対談=橋爪大三郎・若松英輔 「弧」を読み「円」を描く 『オックスフォード キリスト教辞典』(教文館)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2017年6月1日 / 新聞掲載日:2017年5月26日(第3191号)

対談=橋爪大三郎・若松英輔
「弧」を読み「円」を描く 『オックスフォード キリスト教辞典』(教文館)刊行を機に

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『オックスフォード キリスト教辞典』の2013年の最新版を底本とした日本語訳のキリスト教総合辞典が、立教大学名誉教授の木寺廉太氏の訳で刊行された。
キリスト教を研究する人には必携とも言われるこの辞典について、キリスト教についての著作も多い橋爪大三郎氏と『イエス伝』などの著作がある若松英輔氏のお二人にお話いただいた。(編集部)


「人」と「事」の接点を みさだめながら読む

若松 英輔氏
若松
 この辞典は、知らないことを調べるより、知っていることをもう一回確かめてみたときにとても興味深い発見ができるように思います。知っていると思いこんでいることは意外とあやふやだったりする。そのように使ってみるといくつか驚くことに遭遇します。たとえば、「キリスト」の項目は六行で終わっている。そうかと思うと「(シモーヌ)ヴェイユ」のような近代の思想家に関しては長めの記述がある。ただ、キリスト教に関する知識が、あまりない方がこの辞書を使う場合には「使い方」のようなガイドが必要かなという感じがしました。

一つの項目で調べて終わらない辞典ですよね。一つのものを読めばあることがわかるというより、読み進めていくことでよりよくわかる辞典だと思います。だから上手く付き合えばだんだん深まっていけるような面白い辞典で、『広辞苑』のように、開いたところを見れば、わかるというものとは違う特性があると感じました。
橋爪
 この小辞典は、どの項目もコンパクトにまとめてあり、これを参照しておけば、間違いを犯さなくてすむ、という校閲係の役割なんです。元の大辞典もあるし、英語圏ならそれこそ、利用可能な参考図書や資料は山のようにある。

でも日本では、キリスト教関連図書は、そこまで充実していない。この小辞典は、ゴールキーパーなのに、ほかの選手が一○人じゃなくて数人しかいない。毎週教会に通っているような人びとには、十分役に立ちますが、キリスト教にふだんあまり縁のない日本人が、高校で歴史を教えるからとか、文学作品に出てきたとか、絵画や音楽の鑑賞に必要だからとか、哲学をより深く理解するためとかいったきっかけでこの辞典を開くと、あれ、ちょっと説明が簡単だなあ、という印象になるかもしれない。教養として、キリスト教について知ろうと思う読者には、最低限のことしか書いてないとみえる。
若松
 ご指摘のとおりだとは思いますが、この辞典はダイジェスト版であることのメリットとデメリットがあると思いました。メリットは端的にわかるということなのですが、端的にわかるということはすなわち、ある背景をどうしても省略しなければならないことになる。とてもわかりやすく書いてはある。だからこそ、関連項目を二三読むと、とても良いと思ったんです。たとえば、私が読んだ項目で「黙想」がある。そこには「観想」とは違うと書いてある。しかし、どう違うかは書いてない。もちろん「観想」の項目でも「黙想」とは違うと書いてあって、どう違うのかは具体的に記されていない。しかし、黙想と観想に生きた人を、こちらが知っていれば問題の本質にたどり着くこともある。たとえばカトリックの修道士でトマス・マートンという人がいるんですけれども、その人の記述を読んでみると、黙想と観想の異同が、何となくわかってくる。私は「人」と「事」の接点をみさだめながら読むと、とても馴染みやすくなるという感じがしました。
橋爪
 おっしゃるとおりですね。

キリスト教は、大きくまとまった全体なのです。あちこちの部分が、有機的につながっている。それがキリスト教本来のあり方だとすると、辞典という本のかたちとはもともと折り合いが悪い。辞典は、項目がたくさんあって、対象をばらばらに断片化して、キーワードで検索しようというものですから。

