ドキュメンタリストの目 時代の証言者の資質がある高橋弘希|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年8月5日 / 新聞掲載日:2016年8月5日(第3151号)

ドキュメンタリストの目 時代の証言者の資質がある高橋弘希

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高橋弘希の「スイミングプール」(『新潮』八月号)は、千葉ニュータウンに住む若い家族の話で、高橋の作品として初めて現代を舞台とした。デビュー作の『指の骨』は戦時中のニューギニア、第二作の『朝顔の日』は同時代の結核療養所、第三作の『短冊流し』は、はっきりしないものの十年ないし二十年前と思われる時代の病院を舞台としていた。こうしてみると徐々に時代が現代に近づき、また内容も少しずつ日常に近いものになってきていたことがわかる。

『指の骨』には多くの人から「どうして経験していない戦争の話を書くのか」という疑問が投げかけられ、逆に「若い世代が書くリアルな戦争小説」というのが売り言葉になっていたところもある。ただ今回、舞台設定からは全く普通の作品が出てきてみると、この作者にとってはどちらにしてもさほど意味のあることではなかったという気がする。

「スイミングプール」の家族は、三十代と思われる夫婦に小学生の娘一人の核家族だ。娘がスイミングスクールに通いだしたり、おたふくかぜで寝込んだりといった日常のあれこれが、妻の一人称視点で落ち着いた文体で綴られている。記述は現在と過去を頻繁に行き来し、母子家庭で育った妻の子供のころの思い出や自分の母親との関係、夫との出会い、娘の誕生から現在までなどが描かれる。繊細な筆致でイメージ豊かに時の流れが浮かび上がっていく様子は見事なもので、高橋の優れた資質を感じた。

おそらく高橋が作家として最も力を注いでいるのも、自分の中に持つイメージをいかに正確に、精密に記述に反映させていくか、ということではないかと思われる。時代考証的な正確性にはかなりこだわっているものの、『指の骨』に関して言われた「記憶の継承」といったことにはさほど関心はないだろう。作家の姿勢としては正しい。例えば戦争の記憶を継承しようと意気込んで書かれた作品が小説としていいものになるとは思えない。どうしても作品の質とは別の動機になってしまうからだ。

高橋が持っているのは、ドキュメンタリストの目である。題材として何を選ぶのであれ、「現実」に憑依し、その描写と構造化に徹しようとする。そこに作家性が浮かび上がってくる。作為ではなく、結果として何かが生まれることに賭ける。高橋が題材とする「現実」は一般のドキュメンタリーと異なり、高橋自身の想像=創造なのだが、「時代考証的に正しく、リアルでなければならない」という自己ルールの設定により、恣意性がそぎ落とされる仕組みになっているのである。

高橋は今回、ドキュメンタリストの目をもって、自分と同年代の女性の生活を想像=創造し描いた。自身の経験を通じていちばんよく知っている時代であるから、これまでの作品以上に繊細かつ緻密に時代の空気を伝える作品になっている。もちろん専業主婦が主人公であることからしても(そもそもどこにも存在しない)客観中立とかポリティカリー・コレクトといったことからは遠く、高橋の目から見た時代の一面であることは言うまでもないのだが、それはドキュメンタリストの題材選びも同じことである。ここに描かれた家族の肖像は決して恣意的なものではなく、一定の普遍性を持つものであることは確かだ。

あらゆる作家は時代の証言者だが、他の作家以上にその資質を持っている作家はいるだろう。例えばプルーストは明らかにそうだ。プルーストと比べるのは今の段階では大げさすぎるが、高橋にも明らかに時代の証言者の資質がある。今後も当面は現代を中心に作品を書き、その後徐々に扱う時代を再び過去へと広げていくことを勧めたい。

滝田悠生の「MajiでKoiする5秒前」(『群像』八月号)では一人称と三人称の視点が繰り返し入れ替わる。一人称は女子大生・玲夏の家の向かいのアパートに住んでいる男性の視点であり、三人称では玲夏の同級生・智美のことが描かれる。視点の入れ替わりが非常にスムーズで、うかつに読んでいると気付かないほどなのだが、それは一人称の主である男性が玲夏の通う大学、門限、アルバイト先まで詳しく知っていて、まるで三人称視点のように感じられるからなのだ。

