げても神が動かない。戒律を守っても神が動かない。なぜ神は動いて我々を悲劇から救い出さないのか。ヤハウェ信仰の大問題「動かない神」。これについて「悲劇が足りないからだ、世界が破滅したら神も動く」と待望するのが黙示録です。「火の七日間の後、小さな風の谷にナウシカが現れる」というのも黙示録。いわば「廃墟の中の共同性」モチーフ。『AKIRA』や『魔法少女まどか★マギカ』を含めて日本アニメの定番ですが、オウム信者やバノンを見れば分かるように中二病です。平成仮面ライダーシリーズにはアポカリプティック(黙示録的)な世界観を否定する力がない。勧善懲悪否定が「次の時代を切り開くには滅びが必要」という黙示録の自明化につながるなら、「最悪の有害メディア」です。
切通
 なるほど。 
宮台
 勧善懲悪に疑念を抱くのは大切です。原罪観念を待つまでもなく不完全な人間にとって善悪は未規定だから。でも「仲間」を支える共通感覚を欠いたまま勧善懲悪だけを否定するのも危険。麻原彰晃の説法がこの形式でした。「汚れた世の中をいったん破滅に導け」等のハルマゲドン待望につながります。日本のアニメが黙示録モチーフを反復するのは、「合格発表前に世界が滅びればいい」的な思春期の妄想に合うからです。これに抗えるのは現に自分が埋め込まれた共同性だけ。どうしても失えない「仲間」だけ。むろん「愛のために」と叫ぶ小児向け御題目じゃ駄目だけど。
切通
 東映の戦隊シリーズは、基本横並びで仲間だけど、平成ライダーは、どちらかというと反目しあう殺伐とした人間関係の中、たまに足並みが揃う。共同性とまでは言えないけれど、それを小さな救いとして、放映が進んでいきますよね。 
宮台真司氏㊧と切通理作氏
平成のウルトラ&仮面ライダーシリーズが失ったもの
宮台
 盲人たちが運営する施療院が舞台のロウ・イエ監督『ブラインド・マッサージ』は、視覚が共同性を阻害する事実を突きつけます。視覚がなくなれば遠隔から識別できる容姿の美醜や肌の色が意味を失い、近接性が必要な触覚や嗅覚が重大になる。視覚優位な遺伝特性を文化でどう変換するかが課題です。抽象化すれば「境界の外側――視覚の外部――の共通感覚」が課題です。

初期ウルトラシリーズや『怪奇大作戦』に喫煙が頻出します。それが九〇年代後半に禁煙運動が起こり、人気のない野外の一角で吸っても怒鳴りつける人が出てきた。煙草の有害さの認知よりも社会的文脈の変化です。本来は「法があっても、法外の共通感覚が境界を変える」のが当たり前。八〇年代末まで代々木公園の花見では焚火が普通。お巡りさんも「火が大きすぎるよ」と言うだけ。交通違反もお目こぼしが普通。人んちの庭で遊んでも怒られなかった。体育会のハメ外しが典型だけど、法外に出ても野放図にならずシンクロできることが「仲間」を証した。だから法外に出る祝祭が「仲間」を強め、禁忌を超えた性愛が「絆」を深めた。体罰もシゴキも「仕方ない時もある」と体験されました。

ところが法外の共通感覚が風化すると、体罰やシゴキが理不尽だと体験され、人権問題に頽落する。かくして郷さんのビンタに対する受け止め方も変わりました。かつては法外の共通感覚を確かめて「仲間」を強めたのに、逆に神経症的に法にしがみついて法外に出る人を目敏く見つけて一斉に叩き、インチキ仲間を捏造するようになる。フロイトが神経症に見出した不安の補償(埋め合わせ)です。勧善懲悪が否定できるのは共通感覚があるからこそ。でないと野放図なカオスです。逆に共通感覚を失えば、法を神経症的に遵守し、少しでも外れたら一斉糾弾。「総被害妄想化」です。ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズはこの変化を刻印します。
切通
 第二期の七〇年代にも既にそうした動きは始まっていて、『チャコちゃん』や『コメットさん』などのドラマを撮りながら、ウルトラシリーズも撮っていた山際永三監督は、あるときから「ケンちゃん」シリーズで、塀の上を歩くことを禁止されたそうです。そうした世間の圧力と闘いながら、作っていたんですよね。
宮台
 ブロック塀を歩いてどこまでいけるかという遊び、やりましたよ。ロケット花火の水平撃ちは、危ないと分かっているからこそ楽しかった。危ないことに注意を払いつつ真剣に遊ぶ。成長の一過程でした。そうした昭和的カオス――「仲間」を強める「野放図ではない法外」――を初期ウルトラシリーズを通じて再評価するべきでしょう。

