対談=柴田元幸×大宮勘一郎 オースターの体(私=傷)と内面(私=他者) ポール・オースター『冬の日誌』『内面からの報告書』(新潮社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年5月25日

対談=柴田元幸×大宮勘一郎
オースターの体(私=傷)と内面(私=他者)
ポール・オースター『冬の日誌』『内面からの報告書』(新潮社)刊行を機に

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ポール・オースターの自伝的作品Winter Journal(2012)とReport from the Interior(2013)が、『冬の日誌』『内面からの報告書』として、ふた月続いて刊行された。訳者は八〇年代後半からオースターの作品を日本の読者に贈り続けてくれている、翻訳家で東京大学名誉教授の柴田元幸氏。この刊行を機に、柴田氏と、オースターに造詣の深い東京大学教授・ドイツ文学研究者の大宮勘一郎氏に対談をお願いした。二作を中心に、過去の自伝的作品から小説まで、オースターの世界全体を貫く対談となった。オースターファン必見! そして未来の読者にとっても、この対談がよりよいオースターとの出会いの場となることを。(編集部)

宿命的な文章の端正さ

大宮
 今年の二月、三月と、続けてポール・オースターの自伝的な作品が、邦訳で刊行されました。いずれも読み応えがあり、またオースターの「これまで」と「これから」を考える際にとても示唆的な作品です。もちろん、長年オースター作品を訳されてきた柴田さんの仕事によるものです。

そもそもの話になりますが、柴田さんのポール・オースターとの出会いは、いつのことですか。
柴田
 八〇年代の後半、三〇代前半のころです。修士論文ではバーナード・マラマッドを取り上げ、ユダヤ系アメリカ文学の研究者を目指していましたが、どうもうまく行かず、メルヴィル等の古典の研究を目指すにはもう遅すぎるし、やや方向性を見失った時期に、目についたものを乱読していて出会ったのが、ポール・オースターでした。ペーパーバックの表紙がとにかくかっこよくて、読んでみたらとても面白くて。
大宮
 最初に手に取ったのは……。
柴田
 『ガラスの街』です。村上春樹さんが『風の歌を聴け』で登場したときに、こんな文体があるのかと心踊ったものですが、同じようにオースターの『ガラスの街』は、こんなクリアな文章があるのかと、とてもうれしかった。

当時は、自分が翻訳をやるなど考えていなかったし、出版事情にも通じていなかったので、この作品は当然邦訳されているのだろうと。ところがまだされておらず、その後まもなく僕自身翻訳する機会が出てきて、幸運にもそういう流れの中で、オースターを翻訳し始めたんです。

大宮さんはドイツ文学研究者ですが、かなりオースターを読み込んでいらっしゃいますよね。同じ質問になりますが、どのような出会いがあったのですか。
大宮
 僕がオースターを追いかけるようになったきっかけは、二〇〇一年にアメリカで起きたテロの数時間後に書かれた、小さなエッセイです。「RandomNotes:September11,2001――4:00pm」という、日本では、柴田さん訳の『トゥルー・ストーリーズ』に所収されているものです。
柴田
 初出は何に掲載されたのでしたか。
大宮
 ドイツの週刊新聞「ツァイト」の九月十九日号で、僕は滞在中のベルリンで読んだのです。