だが、向かいに住んでいるだけで何も交流のない玲夏についてそこまで知っているのは明らかに異常で、男性がストーカー化しつつあることを示している。要するに小説における三人称視点は、登場人物について何でも知っているという意味で、ストーカーの視点に極めて近いのだ。

男性は玲夏が門限の九時に帰ってくるのを待って毎晩駐車場で素振りをしている。男性の語りは明晰そのものだが、そんな明晰な意識で明らかに過剰な行動をしていることが不気味さをかき立てる。その不気味さは、玲夏に彼氏をとられたと恨む智美が男性に合流するに及んで恐怖となり、「名前も顔もない」男性が初めて玲夏と直接言葉を交わすにいたってバットの一振りとともに虚空へと消えていく。見事な幕切れだった。芥川賞受賞後作品のマンネリ化を指摘された滝田だが、あっさりと乗り越えてみせた。

荻世いをらの「In My Room」(『群像』八月号)は「私のような〓」(『すばる』三月号)に続くボディービルもの。今回は女性を主人公にしている。「私のような〓」では筋肉増強剤の使用の是非を巡る対立が重要なモチーフとなっていたが、「In My Room」ではそうした路線闘争ではなく、主人公の石川聖がリストラ対象になることから生じる上司・田中丸直美との対立が取り上げられている。執拗に退職を迫る田中丸がなぜか石川に個人的に接近、同じジムに通いだし、トレーニングパートナーにまでなってしまう。

しかし田中丸は上司であるため、石川の身体に言及することはできない。何らかのハラスメントにあたる可能性があるからだ。職場の異物として存在する石川のムキムキの身体を巡る神経戦。引き続き石川に退職を迫りつつ、一方でトレーニングにのめり込んでいく田中丸。変と言えばこれほど変な話もなく、ともかく面白い小説であった。

男性の作家が女性の身体性について描いているだけに、何らかの偏見が入り込んでいる可能性もあるが、何も知らないボディービルのことでもあり、具体的に違和を感じることはなかった。女性が読むとまた違う感じ方があるかもしれない。

藤野可織の「怪獣を虐待する」(『文學界』八月号)は、アメリカの作家カレン・ラッセルの世界を思わせる残酷ポップな寓話。いにしえの時代から森の中につながれている怪獣を少女たちが虐待している。怪獣はいくら痛めつけられても一晩で蘇生してしまうのだが、それにしても虐待は斧やチェンソーなどを使った非情なもの。怪獣は痛みに叫び、血しぶきをあげる。だが、怪獣の皮膚は白く、血しぶきは蛍光色。一時期よく見かけた、村上隆とルイ・ヴィトンがコラボしたバッグの柄のようだ。そして少女たちは虐待用にコーディネートした服を着こんでいる。怪獣の寓意は容易にはつかめないものの、確かにどこかでこうしたもの(現象)を見たという、リアルな感触がある作品だ。

小山田浩子の「予報」(『三田文學』夏季号)は、語り手の会社員の女性が、職場で頼りにされているパートの女性が休日に何をしているかを他の社員から聞くという話。表面だけ合わせていれば問題なしとされる職場の日常の薄い皮膜に隠されているモノの多さを感じさせる作品だ。三十枚ほどの短編ながら、うっすらと毒を含んだ記述や構成の面白さ、飲み会の場面の行きかう声の描写、最後の一文の鮮やかさなど、小山田の充実した創作力を堪能できる作品だ。

木村友祐の「野良ビトたちの燃え上がる肖像」(『新潮』八月号)は東京都と神奈川県の間を流れる「弧間川」の河川敷を舞台に、そこに生きるホームレスたちが権力によって追い詰められ、駆逐されていく姿を描いた。作者がホームレスに取材したとおぼしい生活の細部の描写が面白い。作者の危機感は色濃く、同時代的な迫力は感じさせるものの、やや古めかしい構図の作品となってしまった。作家としての貢献は創作の世界に新しいものをもたらすことによってしか成しえようがない。
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