土方巽―衰弱体の思想 書評|宇野 邦一( みすず書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2017年5月8日 / 新聞掲載日:2017年5月5日(第3188号)

土方巽―衰弱体の思想 書評
一冊以上の重みを感じる 
土方、そして宇野の言葉と思考

土方巽―衰弱体の思想
著 者:宇野 邦一
出版社: みすず書房
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多くの人が問う。土方巽はなぜ七〇年代のある時期から舞台に立たなくなったのか? 世間から身を隠すように過ごした時期があったのか?

宇野邦一は巻頭の文章で、彼なりの答えを出した。一九六八年のソロ公演「土方巽と日本人―肉体の叛乱」を頂点とする過剰さゆえ、土方は時代から孤立した。軋轢さえ生んだ。「彼はこの軋轢に傷つき、消尽したにちがいない」(「土方巽の生成」)

土方の過剰さは、宇野が感じた過剰さでもあった。宇野によると一九八三年二月。アルトー研究者の彼はパリから帰国し、ダンサー田中泯を介して土方と出会う。
「土方巽は、まずすさまじい〈言葉の人〉として私の目の前にあらわれた」(「『肉体の叛乱』まで/1 出会いの印象」)
「私のなかのアルトーが問われ、試され、結局私自身の心身が試練にかけられるような、いくらか『残酷』な出会いでもあった」(「まだ踊りつづける人に」)

土方は若き宇野を試したが、土方も自己を試し、鍛えた。踊りを再開するといい、タイトルは「アルトー論」だと宣言したが「ドストエフスキー論」に変えた。そして実現せずに死ぬ。

宇野が土方を考える時、手がかりにするのはその言葉であり、『病める舞姫』などの遺文である。土方の踊りを見なかった以上に、宇野自身が言葉と思考の人であり、土方が言葉と対峙し続けた存在だから。土方にとって「言葉こそが肉体を固定し、拘束する大いなる敵でもあった。だからこそ彼は、まるで言葉そのものの関節をはずすようにして言葉にむかったのである」「言葉と身体の境界線を本質的な意味でこえるという、ほとんど不可能な、大それた試みを、土方は舞踏の仕事と言葉の作業の両方を通じて実践したのだ」(「いくつかの問い/3 言葉」)

本書のタイトルは『土方巽 衰弱体の思想』である。だからこれは、宇野の「衰弱体」論でもある。クラシックバレエが見せる多くは、若く強く美しい肉体による所作だろう。土方は反対だ。土方の文章、例えば「遊びのレトリック」を引用しながら宇野はいう。土方は「『非人間的な力、人間以下の力』を『脆さ』と定義し、『脆さ』によって戯れることを舞踏の究極と考えている」(「土方巽の生成」)

宇野が土方に先行して向き合ったアルトーの言葉も引かれる。「身体にとって器官は無用なものだ」ミシェル・フーコー定義による、権力と結びつく生から解放された「器官なき身体」を作ることで、「人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由に戻してやることになるだろう」(「舞踏の書、死者の書」)

アントナン・アルトーと土方巽。実践の方法は違っても、両者とも「器官なき肉体」をテーマにした。宇野の展開は必然だった。

思い出す。若きアルトー研究者が土方に初対面した場に筆者もいた。宇野が試練と感じた時間を共有した。それ以降、三十数年を経て本書が成った。一冊以上の重みを感じる。田鶴濱洋一郎撮影の肖像写真を、今そこにいる土方本人と感じ、見つめている。
この記事の中でご紹介した本
土方巽―衰弱体の思想/ みすず書房
土方巽―衰弱体の思想
著 者:宇野 邦一
出版社: みすず書房
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