ゴーストタウン 書評|ロバート・クーヴァ―(作品社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年5月15日 / 新聞掲載日:2017年5月12日(第3189号)

ゴーストタウン 書評
垣間見える独特な政治性 
眼を凝らしても見えてこないものが一気にあふれ出す

ゴーストタウン
著 者:ロバート・クーヴァ―
出版社:作品社
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アメリカのブラウン大学創作科で長く教鞭をとり、自身も実験的なポストモダン小説の書き手として知られるロバート・クーヴァー。本邦では『ユニヴァーサル野球協会』はじめいくつかの翻訳が出ている。本作『ゴーストタウン』の原著は一九九八年出版。

この物語は西部劇である。作中で「彼」とだけ呼ばれる主人公は、馬を連れて街へ向かう。酒場では荒くれ者たちが酔っ払いながら賭博に興じ、「彼」に絡む。こうした舞台とキャラクターは西部劇仕立てだが、単なる西部劇にはならない仕掛けがある。

冒頭、「彼」が進む場所はこう描写される。 
「そこは何も起きたことがないように見えるが、同時にすべてがすでに終わってしまった――始まる前に終わってしまった――ようにも見える場所だった。そこにありながら、そこにない空間。恐ろしいと同時にありふれた、とてつもない虚空。」

〈何も起きていない/すでに終わってしまった〉場所。そこに立つ「彼」に奔流のように次々に届く西部劇のアイテム(トランプ、ムスタング、銃、保安官、女、インディアン、黄金伝説、列車強盗、銀山など)も安定しない。現れたと思ったらすぐに消え、何もなかったところに突如、出現する。場所だけではなく人も物もそして出来事さえも〈起きていない/終わった〉の重ね合わせの中にある。これこそが物語を良くある西部劇にしない仕掛けだ。ジャンルのキーワードを過剰化することで、ジャンルを解体してしまう。

西部劇の舞台、キャラクター、アイテム、出来事がそれぞれ点滅しながら網羅される。一本筋のわかりやすいストーリーは排除され、その場その場の即興劇を続けながら「彼」は無限の荒野をさすらう。しかし、移動という概念もまた「彼」から排除されている。場面転換は唐突だ。夢を見るように/夢から醒めるように、気がつけば違う場所に立ち、ともすれば違う役割を与えられる。「保安官」から「馬泥棒」へと極端な触れ幅さえ見せる。

クーヴァーがしたいことは何なのか。言葉遊び、イメージの奔放な連鎖、ストーリーの脱臼。どれもが正解だが、中でも強調したいのは、ジャンルと器用に遊ぶ手つきの先に、独特な政治性が垣間見えることだ。銃が暴力を、(銃によって開けられた、あるいは女性の身体にある)穴が性を象徴している。この暴力と性がぐちゃぐちゃに入り乱れる中を、嵐のようにやって来ては去っていくのは野蛮なインディアンたち。彼らは〈何も起きていない/すでに終わってしまった〉場所に囚われている。白人によるアメリカ入植/建国の歴史が抑圧してきたもの、現代のアメリカという場所ではどんなに眼を凝らしても見えてこないものが、一気にあふれ出す。

クーヴァーの物語は絵画的というより言語的なのだ。絵は否定できない。たとえバツ印をつけても、それもまた絵の一部として吸収されるためだ。他方、言葉は否定できる。ただし否定された言葉は、否定されたものとしてそこに残る。本書のタイトル『ゴーストタウン』のゴーストとは、アメリカの歴史が抑圧してきたものの回帰を暗示している。

ポストモダン作家とカテゴライズされるクーヴァー。ポストモダン小説とは言葉遊びに耽溺している非政治的なものと思われるかもしれない。しかしクーヴァーは、言語的な両義性、〈ある/ない〉を徹底した西部劇を演出することで、彼独自の政治性を作中に忍び込ませることに成功している。(上岡伸雄、馬籠清子訳)
この記事の中でご紹介した本
ゴーストタウン/作品社
ゴーストタウン
著 者:ロバート・クーヴァ―
出版社:作品社
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