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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年7月22日 / 新聞掲載日:2016年7月22日(第3149号)

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時として原作の枠を超えるほど 精巧な謎解きの手本を見るよう


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我が国でもドストエフスキイを論じた書物は枚挙に暇がないが、キリスト教の主題を中心に据えて、作品の構成から隠された意図の解明にいたる創作の問題を俯瞰しようとする本書のような試みは決して多くなかった。ここでは中心的主題である「神と不死のテーマ」の解決を志向するアリョーシャを軸に、様々な人物との関係性を探るというユニークな方法が採用されている。聖書との関連の中で小説を読み解いていくという方法には、つねに神の真理への確信と、その登場人物への適用という難問に直面する運命にあるが、丹念に事実関係を精査し、そこに福音の意味を読み込んでいく著者の飽くなき探究心は、精緻な観察力と分析力に裏づけられており、それがドストエフスキイの創作観と整合性を得て、世界を統べる神の摂理の証明へと結実しており、作品論としてほぼ完成の域にあることは疑いがない。

わずかな事実と暗示のみが与えられているモスクワ時代のアリョーシャとリーザの関係に着目した著者は、二人の別離に始まる各々の人生の中で、「家畜追込町」で再び神を介して出会うことで「一粒の麦」(ヨハネ福音12章24)の譬えの実現を見ようとする。この二人の会話の確認に終わる論旨の一貫性を見ても、独創的を感じさせるし、現代の「ロシアの小僧っ子」たるこの青年が「永遠の生命」を求めて苦行に向かうといった構図にこそ、「生の一切は神の創造の讃美のため」をゾシマの言葉としたドストエフスキイの福音観の反映と見てほぼ間違いないだろう。まぎれもないこのドラマの主人公である「宗教的認識の深化と覚醒への道のほんのとば口に立っただけのこの青年の視野に、既にイエスの生と死を巡る福音書のドラマの全貌が納められ、その十字架が孕む逆説までもが十分に了解されていたと考えるには、いささかの無理がある」にもかかわらずである。

しかるに、著者が俗世の欲得ずくの生活理念に対するキリスト教世界観の絶対的優位性に確たる信を置いていなかったなら、悪魔的存在にまで変容したスメルジャコフやイワン、さらにはラキーチン、ホフラコワ夫人といった人々にまで、神の真実を適用し、彼らの心にも神に発する人間愛が脈打っていることを作家になり代わって立証する必要はなかったに違いない。そこにはすべてを支配する神の言葉、それを受け入れる人間の変容に対する揺るがぬ信念を認めざるをえない。こうした点に著者の底知れぬ熱意を汲み取ることができるとともに、多少、穿った言い方をすれば、時として、ドストエフスキイの原作の枠を超えるほど精巧な謎解きの手本を見せつけられているような気がするのである。

こうした試みの成果を十分認めたうえで、一言付言するならば、カラマーゾフ家の物語が作家にとっては、ロシアの実生活から取られた生きた素材であることが不思議なほど等閑視されている点である。一人息子アレクセイを失った失意の作家が魂の救いを得るために、オプチナ修道院のアムヴローシイ長老(ゾシマのモデルの一人)を訪ね、慰めを得たこと、そのアリョーシャが長老の死後、ガリラヤのカナの婚礼にも似た夢の中で、長老と奇跡的に邂逅するあの鍵となるクライマックスの意味についてほとんど触れられてないのは何故なのか。この点に正教の長老制と愛の原点を見るべきとすればなおさらである。
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