じゃあなんで、辞典があるかというと、キリスト教というまとまった有機的全体のごく一部でも、あやふやだったり間違っていたりすると、全体に影響して、キリスト教を捉えそこなってしまうリスクがあるから。そこでこの辞典の読み方としては、事項だけでなく人名も一緒に読むとか、関連項目をあわせて読むとか、読む側でも工夫するといい。そうすると、この辞典本来のパワーが発揮される。キリスト教の全体がだんだん、読者の前に姿を現すように、この辞典は作ってあると思います。
若松
 そうですね。書物はたとえば辞典ではなくても古典には十分に力がある。新約聖書もそうです。ですが、それをどう読むかというところに現代を生きる私たちの問題がある。辞典をぽんと渡されて、じゃあそれを使いなさいと言われて、使い方がわからない。複雑にプログラムされたコンピューターみたいになってしまうのはもったいない。とても複雑なプログラムがあるわけではないんだけど、いくつかの簡便なスイッチのようなものは必要だとは感じました。
橋爪
 なるほどね。

もうひとつ、この小辞典が念頭に置いているのは、ネット社会でしょうね。ウィキペディアをはじめとして、ネット上にはフリー辞典があって、これはこれで大変便利なわけです。まず、検索がかけられる。目的のキーワードの記事に、すぐたどり着ける。それから、項目の記述が長い。出版という制約がないから、一つの項目にかけられる長さがけっこう長いんです。そして、かなり細かいところまで書いてある。たぶん専門家が書いているのでしょう。いいことばかりみたいですが、問題があるとすると、信頼性。記事が信頼できるという保証がない。それから、包括性。統一的なプランのもとで書いているのではないので、項目をつなげていったら全体になる、という保証がない。それにひきかえこの小辞典は、そのあたりを念頭に置きつつ、コンパクトであり、信頼もできる。そこで勝負しているのではないか。この小辞典は、よく考えてあって、ウィキペディアを代表とするようなネットのデータと棲み分け、対抗し、共存するという戦略で出来ているのではないか。
小さいけれども大き な効果がある書物 

若松
 ところで橋爪さんはキリスト教を、どう定義なさいますか。
橋爪
 キリスト教はひとつではない、というのが非常に重要な点です。誰でも知っているのが、カトリックと、プロテスタント。それからオーソドクス(正教)もありますね。正教もたくさんに分かれている。それらに入り切らないような分派もたくさんある。いちばんややこしいのがプロテスタントですけれども、プロテスタントは数え切れないぐらいに分かれていて、一つひとつが立場が違い、信仰箇条が違い、聖書の読み方や教義が違うわけです。そうすると、共通の土台はほぼない。

もしもさまざまなキリスト教の合意を探っていって、共通点で辞典を作ろうと思ったら、どんな項目の記述にもかならず反対者が出てきて、本として成立しない。そこである程度そこは見切って、キリスト教の大多数の人びとはこう考えています、少数派の人びとは我慢してください、としないと辞典は出来ないわけです。この辞典はそのあたりを十分踏まえながら編集してある。

もうひとつ、信仰と学問の問題があります。聖書も書物だから、他の書物と同じように、それを学問的に研究することができる。考古学的・歴史学的な事実と聖書のテキストを照らし合わせたり、テキストが成立していった過程を再現したり、言語学的な方法でテキストの意味解釈を行なったり、という具合に研究すると、たちまち、従来の神学や、教会の教えをはみ出してしまいます。教会の信徒のための小辞典としては、それでいいのかちょっと気になる。でも、聖書学や聖書考古学や神学の、いちばん進んだ議論を取り込まなければ、辞典としての価値はないわけだから、それは最低限取り込む。そういう綱渡りのような、ほぼありえない編集作業の結果、こういう辞典がやっと出来るわけです。そのおかげで、このままだとバラバラになりそうなキリスト教が、なんとかアイデンティティを確認できることになるとも言える。そういう意味でも、この小辞典は、小さいけれども、大きな効果がある書物だと思います。
若松
 いまご質問したのは、この辞典を見ながら、自分だったらどう書くだろうと思って読んでたからなんです。私はカトリックです。おっしゃられたように諸文化にそれぞれのキリスト教がある。たとえばカトリックには修道会があって、プロテスタントの中にはある教派があって、カトリックにはメルキト派のような妻帯者も司祭になれるという一派もある。そうした差異の中でキリスト教とは何かと言ったとき、そこを貫くのはキリストが神であると信じようとする者である、という事だと思うのです。そこからはずれてくると、それはキリスト教と近似したものではあるのだけど、少し違う。たとえばこの辞書には、ラルフ・ワルド・エマソンという人が出てきますけれども、彼はキリスト教を逸脱している。彼はイエスの神性を認めない。イエスをあまりに褒め称えると神が見えなくなるとさえ言う。彼は自身をキリスト教徒だと思ったことはないと思います。こうした人物も、この辞典は網羅しています。先にふれたヴェイユやベルクソンがそうですね。二人はユダヤ人でしたが、カトリックに接近しています。ベルクソンは、カトリックにおける葬儀を望むと遺言に書いて亡くなる。しかし洗礼を受けていない。洗礼を受けていないキリスト教に接近した者、あるいは著しくそれに抗った者、そういうものも項目として入っています。キリスト教というある枠組みから溢れ出るもの、そこからキリスト教を見ることを、この辞書は、私たちにうながしてくれているのではないかという感じがしたのです。知っている項目があったら自分だったらどう書くか。そう思って読んでみると面白いと思ったんですね。
キリスト教のすそ野の部分も十分拾い上げる

