私の消滅 書評|中村 文則(文藝春秋)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年7月22日 / 新聞掲載日:2016年7月22日(第3149号)

私の消滅 書評
「私」を揺さぶる物語 無意識の底から浮かび上がる「悪」

私の消滅
出版社:文藝春秋
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私の消滅(中村 文則)文藝春秋
私の消滅
中村 文則
文藝春秋
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「読む」という行為が、虚構を超えてしまう時がある。

感情移入というものでは説明がつかない。それは、本を閉じた瞬間、ここがどこで、今がいつなのかという現実性が完全に失われてしまって、ただ空白が流れていく、というような異様な経験である。

『私の消滅』を読み終えた時、まさにそのような空白が流れていた。それから我に返り、「私」を「私」たらしめているものは何だろうと考えた。「記憶」と脳が答えた。なんとあやふやなことだろう。その「記憶」が間違いなく自分のものであると、一体どうやって証明したらいいと言うのだ。さらに私は、小説のなかに自分自身の記憶が紛れていないか注意深く探しはじめていた。それほどまでに「私」を揺さぶる物語。それが、『私の消滅』だ。

大切なものを損なわれた者が、加害者である相手の記憶を意図的に書き換えて別の他者、例えば「自分」にしてしまう。そして、書き換えられた記憶自体に苛まれ、自己を消滅させるように導く。さらにその一連の出来事を書きとめ、読む者がいる。手記のなかの「私」。手記を読む「私」。凶行に及ぶ「私」とそれを裁く「私」。いくつもの「私」が輻輳して網の目のようになる。さて、「私」とは一体誰なのか。

事の起こりはある恋愛である。だが、その恋愛は幸福な形では成就しない。それを阻害したのはある「悪意」である。そこから、別の「悪意」が発動する。復讐と言ってもいいが、それは決して憎しみを浄化しない。もっと恐ろしく、遠大な、悪意そのものへの挑戦。憎しみの連鎖というような生ぬるいものではない。悪意が別の悪意を誘発し、悪そのものが拡幅され、世界を暗く、黒く塗りつぶしていく。

その「悪意」は、これまでもずっと中村文則が描いてきたものだ。すなわち、自分の外、社会や世間によって生じさせられるものと、自己内の暗部でいつのまにか増幅されていくもの。『私の消滅』では、内面の「悪」、それも、本人すら認識し得ない無意識の底から浮かび上がってくる得体の知れない「悪」について、徹底的な掘り下げがなされていく。

小塚というある心療内科医が書いた手記が中心に据えられる。そこには、幼い頃妹に殺意を抱き、母を傷つけた苦しみの生い立ちと共に、患者として出会った女性の凄絶な半生が書き加えられる。内なる他者に唆されて凶行に及んだのではないかという、宮崎勤元死刑囚に関する分析的な論文も挿入される。

やがて、それらを読んでいる作中の「私」は、その手記の「私」が一体誰なのかわからなくなってくる。それが自分ではないと言い切れないのだ。同時に、その手記が本当に「小塚」によって書かれたものかということも曖昧に滲んでくる。

ECTという、脳に電流を流して人為的に痙攣状態を引き起こし記憶の一部あるいはほとんどを失わせる療法が登場する。ECTと催眠によって、人間は自己を喪失するだけではなく、他者の凶行を自分の記憶とすることもできるのだ。

ドイツで大量殺人を犯したペーター・キュルテンの尋問調書を思い出す。あるいは、稀代の奇書と称される夢野久作『ドグラ・マグラ』――。

「私」が「私」であることの裏付けが不確かな「記憶」であることの危うさを突き、「悪」によって自己存在を証明しようとする者たちの愚かな哀れみを描く『私の消滅』。精巧なミステリーでありながら、「私」をめぐる哲学小説でもある。
この記事の中でご紹介した本
私の消滅/文藝春秋
私の消滅
著 者:中村 文則
出版社:文藝春秋
「私の消滅」は以下からご購入できます
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