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更新日:2017年5月23日 / 新聞掲載日:2017年5月19日(第3190号)

ピストン堀口、トミーを破る

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日本拳闘倶楽部主催の拳闘試合は、五月一日午後六時半より両国国技館に於て挙行せられ観衆満員大盛況を呈した。一回戦を除いた以外はピストン堀口終始優勢を示し、七回戦に於てヤング・トミーに反則あり、遂に堀口の勝が宣せられた。(『歴史写真』昭和九年六月号)

昨年夏のリオ五輪からプロ解禁となったボクシングだが、日本に初上陸したのは、なんと黒船が運んできてのことだった。一八五四(嘉永七)年、二度目の来航で横浜を訪れたペリー艦隊の水兵と日本人の大関が異種試合したと記録されている。野球やサッカーを抑えて、「一番乗り」の知られざるボクシング史である。

プロボクシングの登場も、プロ野球に先行し昭和六年に全日本プロフェッショナル拳闘協会が発足、まもなく二派に分裂するが、拳闘(ボクシング)熱は一気にたかまった。八年には国内のジムが全日本拳闘連盟として再結束、ここに新しいヒーローが登場する。
「拳聖」とうたわれるようになる、フェザー級の通称「ピストン堀口」(堀口恒男)が彗星のようにデビューしたのだ。

写真は、昭和九(一九三四)年五月一日午後六時から始まったヤング・トミー(フィリピン)との試合に勝利した堀口、この日の会場となった東京両国の国技館は、満員の観客二万人を数えたという。『歴史写真』昭和九年六月号の一ページだ。

堀口恒男は、大正三(一九一四)年十月七日に、栃木県真岡市の警察署長の長男に生まれた。旧制真岡中学では柔道部主将として、県下に知られた選手だった。

写真右の中央でカップを手にする堀口の風貌は、現在高校野球で豪快なホームランを飛ばし続けてファンを熱狂させている、早稲田実業の清宮幸太郎を彷彿させるものがある。

堀口は、真岡中学先輩の「日本ボクシングの父」渡辺勇次郎に見出されて、早稲田大学に入学した八年にプロデビュー、五引き分けを挟んで四十七連勝という記録を残した。その間、東洋フェザー級チャンピオンを獲得したが、戦争で世界王座への道は閉ざされる。十六年五月二十八日に両国国技館で行われた対笹崎戦「世紀の一戦」を機に「拳聖」と称されるようになった。
「通算成績は百七十六戦百三十八勝(八十二KO)二十四敗十四分。最多試合、最多勝利、最多KO、最多連勝などの日本記録は二度とやぶられないといわれるほどの大記録を持ち、時代がちがうとはいえ、一カ月で一試合のペースで戦った。さらに一週間のうちに十戦を四試合こなしたこともある。それでも試合になると 堀口は疲れた素振りは全くみせず、ピストンのように打ちまり人々の心を魅了した」(ピストン堀口道場ホームページ)

堀口の驚異的な実績が、日本のプロボクシング界を牽引したのである。
「ピストン」の名の由来は、その戦法にある。

堀口は、アムステルダム・オリンピック(昭和三年)に参加した岡本不二コーチのアドバイスから、対戦相手をロープに追い詰めて左右の連打をし続ける得意技を編み出した。ピストン戦法が始まると、観客が「わっしょい、わっしょい」と大合唱で声援を送った。

この昭和九年十一月二日にはベーブ・ルースらアメリカ大リーグ・チームが来日し、年末には職業野球団大日本東京野球団が創立した。しかし燃え上がったスポーツ人気は、戦争で沈んでしまう。東京巨人軍エースの沢村栄治はじめ戦死したアスリートも少なくない。

堀口は、引退まもない戦後の昭和二十五年十月二十四日深夜、酔って東海道線の線路上を茅ヶ崎方面へ歩いていて帰宅途中、列車に撥ねられて亡くなった。墓碑銘に「拳闘こそ我が命」と刻まれている。(いわお・みつよ=ジャーナリスト)
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