オースターの友人で、綱渡り芸人のフィリップ・プティが、一九七四年にツインタワーの間に張ったロープを渡ったことを、「忘れがたい美しさをたたえた行為だった」と回想した箇所がとても好きでした。さらに、一八一二年のイギリスによる攻撃への言及。初めてアメリカ本土が攻撃されたという歴史の歪曲を、先回りして正すような言及に、ハッとしました。やむにやまれぬ気持ちで書いたと思いますが、バランスと抑制の保たれたテクストでした。世界が騒然としている只中で、政治的なプロパガンダに対する懐疑と耐性を持ち堪える文章が印象的で、この人は信頼できる作家だと思いました。それ以前にも柴田さんの訳したものをいくつか読んではいましたが、二十一世紀が始まったと同時に、僕にとって大事な作家になりました。
柴田
 オースターという作家は、少なくとも散文に関してはバランスを欠くことのない人です。直接関係のない話ですが、以前、僕はアメリカに取材に行き、作家幾人かにインタビューをしました。そのとき同行したフォトグラファーは、オースターが一番撮りにくい。カメラを向けた途端、写真になってしまっていると。
大宮
 スナップショットにならないんですね。
柴田
 彼にカメラを向けた時点で既に写真になってしまっている。雑談さえも小さな物語になっている。それと同じ次元で語るのは失礼ですが、文章の端正さも、宿命的なものではないか、と思うほどです。
大宮
 僕はさして英語に通じているわけではないですが、それでもソリッドな文章だという印象を持ちます。構築的で、簡潔体というのか、シンプルだけど語の一つ一つにそれぞれの重さがある。省略して余韻で流すような書き方は全く、しないですよね。それが、結末のドライブ感と相俟ったとき、滑らずに、ぐいぐい牽引されていく。その読み心地が癖になるんです。
柴田
 その感覚、よく分かります。オースターを長年訳してきて、唯一発見した真理は、この作家は、大事なことは少し表現を変えて二度繰り返す、ということ。

粗筋は普通、いろんなポイントが同じ重さで並んでいるから、読んでもなかなか頭に入って来ませんよね。オースターは、小説内小説、物語中物語のような、入れ子構造をよく使いますが、ほとんど粗筋に近い語りなのに引き込まれます。それは、大事なところでいったん止まり、繰り返すという操作が、行われているからなのではないかと。

まあお世辞かもしれないけど、ニューヨークでオースターと公開対談をした折にそのことを指摘したら、「皆さん、翻訳者というのは、作家以上に作家のことを知っているんです」と言ってくれました(笑)。
「分身」―自己の複数性

大宮
 このような文章を翻訳するのは、楽しみでもあれば、ご苦労も多いのではないですか。
柴田
 実はあまり苦労している感じはないんです。詩と違って小説の翻訳は、訳者がなるべく余計なことをしないほうがいい、という経験則が僕にはあります。ただ、例えばスティーヴン・ミルハウザーのように、世界を緻密に視覚的に描写する作家だと、英語と日本語の抱える差異のために、ある程度文章を組み替えたり整えたり、操作をする感覚があります。でもオースターのストレートな文章は、余計なことをせず、とにかく目の前にある文章をシンプルに訳すことだけ、頭に置いていればいいんです。
大宮
 それを下手な訳者がやれば、説明調になってしまうのでしょうけど。今回の二作、静謐で心に沁みる翻訳だと感じ入ってます。
柴田
 そもそもアメリカ文学は、余計な装飾のない文章をよしとする美学がありますよね。ヘミングウェイが極めて、その後もずっと続いています。妙な言い方ですが、文学的な文章は文学ではない、文学性を取り除くことで文学になる、という意識があります。

ですから、過去にヘミングウェイの作品を訳した時にも、なるべく余計なことはしないように努めました。ただこの人は少しおっかなくて、翻訳中に背後で「余計なことをしたら張り倒すぞ」と睨まれている感じ(笑)。オースターは、もう少し優しく、見守ってくれている気がします。
大宮
 なるほど(笑)。

もともと「削ぎ落とす」ことが、アメリカ文学における美学なのですね。

個人的な関心として、一九九〇年ごろから「分身」というテーマについて考えているのですが、オースターはこのテーマに、非常に貴重な手がかりを与えてくれる作家です。
柴田
 「分身」とくれば、ドイツ文学が本場ですよね。
大宮
 遡ればオヴィディウス『変身物語』から、アメリカの現代文学まで、底流のように連綿と続くテーマなのですが、「分身」といえば、ドイツのロマン主義文学がまず想像されますよね。鏡像的他者といった、自分と似通った存在が現れて、その間に緊張関係が生じるという類型です。
柴田
 近代的な自我が確固としてあるという思いへの反動として、出てくるものと捉えればよいでしょうか。
大宮
 ロマン主義における分身のモチーフの頻出には、いろいろ説明がありますが、今仰ったことが大きいと思います。