切通さんも郊外論として論じておられるけど、目まぐるしい開発の余波で、第一期・第二期シリーズ当時の郊外は、飯島敏宏さんの一連の回が描くように「造成」に彩られていました。同時代、怪奇漫画の楳図かずおさんや古賀新一さんの作品にも、造成がつぶした墓や祠がそれと知らずに生活する住民に呪いをかける出来事が描かれた。僕が小一だった六〇年代半ば、住んでいた団地で三回続けて焼身自殺が起こり、調べてみたら元は墓だったと分かって、住民が神主を呼んでお祓いしました。造成されたこの場所は前は何だったのだろうという不安を、僕自身が生々しく記憶します。
切通
 飯島敏宏さんが、千束北男という名で脚本を書いた『ウルトラQ』の第一話、「ゴメスを倒せ!」もそうですよね。弾丸道路のトンネル工事中に洞窟にぶつかると、そこに古代怪獣ゴメスと、原始怪鳥リトラの蛹がある。結末は、リトラが溶解液を吐いてゴメスを倒してくれ、次の瞬間、リトラも命を落とすというものですが。そこから人間のドラマには戻らず、「弾丸道路の北山トンネルを抜けると、小さな墓標が立っています。それは勇敢なリトラの墓なのです」というナレーションが入り、終るんです。不思議な終り方ですよね。未来の社会では、怪獣たちの闘いも全て忘れられ、ただ道路が走っているのだと。消えていくであろう昭和の記憶と時代の変化を、象徴する話だったように思っています。
宮台
 かつての記憶と切り離されて時間軸が消えるのは、社会の終わりの始まりです。遺伝子変異による言語の獲得が四万年前。農耕牧畜による定住開始が一万年前。書記言語獲得による大規模定住化(文明化)が三千年前。農業革命による定住がストック保全のために法を生みます。法は言語的です。以前は法に従わずとも生きられた。それを忘れると内から湧き上がる力(内発性)を失う。言語の合理性に還元できない端的な動機を擁護すべく、時間軸を再生して法外を生きる共通感覚を取り戻し、「仲間」を再生する。だから祝祭があったし、言語(法)の合理性が暴走するのを抑止するための神話的思考もあった。初期ウルトラシリーズには、法外を生きる共通感覚を前提とした祝祭と神話が含まれます。平成の円谷シリーズと仮面ライダーシリーズには失われたものです。そのことに僕らは苛立つべきです。僕らが法外を信頼できた時代をミクロにでも取り戻すには何が必要か。切通さんの本の隠れた主題はそれだと感じました。
切通
 七〇年代のウルトラシリーズは、共同性が希薄になりつつある状況に対して、子どもたちに今、自分が何を言えるのだろうか、という煩悶の中で、作られていったところがあるのかもしれません。
宮台
 シン・ゴジラ登場のような悲劇が起これば、一時は共同性が復活するかに見えても、所詮は共通前提の不在を埋め合わせる「敵の共有」です。それを意図的に実現すべきだと提唱したのがカール・シュミットでした。でも、その愚昧は歴史が証明した。インチキ仲間による埋め合わせじゃない「仲間」の取り戻しの具体的戦略を、切通さんの本を読んで考えるといい。子育て中の親には第一期・第二期ウルトラシリーズを見てほしい。見て、子どもが決まりを破ることを許してほしい。決まりを破っちゃダメだと母親が言い、父親はちょっとぐらいはいいと言う。そんなバランスがほしい。それで子どもが「パパはかっこいいな」と思ってくれれば最高です(笑)。 (おわり)

※第二部は、ウェブにて近日公開予定。会場の質疑を含め「シン・ゴジラ」論まで発展します。
この記事の中でご紹介した本
怪獣少年の〈復讐〉 70年代怪獣ブームの光と影/洋泉社
怪獣少年の〈復讐〉 70年代怪獣ブームの光と影
著 者:切通 理作
出版社:洋泉社
以下のオンライン書店でご購入できます
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