名誉と恍惚 書評|松浦 寿輝(新潮社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年6月12日 / 新聞掲載日:2017年6月9日(第3193号)

優れた冒険小説であると同時に静かな感動を生む全体小説

名誉と恍惚
著 者:松浦 寿輝
出版社:新潮社
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名誉と恍惚(松浦 寿輝)新潮社
名誉と恍惚
松浦 寿輝
新潮社
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1937年9月、上海。街には前の月に起きた第二次上海事変の爪痕が生々しく残り、戦線の拡大に伴って内陸から避難民が流れこんでいる。そんな物情騒然たる中、租界を警護する工部局公安課の警官・芹沢一郎は、陸軍参謀本部の情報将校・嘉山少佐から呼び出しを受け、街を見下ろす当時東洋一の高さを誇る百老匯大廈(ブロードウェイ・マンション)に出頭する。嘉山は様々な謀略に携わってきたいわばスパイの元締めで、芹沢に上海の闇社会を支配する青幇(チンパン)の頭目・蕭炎彬(ショー・イーピン)への橋渡しを依頼する。無益な軋轢をおさえ、上海の植民地化を円滑に推し進めるために現地の実力者と提携したいというのがその名目だ。

一介の警官に過ぎない自分に何故そんな依頼をするのかいぶかしむ芹沢だが、彼の知人の時計屋の主人、馮篤生(フォン・ドスァン)が蕭の第三夫人・美雨(メイユ)の伯父であることが明らかにされる。馮は教養人の資産家だが、妖しくも美しい奇形の少女の人形を作るのが趣味という変わり者で、先だって処刑された北一輝と親交があったという複雑な人物だが、インテリの芹沢は逆にそういうところが気に入って、たびたび店に顔をだしていたのだった。気が進まないながらも嘉山の圧力におされる格好で、芹沢は嘉山と蕭を仲介するが、それがきっかけで巨大な陰謀の歯車が回り始め、芹沢は工部警察を追われたばかりか、ついには命まで狙われることになる――。

同僚の裏切り、あらゆるところに仕掛けられた罠、白系ロシア人少年アナトリーの妖しい誘惑、美雨とのデカダンかつ純情な交情、そして緊迫する世界情勢。ページを繰るのももどかしいほどの有為転変が芹沢を翻弄し、その展開は予想の斜め上を行き、間然するところがない。だが、芹沢の本当の危機は、もっと心の深いところで進行している。彼は朝鮮人の父と日本人の母の間に生まれた子であることを隠して警察官になったのだが、それを知った上司や同僚に日本人であることを否定され、組織を追われる。さらに自分を裏切った同僚を殺害して行き場を失った彼は、身分ばかりか国籍も居場所も失ってしまう。そればかりではない。アナトリーの誘惑に負けて男色に溺れたことで男であることの自明さも失い、中国人労働者に身をやつした結果インテリとしての自意識も失う。芹沢は、巨大な世界の中で、なにものでもない者になってしまうのだ。

ところがそのどんづまりの状況が逆に芹沢に新しい世界を開く。身一つで港湾労働に従事しているとき、彼は世界の広大さと美しさに直に触れたような恍惚を味わう。そしてそれは、その後芹沢が肉体の健康を失ってからも、彼の中に残り続ける。小説のタイトルにもなっているこの「恍惚」は、ここにおいて、生き物の原初的な価値として顕現している。

物語の最後に、芹沢はもう一つのきわめて人間的な価値、「名誉」に到達する。馮と美雨によって救われ、上海から逃げ出すことになった彼は、ことの真相を問いただすべく、無謀にも嘉山との対決に赴く。謀略を企てた者とその犠牲者の対話。それはこの長い物語の最大のクライマックスといっていい。真相を知ることに何の意味があるのか? そのことに命を懸ける意味があるのか? 嘉山ならずともそう思ってしかるべきだが、芹沢は揺るがない。それはあくまでも芹沢の内心の問題なのだ。ただひたすら国家に翻弄される個人としてのぎりぎりの矜持。名誉を他人の称賛としてしか捉えられない嘉山は芹沢をあざ笑うが、ここには巨大な世界の中で翻弄されるしかない個人が、自分をいかにして救うかという重い問題への解答が示されている。

1937年9月10日から1939年10月16日、そして1987年9月23日まで。長い旅路であり、長い小説である。だがその長さが、誰も全体を見通していなかったことを無言で示す。すべては移ろい芹沢を翻弄した蕭も嘉山も軍人も上司も結局は目算を狂わせて消え、権力は次々に別の者の手に渡っていく。逆に上海を追われた馮は稀代の芸術家として後世に名を残した。芹沢もまた、自分の人生すらその全体を見通すことができない。主観と記述が時として微妙にずれたり、起きたことを忘れていたりする。それが、人が巨大な世界と長大な時間の中に在ることを実感させ、静かな感動を生む。『名誉と恍惚』は優れた冒険小説であると同時に、読者をして別の誰かの人生を送らせる全体小説でもあるのだ。
この記事の中でご紹介した本
名誉と恍惚/新潮社
名誉と恍惚
著 者:松浦 寿輝
出版社:新潮社
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