橋爪 大三郎氏
橋爪
 それは大変面白い提案ですね。

お話のように、キリスト教と、キリスト教から逸脱するものが、この辞典のなかには両方あるわけです。それを切断してしまうと、現代のキリスト教にはたぶん、ならない。いまエマソンの話が出ました。キリスト教の共通項は「キリストが神である」ことではないかと、もちろん考えることはできます。でもいまは、そういう考えも、ひとつのキリスト教の可能性に過ぎなくなっているわけです。イエス・キリストを神と必ずしも考えないキリスト教の教派には、クエーカーがあります。ユニテリアンもあります。エマソンはユニテリアンに近い。キリスト教からはみ出た「キリスト教系」宗教で、イエスを神と考えないのは、エホバの証人です。明確にイエス・キリストの神性を否定しています。そういうものをみな、切り捨ててしまうと、19世紀から20世紀にかけてのキリスト教を中心とする思想の渦巻き、信仰の葛藤が、とらえられなくなる。
そういうキリスト教のすそ野の部分も十分拾い上げているのが、この小辞典の特長のひとつですね。
若松
 この辞典を開いたとき、最初に調べたのは、先にもふれましたが、やはり「キリスト」です。原始キリスト教団が自分たちが救い主だと思っている者を「キリスト」を呼び、その結果キリスト教徒という呼称が始まったと、それで終わりなんです。いま出たユニテリアンの話もそうですけれども、それはキリスト教ではないと断絶したいのではなく、ただそれをなんと呼ぶべきかは、もう一度考えてもいいと思うんです。キリストが真ん中にいないとそれはキリスト教ではない。別な呼称で呼ぶべきだと思うのです。たとえばユニテリアンはエマソンが、かつて属していたところですけれども、それらをキリスト教だと呼んでしまうのは、キリスト教からの包摂主義的言説だと見ることもできる。包摂主義はとても危険で、キリスト教を基準にして他の霊性を見てしまう。先ほども言いましたが、この辞書はその点において第三の視座を提供してくれています。もちろん辞典ですから、キリストを「神」だと書けない事情も理解できる。しかし、神であるキリストを無視した霊性は、すでにキリスト教ではないとも言える。そもそもキリスト教だけでなく、宗教の根幹には言語で定義できないどころか、言語化し得ないものがありますね。
橋爪
 それはそうかもしれない。でもそうだとすると、言語で書くしかない辞典は、どうなるのか。
若松
 辞典を調べれば宗教に「ついて」はある程度わかる。ですけれどもそれ「を」生きるというのは少し別な問題ですね。ものを知らないよりは知っていたほうがいいかもしれないけど、何かたくさんものを知れば宗教がわかるということにはやっぱりならない。近代人はものをたくさん知れば何かが深まると信じているだけかもしれません。ですので誤りをチェックしていくという意味では辞典はとても大切です。ですが、この辞典を読めば読むほど、ここに書き得ないものが宗教の根幹をなしていると強く感じたのが印象的でした。
橋爪
 「キリスト」の項目で、「キリストは神の子で…」みたいな、ありがちな信仰箇条を書いていないことが、この辞典を編纂した人びとの立場なのです。それは、現代のキリスト教運動のひとつの到達点だとも言える。「キリストは神の子で…」みたいに書きすぎてしまうと、多くの人びとから、それは違うという声が上がってくるだろう。それはしたくない。でも、書き足りないと、書いてないじゃないかという声がまた、たくさん上がってくる。こうなるともう、あんばいでしかないのですね。その苦慮のなかに、いまのキリスト教運動の現状がよく反映されていると思う。