でも同じ「分身」でも、オースターの場合は少し違います。分身同士の角逐や対決は、『ガラスの街』を含む初期の「ニューヨーク三部作」をはじめとし、その後も多くの作品に出てきますが、それは人間存在の根源的な複数性が、前提になっていると思うのです。
柴田
 先日、オースターについて、翻訳家の藤井光さんと対談しました。藤井さんは僕より一世代若いので、オースターを同時代の作家として捉えていないんです。それでは、オースターと現代の若手作家とはどう違うかと尋ねたら、自己の複数性のあり方が違うように思う。特にインターネット世代は、自分が今ここにいるという根拠が非常に薄く、今はたまたまここにいるけれど、あちらにいてもおかしくない、という感覚を持っていると。

オースターにとっても、自分は完結した一個のものではないけれど、まずここに中心的な自分があって、それと対置するように、ほかの様々な分身が存在するのではないか、と。面白い指摘だと感じました。
大宮
 なるほど。ですがオースターには確固たる自己というものを疑う「私」がまずあるような気がするんです。オースターは先行する様々な存在を引き受けていて、オースターの分身がいるというよりは、オースター自身がその先行する様々な存在に対する分身なのではないか、という印象です。
柴田
 『冬の日誌』に書かれた、自分が誰だか知りたいけれど分からない。その血脈を遡ればそのルーツは、モンゴルアフリカアラブ中国インドコーカサス、までも広がってしまう、という発想ですね。
大宮
 作家や文学者は、多かれ少なかれ、先行する存在を引き受けながら、連綿と続いてきたものを描きなおし、生の連鎖を作ってゆきます。オースターはそうした系譜的な関係性に自覚的で、自分がある意味では、ドイツ文学でいえばカフカの分身でもあるし、クライストの分身でもあるし、ロシア文学のドストエフスキーやバーベリの分身でもあると。そういうものを、意識的に引き受けていると思います。

主人公、語り手の生、ひいてはオースターの生もまた、創作や回想の「原因」としてあるのではなく、系譜的な連鎖の「結果」に過ぎない。つまりその生は、様々に反復される生の連鎖の末端に位置する、ということを自覚しているのではないか。

ロマン主義文学の「分身」は、「私」を前提に立ち現れる存在ですが、オースターの場合は、一つの歴史が綯われ引き受けられた結果なのだと思うのです。
柴田
 一方で彼は、ニューヨークの街にアイデンティファイしているし、好きな街はパリだし、観察者としてではなく当事者として、自分が物事の中心にたまたまではあれ居合わせたという意識も持っていると思うんですよね。
大宮
 それは感じます。オースターの作品では、現実の重層性を描くことも特徴として挙げられますが、多重な現実の中で拡散する同一性と、同一化による継承とは矛盾しないと思うのです。どちらに重きをおくかは、読者の世代や嗜好の問題なのかもしれないですね。
破壊と構築、暴力を介 在に他者を引き受ける

