ほどける 書評|エドウィージ・ダンティカ(作品社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年7月3日 / 新聞掲載日:2017年6月30日(第3196号)

ほどける 書評
少女の目を通して浮き上がる人々の愛や痛み

ほどける
著 者:エドウィージ・ダンティカ
出版社:作品社
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ジゼル・ボワイエは、マイアミのハイチ人コミュニティに住む十六歳の高校生だ。一卵性の双子の姉であるイザベルとは、祖父母から「二つの水滴のようにまったく同じ」と言われるほどよく似ている。ただし、小さなほくろのある耳が反対で、姉が高校のオーケストラでフルートを吹く音楽愛好家であるのに対し、妹は絵を描くのが好きで芸術家になりたいと考えている。春の、ある金曜日の夕方、ジゼルはコンサートで演奏することになったイザベルと両親と共に車で会場に向かい、ひどい渋滞にはまってしまう。全く身動きのとれない状態にあって、後部ドアに突然、車線を越えて赤いミニバンが突っ込んでくる。激しい衝撃で気を失ったジゼルは救急車で目覚めるが、体は動かず、もうろうとした意識の中で、現実と夢を行き来しながら自分、イザベル、両親、その他さまざまなことに思いを巡らせていく。

一卵性双生児の片割れを亡くすときの痛みは、生身を半分に引き裂かれるのに近いのかもしれない。ジゼルとイザベルは指を絡み合わせた状態で生まれ、医師によってその指をほどかれた。二人で一体を成すかのような強い結びつきは、本来であればそれぞれが別の道を歩み始めるとともに自然に緩み、ほどけていくものだろう。しかし十六歳という、ちょうど道の分かれ目に立ったところで、二人の繋がりは外部からの力で突然断ち切られてしまう。事故の瞬間、後部座席に並んで座っていた二人は強く手を握り合うが、ジゼルが目覚めたとき、その手はすでにほどかれている。時間の経過によって肉体の痛みからは少しずつ解放されていくが、心の痛みが同じように和らぐわけではない。本書は、ジゼルが過去の出来事に思いを馳せ、変わっていく現実を見据え、自分だけではなく他者の痛みを理解しようとすることによって成長していく様を丁寧に描いていく。すべての出来事を受け入れることで、イザベルとの強固な結び目、つまり繋いだ手は、ほんとうの意味で「ほどける」のだ。

十六歳は中途半端な年頃だ。身体はほぼ大人だが、その精神はまだまだ発展途上にあり、不安定だ。子どもの頃とは世界が違って見えるようになり、両親がスーパーマンではないことを知り、緊密だった友人とすき間が生じ、誰かに恋をする。思春期は、人生にいくつか存在する避けることの許されないトンネルの一つだ。通り抜けるにあたっては子ども時代と決別する悲しみと痛みが伴うが、振り返って悲しんでばかりいるわけにはいかない。痛くても、前を向いて進むしかない。この小説に悲しみや涙の描写がほとんどみられず、痛みに重点が置かれているのは、そうした十六歳の、春の若木のようなたくましさと生命力の表れだろう。

この「ほどける」という小説が、今、思春期にある子どもたちから、自分たちの物語として多くの共感と支持を得るのはもちろんだろうが、少女の目を通して浮き上がる人々の愛や痛みは、なんらかの形で大切なものを失う経験をした大人たちの心にも染みわたるものであると感じた。

本書の冒頭には、著者であるエドウィージ・ダンティカから日本の読者にあてた手紙が添えられている。著者の故郷であるハイチは、2010年には大地震、2016年には大型ハリケーンに見舞われて甚大な被害を受け、死者が多数におよんだ。愛する人を突然失うことがあまりにも身近であるという点で、日本と通じるところがあるのではないだろうか。そうした背景を思いつつ読むことで、本書は一段と深みを増すように思う。(佐川愛子訳)
この記事の中でご紹介した本
ほどける/作品社
ほどける
著 者:エドウィージ・ダンティカ
出版社:作品社
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