見え始めた終末 「文明盲信」のゆくえ 書評|川村 晃生(三弥井書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年7月3日

和歌、詩歌を読み直し、近代へのアプローチを試みる

見え始めた終末 「文明盲信」のゆくえ
著 者:川村 晃生
出版社:三弥井書店
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著者は慶応義塾大学名誉教授にして市民活動家、和歌を中心にした日本文学研究をベースにして、環境問題へのアプローチを模索し、「環境人文学」を構想する。東日本大震災以後、人文学の社会的な意義が問われる中で、研究と活動に両足を置く存在である。著者の模索は大震災以前から始まっているので、筋金入りと言っていい。現在の関心は、原発ばかりでなく、故郷・山梨県を通過するリニア新幹線に注がれている。

しかし、多くの人文学者は、研究を活動につなげるような態度に対して、極めて冷たい。私も大震災以後、ずいぶん文学・民俗・教育の観点から講演や執筆を行ってきたので、そのことが痛感される。そうした状況を思えば、孤立を恐れず、歯に衣着せぬ発言することには、大いに励まされる。だが、「スマホに熱中する国民」「漢字が読めない政治家」を憂えても、「見え始めた終末」としてしまうことには、賛同することができない。

本書の傑出する点としては、「「自然」と生きる」の章で、和歌を読み直すところを挙げねばならない。野本寛一の『焼畑民俗文化論』を参照すると、和歌の中には焼畑に関する語彙が見つかる。とりわけ西行の場合には、「古畑」「立つ木」「畑のかり屋」「鳩」「柳」「栃」といった言葉が目立つとする。折口信夫が教え、池田弥三郎らの逸材を生んだ慶応義塾大学における民俗学の学統が、ここに息を吹き返している。

このような民俗学の実践は、「〈文学〉から〈近代〉を問う」の章で、さらに展開する。山口県の祝島と原発計画のある上関を経て、金子みすゞの故郷・仙崎を訪ねる。そこで、「大漁」の詩の「鰮のとむらい」の背後に、「くじら墓」を建て、「鯨のとむらい」を行う民俗があることを明らかにする。このような観点は、その対極に、戦前から戦後にかけて歌われた流行歌が都市優位を国民に浸透させた、という指摘を生み出すことになる。

こうして見るだけでも、著者の分析は和歌や詩歌で際立っている。それに比べて、市民活動につながる科学や経済の分析は紋切り型で、他者からの借り物に拠るところが多い。確かに、「科学や経済の暴走に対して、文学というものがその歯止めとして」「発言していかねばならない」という見解は、そのとおりである。だが、そうした指摘なら、井上ひさしが宮沢賢治の文学について、宗教をからめながら述べていたことが思い出される。

今、日本のみならず世界を見ても、この「暴走」はますます加速している。それでも私たちは、「見え始めた終末」と言って悲観せず、文学批評の言葉によって、人々の意識を変革していかねばならない。その際に思い起こしたいのは、柳田国男が『明治大正史 世相篇』で、衆議院選挙を知らせる掲示板を読む子供たちの写真に、「一等むつかしい宿題」と付けたことである。それから八〇年以上が過ぎたが、この「宿題」は解決されるどころか、さらに難しくなっている。
この記事の中でご紹介した本
見え始めた終末 「文明盲信」のゆくえ/三弥井書店
見え始めた終末 「文明盲信」のゆくえ
著 者:川村 晃生
出版社:三弥井書店
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2017年6月30日 新聞掲載(第3196号)
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