大宮
 オースターの特徴としてもう一つ、物事の列挙がありますよね。これまでに出会った人物や物事を呼び起こし召喚して、それらを書きつける。その繰り返しを、彼の物語の基本的な身振りとして、大事にしているように思うのです。
柴田
 『冬の日誌』でも、自分の今までの二十一もの定住居を列挙して、そこで何があったかを克明に記していますよね。あれは、コロンブスの卵です。あのような自伝の描き方は、今まで誰もしていない。本人、番地まで調べるのは大変だったよ、と言っていましたが(笑)。
大宮
 初期の作品でも、例えば『孤独の発明』は、全編を通じてそうした記述を試みていますよね。『冬の日誌』では他に、子供のころに愛した食べ物や、ジェイムズ・ジョイスの手が行ったであろう様々な事柄、自分の数々の仕草などを列記しています。『内面からの報告書』には、生まれ年の一九四七年に起こった出来事の列挙もありました。シンプルな文体で、物事を列記していくこと。それを読ませてしまう力。オースター文学に独特の魅力ですよね。
柴田
 列記するとき、物語は進まないですよね。物語というものが、横軸を直線的に進むものだとすれば、列挙は垂直に世界を眺める感じでしょうか。
大宮
 そうですね。進まず、時間の流れを断ち切る別の「時」を垂直に招き入れるような、回想のしぐさかもしれません。記憶に対するこうした姿勢は、ドイツ文学ではW・G・ゼーバルトを感じさせるところがあります。『内面からの報告書』の末尾には、本書に関係する写真がアルバムとして収められていますが、写真や絵を散文と組み合わせる、ゼーバルトの作風が思い起こされました。
柴田
 ゼーバルトの存在も僕はオースターから教わりました。早くに亡くなりましたが、最後の偉大な作家という印象がありますね。
大宮
 ゼーバルトにかこつけて、もう一つ話を進めたいのは、「暴力」というテーマです。ゼーバルトの作品では、暴力は潜在的なものとして留まっている。既に起っている巨大な暴力の余波は存在しますが、作中に直接暴力が露呈することはありません。一方のオースターは、暴力を顕在化させます。私は、オースターは「暴力の作家」だと考えています。ただ、オースターの暴力は、単に破壊的なだけでなく、構築的な作用を併せ持っている、その点が面白いんです。
柴田
 確かに、オースターの世界に、「暴力」は不可欠な要素ですね。暴力のもたらす構築的な面について、もう少し伺えますか。
大宮
 オースターの暴力は、ごく身近な隣人や知人に対して働きます。愚かで卑小で、時に致命的な暴力です。その暴力が一方では、人と人とを結び付け、抜き差しならない関係に置く。暴力を介在して、一つの集団として形作られる。そういう要素を持っていると思うのです。

例えば『オラクル・ナイト』のシドニー・オアと妻のグレース、友人のジョン・トラウズという三角関係――これは、オースターの作品世界で、繰り返し描かれる人物関係ですが――、さらにジョンの息子を加えた四人の結び付きは、裏切りと暴力を孕むものでした。お互いに傷を負わせることで、結び付く。傷を負わせる関係性というものが、オースターの共同体の基本をなしているように思います。
柴田
 『オラクル・ナイト』では、不思議な青いノートに主人公のシドニーが描く作中物語が、小説内の現実に影響を与え、登場人物たちの生を歪め、思いもよらぬ方向へと変化させていきますね。その物語内物語には、「オラクル・ナイト」という小説が出てきもし、さらにトラウズはオースターのアナグラムでもある。
大宮
 「分身」のテーマが幾重にも織り込まれていますね。これは、それぞれが、誰かの存在を継承した分身であり、致命的な暴力を皮切りに、別の生を生きることを強いられる物語、だということができるかもしれません。
柴田
 例えば『幽霊たち』の結末では、主人公の探偵が、依頼を受けて見張っていた人物――その正体は、依頼人自身であるのだけれど――を叩きのめし、依頼人の書いていた物語を引き受けて、ある種、別の人間となって旅立っていきますよね。
大宮
 暴力で叩きのめすことで、探偵は依頼人の生を引き受け、その分身として生き始める。オースターの暴力とは、物語の継承をもたらすためのものだと思うんです。
柴田
 普通、暴力とは他者に対してふるうものであって、それによって相手の何かを引き受けるということには繋がりませんよね。
大宮
 そうですね。暴力に倫理性があるという逆説というか……。暴力を介在して他者を引き受ける、という点では、オースターが激賞するカフカが浮かびます。カフカとの響き合いは他にも「アサイラム=避難所」のモチーフが見逃せません。例えば「巣穴」という作品などは、オースターにその影響がちらつきます。

オースターのアサイラムは、多岐にわたりますよね。ゴミ箱、キャンピングカー、洞窟など。
柴田
 部屋に籠って監視し続ける『幽霊たち』もそうですし、『孤独の発明』は、アサイラムに籠り続ける男の話ですよね。先行作品として、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』も思い浮かびますが……。
大宮
 そうですね。やはり、オースターの作品はいろいろな人を引き受けてできているという感じがします。
柴田
 実際、作品内に引用が多いのもそのことと通じるんでしょうね。
傷こそ「私」、偶然の下で 傷を負い続けること 

