日本人のシンガポール体験 幕末明治から日本占領下・戦後まで 書評|西原 大輔(人文書院)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年6月12日 / 新聞掲載日:2017年6月9日(第3193号)

日本人のシンガポール体験 幕末明治から日本占領下・戦後まで 書評
「文学散歩」のシンガポール版 
著者自身が足で確かめたからこそ書ける

日本人のシンガポール体験 幕末明治から日本占領下・戦後まで
著 者:西原 大輔
出版社:人文書院
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『日本人のシンガポール体験』を一読したとき、文芸評論でも学術論文でもないこの本をどのようにうけとめてよいのか、ややとまどった。しかし、「あとがき」まで目を通し、本書は「戦後の日本で盛んになった「文学散歩」の海外版でもある」と記されているのを見て、腑に落ちた。

一般に文学散歩とは、文学者の足跡を訪ねて歩くことであるが、著者自身の言う「文学散歩」は、文学散歩の産物であり、文学散歩に役立つガイドブックであり、読んだ人が文学を散歩した気になるように書かれた文章のことである。文学散歩とおぼしき営為は近代以前からあり、文学散歩の記事の企画立案は日本読書新聞の編集部によるものだが、文学散歩という名を冠した著作物を刊行した嚆矢は野田宇太郎であった。その野田には『文学散歩全集』がある。「文学散歩」は全集を刊行するほどに流行したことになるが、実際の散歩の形態や掃苔、展墓、「墓マイラー」などの行為を指すだけではなく著作そのものも指す。

シンガポールに限らず、日本人の海外体験(の記録)には、決まったパターンがみられるので、定点観測のようにして複数の体験記をつきあわせるという論述の方法には一定の有効性がある。本書においても、事実の記録とみなした多くの著作物を辿り、現在の様子を合せて綴るというスタイルで記されている。例えば、欧州航路の汽船が停泊した当時の新港タンジョン・パガの埠頭周辺が焦点化され、竹内遣欧使節団や永井荷風、成島柳北から北杜夫に至るまでの体験の表象が時系列で比較される。また、ペテルブルグから帰国する途中の船上で亡くなり、パシル・バンジャンの丘で火葬された二葉亭四迷がとりあげられて、今では観光地化された「二葉亭四迷終焉之碑」のある日本人墓地の由来や歴史とともに、そこを訪れた佐藤春夫や大佛次郎のシンガポール体験が辿られる。島崎藤村が講演した日本人小学校の写真と記録を引用された上で、開戦で廃校となり今はスタンフォード・アート・センターとして使用されていることが書き添えられる。昭南神社の敷地跡には「現在、樹木がうっそうと繁っており、道もなく、容易に近づける場所ではない」、昭南忠霊塔の「跡地は電波塔施設となり、その手前までしか行くことができない」といったように、今を起点にして過去を追想できるように述べられている。もちろん、著者自身が足で確かめたからこそ書けたのである。

このように特定の地名に絞り込んで大きく網をかけるような書き方は、誰にでもきるわけではない。文学を専門とする書き手であれば、たびたび本書で言及されている永井荷風の『ふらんす物語』も岡本かの子の『河明り』も井伏鱒二の『花の町』も金子光晴や森三千代の文学も、研究史を踏まえてもう少し丁寧に作品全体を論じたくなるものだ。言説の政治学を念頭に批評的に分析する方法も無視できなくなる。本書では多くの絵や写真も紹介されていて楽しめるのだが、美術や写真を専門とする書き手であれば、技法等にも触れるだろう。戦争画については思想的に論じる必要も生じる。政治や経済に関する専門書においても、本書と同様の文化人の記述が引用されることがあるが、世界経済や国際関係、資本主義システムといったより広い視野から論じることが優先されるだろう。「地球の歩き方」や「ロンリープラネット」、ガリマール社の「旅する21世紀ブック」などのガイドブックにおいても、いわゆる有名人の関連事績は紹介されているが、ここまで網羅的に日本人が紹介されることはない。

書物ではなく土地を読むことに傾注している点に本書の最大の特色がある。エドワード・サイードの『オリエンタリズム』やベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』の警鐘など気にすることなく「日本」とその歴史を素朴に信頼し、情報の絶対量と体験的実証主義の力で淡々と押し切る本書は、テキストの分析を重んじ文学散歩を軽視しがちな専門家に対しても一定のインパクトを与えるだろうし、その実用的成果は案外活用されるに違いない。
この記事の中でご紹介した本
日本人のシンガポール体験  幕末明治から日本占領下・戦後まで/人文書院
日本人のシンガポール体験 幕末明治から日本占領下・戦後まで
著 者:西原 大輔
出版社:人文書院
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