寺山修司論 バロックの大世界劇場 書評|守安 敏久 (国書刊行会)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2017年6月26日 / 新聞掲載日:2017年6月23日(第3195号)

寺山修司論 バロックの大世界劇場 書評
マス・メディアを分母とした寺山修司の表現手法

寺山修司論 バロックの大世界劇場
著 者:守安 敏久
出版社:国書刊行会
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寺山修司といえば、アングラの演劇や映画、さらに詳しい向きは、短歌、俳句、小説をもこなしたマルチな作家として伝説的な存在として認識されていることだろう。たしかに「多彩」という言葉がこれほど似合う作家もいまい。それを踏まえた私見だが、私は、一般的に流通するこうした寺山観、テイストが苦手である。より正確に言えば、寺山自身の作品への不満ではなく、寺山をめぐる研究が、こうした虚像培養を表現とした作家性を解体的に取り扱う観点を持ち合わせてこなかったことへの、天才性への翼賛しかないことへの苦手感である。

ちなみに私は、第2次世界大戦後の日本の視覚文化を、マス・メディア(放送文化と出版文化)を分母とした文化現象として捉え、特にテレビ映像が現代芸術の映像表現に与えた影響を研究している。これは戦後の諸芸術における表現を、インフラストラクチャーから考えるという試みであり、個人の作家性で捉えられる領域ではなく、いわば積極的に集合知として作品を捉えていく試みだと考えている。つまり、寺山を考えるならば、そのあまりに短い一生のうちに見出される多様な表現を展開した理由を、個人の才能だけに還元するのではなく、メディアの多様化やクライアント・ワークの内から見出すべきだと考えてきた。つまり、文学者のテキストは、作家個人に内在する発露としてのみ存在するのでは無く、大部数の印刷と雑誌の流通といったマス・コミュニケーションを前提とした、出版社からの依頼によって成立するものであることを見落としてはならない。寺山の作品の多様性は、個人の資質と共にメディアの飛躍的な発達と、それへの自覚に裏打ちされた点を強調しておきたい。私たちは、21世紀に至って、現代のメディア環境がポスト・ヒューマンであることを吹聴しつつも、芸術表現を個人の才能に還元することに躍起になっていはしないかと愕然とする。美術しかり、音楽しかり、文学しかりである。それゆえに、旧来の作品概念や芸術のカテゴリー観は、ラジオや映画、テレビといった20世紀のメディア表現を、未だ捉え切れていない。

前置きが長くなったところで、本書の登場である。文中で明言されているわけではないが、ここまで述べてきた私の不満を本書は共有し、解消している。寺山の短い一生の後半、1967年に創立された劇団、天井桟敷の仕事が本書の7割に及ぶが、筆者は、これ以降の表現を規定する寺山の活動として、ラジオドラマ、テレビ・ドキュメンタリー、テレビドラマの分析から始める。マス・メディアを分母とした文化現象から寺山の表現に対する思考を展開しているのだ。国文学を背景にした分析手法に対して、音声表現や映像表現、あるいはメディア論の観点からの分析の余地を指摘することは容易いが、それを補填するにあまりある、放送内容に関わる、週刊誌や新聞からの、膨大な資料の参照は、従来の寺山研究には見られなかったアプローチとも言えよう。言わば本書は、寺山に関する基礎研究の集大成である。寺山という個人が、マス・メディアを分母とした文化現象へと自らを溶解しつつ、ここに新たな表現手法を発見したプロセスが解読できる。無論、演劇や映画として主題だけを追えば、アングラということになる寺山の作品が、何故これほどまでに知られているのかは、表現手法に散見されるマス・コミュニケーションにあることを、私は、本書を通じて理解しつつある。
この記事の中でご紹介した本
寺山修司論 バロックの大世界劇場/国書刊行会
寺山修司論 バロックの大世界劇場
著 者:守安 敏久
出版社:国書刊行会
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