大宮
 新作二冊の話に戻りますと、オースターの自伝的作品のほぼ最初に当たるのが『孤独の発明』です。これはアメリカで一九八一年に刊行されました。父親が死んで、一週間後に書き始めたとありますね。母親が亡くなったのは二〇〇二年ですが、二〇一二年に原書が刊行された『冬の日誌』が、母親について多くを語った初めての作品になり、母親の死から十年が経っています。詮索は無粋なので止めますが、少し気になる点です。
柴田
 うーん、やっぱり歳をとるとあっという間に時間が経ってしまうという一般論かなとも思いますが……。『孤独の発明』と『冬の日誌』の間には二〇年程ありますが、それでもこの二冊は対として考えることができます。一方で『冬の日誌』は身体の話でもあって、その後に『内面からの報告書』が出て、今度は身体と内面の対ができています。
大宮
 確かに、『冬の日誌』は、オースター独特の身体論にもなっていますよね。私たちの身体は生まれ落ちて後、無数の傷を受けては治癒する、その繰り返しで生きていると一般的には考えますが、オースターの「私」はむしろ、受け取った傷によって形作られているかのようです。オースターにかかると、傷こそが身体で、傷こそが「私」で、傷があるからこそ自分は「私」以上の何かでありうる、その証なのだと。

これは先ほどの暴力のテーマとも関わってくるのですが、傷を受けてこそ、「私」は世界と関わる存在になりうる。本書は二人称ですが、傷を受けることで、私自身を「君」と呼ぶことができる、小さな共同性が成り立ってくる。その中で「君」はようやく生き始め、小さな歴史を形作り、小さな物語を紡ぐことができるのだ、と。そんなふうに読めるのです。
柴田
 傷には当然、身体的なものもあれば、精神的なものもありますよね。『内面からの報告書』では、読書競争で圧倒的一位になったことで、教師に嘘つきよばわりされたエピソードが回想される。一方では初めて書いた小説を教師に褒められ、皆の前で読む栄誉を得てもいるのですが、どちらがより身体に響き、より彼を作っているかといえば、間違いなく前者でしょうね。それはたぶん、大抵の読者にとってもより心に残る話だと思う。この二冊の自伝的作品は、大宮さんが仰る通り、どういう傷が積まれることで自分ができてきたか、そのことを振り返る話だといえると思います。
大宮
 ただし、傷を負うのは自分で選んだことではないし、病もケガも事故も、偶然に委ねられていますよね。オースターによる「私」というものの形作られ方を一言でいうと、あらゆる意味においての「chance」ではないかと。
柴田
 偶然、不慮の出来事……。
大宮
 あるいは好機。『偶然の音楽』の賭博などは典型ですね。『冬の日誌』には、割礼の記述もありましたが、これもオースターにかかると、あらかじめ定められた宗教的・象徴的儀礼というよりは、偶然の寓意のように思われてきます。つまり、こうしていろいろな傷を、自分はこれからも受けていくであろう。それについて、自分はまだ何も知らないし、いつどこで傷を受けるかも分からないけれど、その傷こそがお前になっていくんだ、と。オースターは傷に向かって自らをあえて晒すようなところがありますよね。
柴田
 子どものころの思い出を並べたときに、熊手が頭皮に刺さったとか、頬に釘が突き刺さって顔が引き裂かれたとか、額が割れて血が噴き出したとか、普通はああいう羅列にはならないですよね。その傷の数々を、あたかも人生のハイライトのように列挙する。
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大宮
 二〇〇二年は、オースターにとって最悪の年で、自動車事故があり、眼疾になり、母親を亡くし、パニック発作も起こっています。そしてこの二〇〇二年を挟む前後数年の間に書かれた作品は、緊張に満ち、テンションが非常に高い。『幻影の書』は同時多発テロ以前に出来上がっていたということですが、出版が二〇〇二年。『オラクル・ナイト』は母親が亡くなった後の、二〇〇三年の作です。先程、暴力のモチーフで引き合いに出しましたが、この両作品では、各々が他の誰かを傷つけ、また傷つけられます。その暴力のテンションの高さという点でこの二冊は、オースター作品の双璧で、これ以降の小説作品では暴力の抽象化が見受けられます。

