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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年8月5日 / 新聞掲載日:2016年8月5日(第3151号)

書評
時間と空間をやすやすと飛び越し物語と歴史の区別すらなくす


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感慨無量だ。カルロス・フエンテスの大作『テラ・ノストラ』がさる方の翻訳によって出版予定だとの広告を最初に見たのはもう三十年近くも前の話。版元の水声社はまだ「書肆風の薔薇」を名乗っていた。その後、別の方が訳を引き継ぐ決心をいったんは固めたものの、他の仕事を優先し放擲したと聞かされたのも、もう二十年近く前のことになる。本田誠二さんがそれを引き受けて翻訳するという話をうかがってはいたのだが、まさか本当に完成し出版される日が来るとは! 三度目……いや、三人目の正直だ。フエンテス自身、通読するのは不可能だと言っていたらしい大作、読書家で知られたペルーのノーベル賞作家マリオ・バルガス=リョサが、飛行機の上で死を覚悟したある瞬間に、未読だと告白したという逸話の残っている『テラ・ノストラ』。一九七五年の出版から四十年ちょっとの時を経て、この大作がようやく翻訳され、二段組み千百ページばかりの日本語の書物として私たちの手許に届いたのである。なに、プルーストよりは短い。読むにしくはない。

三人目の訳者と言えば、『テラ・ノストラ』の根底にあるのは三という数字だ。三位一体、スペイン―アメリカ―パリの三地点、フェリペ一世(美王)の三人の非嫡出子……何よりも、三部構成だ。「旧世界」、「新世界」、「別世界」の三部だ。この構成とそれぞれの部のタイトルを見ると、フリオ・コルタサルの近く復刊されるという『石蹴り遊び』(一九六三)を思い出さないではいられない。何しろ『テラ・ノストラ』終章にはこの小説の主人公が登場するのだから。『石蹴り遊び』はパリを舞台にした「向こう側から」、ブエノスアイレスを舞台にした「こちら側から」、最初のふたつのパートからこぼれ落ちる、両都市でのエピソードやメモの断片を集めた「その他もろもろの側から」の三部構成だった。『テラ・ノストラ』の「旧世界」は主にスペインのこと(最初と最後に一九九九年のパリが描かれる)であり、「新世界」は「発見」されたばかりの現在のメキシコを指すのだが、「別世界」とは「新世界」を探索しその世界を知ってしまった後の「旧世界」のことだ。その点でフエンテスの作品はコルタサルの小説における世界の区分とは異なる。ここにはフエンテスの旧世界・旧宗主国スペインへのある種の復讐の意図が込められているようだ。新世界を知った旧世界はもはや旧世界でなくなったということだ。

見方を変えれば、一番短い第二部「新世界」を、旧世界でのエル・エスコリアル宮建設に対するフェリペ二世(「セニョール」)の野心をめぐる話が包み込んでいるのが『テラ・ノストラ』の構成と言っていい。エル・エスコリアルとは修道院、墓所、王宮、文書館などを兼ねる建造物で、現在も存在する世界文化遺産だ。これの建設を思いつく「セニョール」ことフェリペ二世の野望は、「……もしわしの思うとおり、過去に遡って、死んだものを蘇らせ、忘れられたものを復活させることが神から許されるなら……?」との発想に基づいている。これに対し、従者グスマンは答える。「時間を変えるというだけでなく、時間が生起する空間も変えられたらいいんじゃありませんか?」と。「そうすれば若返ることもできよう……」。換言すれば、人類の永遠の願い不老不死こそがフェリペの野望だ。事実彼は終盤、亡霊に示された三つの可能性の中から若きフェリペ美王となる。

問題は、この時、グスマンの指摘するように、時間と空間が歪むということだ。フエンテスの『テラ・ノストラ』の特徴とは畢竟、時空間の歪みに他ならない。フェリペ二世の父はカルロス一世(神聖ローマ帝国カール五世)であり、フェリペ一世(美王)はその父、つまりフェリペ二世にとっての祖父であるはずなのに、小説では父として登場する。スペインの最大の版図を築いた「日の沈むことなき帝国」の皇帝を、この小説は完全に無視しているのだ。この削除はまるで痛快な皮肉のようにも見える。

つまり、フェリペ二世のエル・エスコリアル宮への執着を扱っているからといって、『テラ・ノストラ』を通常の歴史小説と考えてはいけない。歴史はこのように歪められ、修正されている。そこにドン・フアンやドン・キホーテ、セレスティーナ、さらにはオラシオ(『石蹴り遊び』の主人公)を始めとする同時代ラテンアメリカ作家たちの作中人物らが加わり、時間(十六世紀と二十世紀)と空間(新旧両大陸)をやすやすと飛び越す。もはやフィクションすなわち物語と、事実すなわち歴史の区別すらもつかなくなる。

だが、そもそも「歴史」と「物語」とは同じひとつのhistoriaという単語であった。歴史小説とは事実を想像力で塗り替えるものなのだった。これはあるいは正当な歴史小説、フエンテス自身が作り直し、語り直すひとつのイストリアなのかもしれない。
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