もうひとつ大きな問題は、ユダヤ教やイスラム教といった、同系の一神教の神を信じる人びとに対して、キリスト教を信じる人びとは、キリスト教のアイデンティティや特性を保ちながら、どのような関係を築けばいいのか、ということです。これはとても現代的な課題じゃないですか。でも、聖書や伝統的な神学や聖書学の中からは、必ずしもその答えが見つからないんです。そこで苦しんでいる。この辞典にも答えは書いていないけれども、間違えちゃいけないということは書いてある。
キリスト教の古典を横に置くことでより深く

若松
 おっしゃるとおりだと思います。それは書いてないですね。この辞典に限りませんが、本を読んでいて常に思うのは、そこに書かれていない何かを見つけていかなくてはならないと思うのです。二年ほど前に『イエス伝』を書きましたが、それからいろんな教会や宗派の方とお話する機会を持つようになって、みなさんとどこで響き合うことが出来るのかをずっと探しているんです。そこに自分と一致するものを見つけようとするととても難しい。むしろ、一致するものを見つけようと思った時に人は衝突するし、最後は争わなくてはならなくなる。しかし、別なところから見ると、違うからこそ響き合うということがある。この辞典にはさまざま響き合いがあって、表面上ぶつかってしまうことが、実は中ではすごく深く繋がっている、そうしたことが複数の項目を読んでいくとわかってくる。

また、定義し得ないけれども存在するものが、世の中で言われているキリスト教の根幹をなしているということを、読んでいて感じられました。誰も明確に定義出来ないのだけど、だからと言ってそれがないことにはならない。たとえばキリスト教という言葉ひとつ取っても、本当はとても使いづらく、定義できない。しかし、やはりキリスト教はどこかにあるように感じる。この辞典の中には遠藤周作さんのことが載っていて、たった数行の中に遠藤周作という人の特性をとても端的にまとめている。それも国際的視野を獲得しながら書いていてとても素晴らしいのですが、やはり遠藤さんの本質は書かれていないところにある感じがします。辞典というのは知らないところを読むとああそうなのかと思うのですが、自分がとても親しいところを読んでみると、もうちょっと言いたい、という感じが出てきます。そういう感覚を確かめるのが、この辞典を読む一つの楽しみではないかと思います。自分の知らないことを確かめ知識を増やすのではなくて、知っていることをより確かにしていくことも辞典を読む上でとても大事で、特に現代人はそういう態度で辞書と向き合うとよいように思います。
橋爪
 言葉にならないものの大事さですね。

キリスト教は、必ずしも言葉にならない大きなもので、信仰も、必ずしも知識ではない。言葉にならないものです。いっぽう、学問は言葉にすることである。じゃあ、学問は何と闘えばいいのか。言葉ではないリアリティ、実在とか、さまざまなものと格闘することだと思います。しかし学問の場合、それでも、最後には言葉にしなければならない。「言葉にならない大事なものがあります」と書いたのでは、学問にはならない。そこでどうしても言葉にする。じゃあ格闘は終わったのかと言えば、続いているわけです。言葉にならないものと格闘を続けながら、ある時に見切って、いまのところはここまでです、という暫定的な結論を出して文字にする。

どんな作業でもそうだと思うけど、この辞典もすべての項目が、そういう見切りで出来ているんですよね。それをやらなければ、項目は書けない。だからそれはもう、大変な見切りの塊ですよ。でもだからこそ、他の人に役立つ。そういうことをわかって辞典を作るか、わからないで作るか、という違いがありますが、この辞典はそれを、わかって作っている。
若松
 実相の理解をめぐって、エマソンが思想家の役割は円を描き出すことではなく弧を描くことだと言っています。弧を描き出すことが出来れば、読むものによってそれは円になるというわけです。辞典もまた、そういうものではないかと思うんです。項目を読んでいるときに見ているのは「弧」で、「円」を見ていると思ってはならない。ですからイマジネーションなり努力を働かせて小さな円にしていく。でもその小さな円を包み込むもっともっと大きな円が無限に続いていくのだということにさえ注意していただければ、これはとてもいい辞典ではないかなと思います。だからこの辞典をお買い求めになる方は一つの古典を読むといい。たとえばアウグスティヌス、トマス・アクィナス、ルター、カルヴァンでもいいんですが、キリスト教の古典と言われているようなものを横においてこれを使ってみると、より深く用いることができるとも思いました。
橋爪
 素晴らしいまとめになった気がします(笑)。


この記事の中でご紹介した本
オックスフォード キリスト教辞典/教文館
オックスフォード キリスト教辞典
編集者:E.A.リヴィングストン
出版社:教文館
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