最悪の年を挟み、予感・予兆と余波の中にあってこそ、それぞれ書かれ得た作品なのではないか、と想像します。そのことを『冬の日誌』を読むことで、改めて感じました。
自分の内面を棲家にするのは「私」だけではない

大宮
 そして『内面からの報告書』に話を移すと、注目したいのは、幼年期以来繰り返される、自分という存在の流れを見失う体験です。〈時おり、見たところ何の理由もなく、突然自分という存在の流れを見失うことがあった。それはあたかも、君の体の中に棲む人間が偽物に変わってしまったような、もっと厳密に言えば誰でもない存在に変わってしまったような感覚であり、自分というものが体から滴り出ていくのを感じながら君は呆然と解離状態で歩きまわり、いまが昨日なのか明日なのかもわからず、目の前の世界が現実なのか誰か他人の想像の産物なのかも定かでなかった〉。自分の内面だけれど、この内面を棲家にしているのは、自分だけではない、ということの最初の自覚でしょうか。
柴田
 なるほど。中心的な自己があるわけではなく、むしろオースターこそが分身なのだ、という先ほどのお話にも通じますね。
大宮
 遥か昔の人も含め、見も知らぬ多くの人間が、自分の内面を棲家にしている。そしてこれからも多くの人が、自分の内面を棲家にしていくのではないか。ここに描かれているのは、そういう予感なのだと思うのです。内面というものが、たった一人の「私」から出来上っているものではないということを、子供のころから、オースターは感覚として持っていたのではないでしょうか。
柴田
 あとがきに書いたのですが、ごく幼いときにオースターがなした最大の発見は、自分がアメリカで生まれたアメリカ人ではなく、ユダヤ人だという事実であり、彼はまわりのみんなと違っていることを、つねに傷のように、あるいは自負として、抱えてきたのだと思うんです。

彼がニューヨークを讃えるとき、その根拠にあるのは多様性です。一つの街にいろいろな人間がいて、いろいろなことを考えている、それが素晴らしいと。しかし実は、それを一人の身体の内でやっているところもあるのではないか、ということなのですね。
大宮
 こうしたことを裏返してみると、この二つの自伝的作品は、もちろんオースターがこう生きてきた、という過去の事実の記述でもあるけれど、小さなずれが生じさえすれば、ほんの少し違う傷を受けていたならば、あるいは内なる別の誰かが不意に目覚めたならば、別の人生でもあり得たという、仮定法の領域をもう一度自覚して、改めて確保する、そのためのものでもあったように思います。
柴田
 これも先日藤井さんに言われてなるほどと思ったのですが、今回の二冊についての、人生は偶然でできている、というような捉え方は、『ムーン・パレス』や『偶然の音楽』などの小説を書くことで、より固まったのではないか。にわとりが先か、卵が先かの話になってしまいますが、もともと彼の中にあった人生観で小説を書く、一方、書くことを通じ、人生観が強固になり、実人生を振り返るときに反映される。そういうことがあるのではないかと。
大宮
 そうですね。オースターは、書くとは存在することだ、と言いますが、書くように存在するのでもある。今回の自伝二作では、書くことで傷をなぞり返す、傷の衝撃を(治すのではなく)取り戻す、という印象があります。ひっくり返せば、オースターにとって存在するとは、偶然の下で傷を負い続けることではないか。そう言ってしまうと、受難の作家のようですが、そこに生まれるのは、動揺のない構文の端正な、しかし血の匂いを含み漂わせた文章なんですよね。この宿命が「オースター」なのかと。
柴田
 先ほど、粗筋の話が出ましたが、『内面からの報告書』の「脳天に二発」の章も、ほとんどかつて観た映画二本の要約と言っていい文章ですよね。大宮さんのお話を伺って、彼にとっては映画を観ることも、傷を受けることなのだ、と思いました。何しろ「脳天に二発」ですから(笑)。オースターは観た映画に傷を受け、それを書きつけることで傷をなぞり、自分ができていく過程をたどり直す。その働きがあるからこそ、一見単にストーリーを追っているだけの記述が読者の心に残る。

個人的な感想ですが、この二冊を訳して、自分が如何に漫然と生きてきたかを痛感しました。自分と比べて、オースターはちゃんと生きている。それはつまり、本一冊読むにしても、音楽一つ聴くにしても、彼が一つ一つ傷を負っているということなんですね。
言葉の力、文章の推進力、 理想としてのアメリカ

大宮
 ちゃんと生きている、というのは本当に耳が痛いです(笑)。

柴田さんにとってのオースターは、他のアメリカ文学の作家に比べて特別な位置付けがありますか。
柴田
 僕にとっては、オースターとスティーヴン・ミルハウザー、スチュアート・ダイベック、スティーヴ・エリクソン、この四人の存在が同じように大きいです。ミルハウザーは視覚的に物を描く人、ダイベックは情緒の人、エリクソンはパッションの人。その中でオースターは、物語の人ということになるのかな。
大宮
 四人はそれぞれ、由緒も違うし、傾向も違う。でも全員揃って、バランスのとれた現代アメリカ文学、という感じがします。
柴田
 オースターはアメリカでも数少ない、本だけで食べていける純文学の作家です。それでも、真ん中にいる感じはしないですね。以前、ニューヨーク・タイムズの記者に、日本ではジョナサン・フランゼンよりポール・オースターの方が読まれている、と話したら、そんなはずはないと言われました。近年、若手の作家の作風も随分変わってきましたが、基本的には堅実なリアリズムこそ純文学である、という見方がアメリカにはまだあって、その点オースターの作品は寓話だ、ということになってしまうみたいです。細部描写とリアリティは、小説の命ではあるけれど、みんながみんなそれに寄りかからなくてもいいんじゃないかと思うんですが。
大宮
 オースターはしばしばリアリティよりも、言葉の力や文章の推進力を優先する気がします。
柴田
 次はどうなるのか、と読者を引き込む力は、オースターと村上春樹は抜群ではないかな。決して似ている作家とは思いませんが。
大宮
 オースターの作品には、アメリカを捉えなおそうという視野がありますよね。あるいは、こうあるべきアメリカが、どこかで儚く描かれている。
柴田
 それはスティーヴ・エリクソンも、フィリップ・ロスも同じだと思います。アメリカという国を描き出そうとするとき、現状だけではなくて、理想も込められている。あるべき理想としてのアメリカ、というものが、彼らの中に存在しているんですね。日本には、現状と前例だけで理想はない。いやむしろ、国を描くときアメリカみたいに理想がついてまわることの方が、珍しいのかもしれませんが。
大宮
 理想が成り立つのは、アメリカが宣言でできた国だからだと思います。歴史がいったんさらになったところで、理想に強烈なリアリティがあった。こうでもありえたはず、という仮定法が生きるのもそのためではないでしょうか。オースターは、やはりアメリカの最もよいところを受け継いでいる作家だと思います。
柴田
 その分、現在のアメリカに対する憤りは強く、インタビュー画像を見たのですが、ドナルド・トランプが大統領になったことで、ペンクラブの会長になる気になったと。今までは要請されても断ってきたけれど、発言の場所が必要だから、会長になって出来るだけ声を上げていくと。
大宮
 期待したいですね。

『冬の日誌』は、「老い」を通奏低音としていますが、この「老い」から何かが生まれるのではないか、という希望と予感と共に読みました。『内面からの報告書』から三年を経て『4321』を手にとったとき、八六六ページというその分量に驚きながら、ああこれが準備されていたのか、と純粋にうれしかった。
柴田
 僕も同じ気持ちでした。インタビューでオースターも、この二冊を書いたからこそ『4321』を書けた、と語っています。
大宮
 例えばコロンビア大学時代のシット・インの場面など、緊迫していながら、同時に読んでいてとても幸福でした。最後もハッピーですし(笑)。

大変なお仕事ですが、『Invisible』『Sunset Park』、そして『4321』の翻訳を、楽しみにお待ちしています。 (おわり)
この記事の中でご紹介した本
2017年5月19日 新聞掲載(第3186号)
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