感情が動員される社会を生き抜くには 堀内進之介著『感情で釣られる人々なぜ理性は負け続けるのか』(集英社)刊行記念鼎談載録|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年10月7日 / 新聞掲載日:2016年10月7日(第3159号)

感情が動員される社会を生き抜くには
堀内進之介著『感情で釣られる人々なぜ理性は負け続けるのか』(集英社)刊行記念鼎談載録

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「カモられるな!」という帯の赤字が目に飛び込む。「感情で釣られる人々」とは私たちのことだ。SNSでの炎上は商法に発展し、労働の場での過剰なサービス精神の強要、選挙戦では有権者の感情を刺激する候補者が優位に立つ。理性よりも「感情」に訴える現象に私たちは取巻かれている。

九月十三日、ジュンク堂書店池袋本店で、『感情で釣られる人々なぜ理性は負け続けるのか』(集英社)の刊行記念鼎談が行われた。登壇者は本書の著者で政治社会学者の堀内進之介氏と政治学者の姜尚中氏、社会学者の宮台真司氏。政治・社会における感情動員の歴史を探り、我々が感情で釣られぬため、「冷静に考える」ための処方箋について語る。その内容を載録させていただいた。(編集部)

感情を梃子に、国や社会や会社に都合よく動員されぬために。

堀内 
私は政治社会学を専門にしています。日本で政治社会学者を名乗る人は少ないのですが、政治学と社会学と哲学が重なった学問領域を、特にドイツでは一分野としてこう呼び、中でも私は批判理論を専門にしています。批判理論は簡単に言うと、政治学や経済学、個人の発達、文化を観察し、社会を批評する学問です。

お隣にいる宮台さんは私の師匠で、専門は社会システム理論という、これもドイツの理論です。こちらはシステムの側から社会を読み解こうとするわけですが、批判理論とシステム理論とは、お互いにお互いを批判しあいながら一つの大きな体系を生み出す関係にあります。そうした理論を背景に書いたのが、この『感情で釣られる人々』です。

堀内進之介氏
私は大学院でゼミを担当していますが、就職面接について、以前とは学生の相談内容が変わったと感じています。少し前までは、どうすればうまく面接官に自分の考えや気持ちを伝えることができるかということが、相談の中心にありました。ところが最近の面接マニュアルに書かれているのは、面接官の心を動かしなさい、心に刺さるように熱意を伝えなさい、というメッセージなのです。それは極論すると、質問の中身はどうでもよくて、とにかく熱意が伝わりやすい言葉で、面接官の心に訴えかけろと。新卒社員の短期での離職率が問題になっている昨今なのに、これでは手段と目的が入れ替わっていますよね。

また社会科学では、理性と感情の対立がはるか昔から論じられてきたのですが、現在の政治や経済の様々な場面で、感情の方が理性よりも大事なのではないか、という議論が改めて起こってきているように思います。

十年前、僕が宮台先生のゼミの院生だった時に、先生と『幸福論』という本を出しました。この本のテーマも、「理性」と「感情」でした。冒頭は、ヒラリー・クリントンの話でしたね。彼女は当時「feel good states」=「良い気分になる国家」を政策として掲げていました。何はともあれ気分よく生活できることが大事だと。労働を例にとれば、やりがいや達成感を持てる社会を作ることが掲げられていたわけです。

そのとき私たちが議論したのは、果たしてそれでいいのか、ということでした。主観的には満足しているけれど、傍目には搾取されている、やりがいとバーターに賃金が引き下げられているような状況でも「feel good」であればよい社会と言えるのかと。

人間にとって労働の喜びは、ある場面では賃金より重要なこともあります。しかし知らず知らずのうちに、共感や感情の高ぶりを梃子にされ、国や社会や会社や共同体に、都合よく動員されるというのはいかがなものか。やりがいを搾取されずに、もう少し理性的でいるには、どうすればよいのか。『幸福論』から十年経って、そのことに何らかのヒントを求めたいと思ったのがこの本を書くきっかけの一つでした。そこで本書では、政治や労働・消費の場面における動員戦略の歴史をひもとき、その作用を知った上で、私たちに何ができるのかを考えてみようとしています。

というところで、宮台さんにバトンをお渡ししたいと思います。
『コンビニ人間』が描く現実、誤 動する民主政に抗うには?

宮台真司氏
宮台 
僕は堀内くんの元指導教員なので、本書のバックボーンにある議論を紹介する役割を演じます。

十九世紀の末から、民主制の危機についての議論がありました。一般に大衆社会論と呼ばれます。民主主義を支えるのは公衆、つまり、民度の高い、むやみに感情に流されない、教養のある市民です。むろん万人には教養を期待できませんが、井戸端会議や床屋談義のように、地域の小集団の中に見識のなさを補い合うネットワークがあれば、公衆の劣化は防げると考えられてきました。例えば、集団の旦那役が、「ねえ君、これはこう解釈するべきなのだよ、君もまだまだ青いな」と、浅薄な考えを押しとどめる役目をすれば、民主主義を支える公衆の劣化を防ぐことができます。

詳しくみると、戦間期には、産業化と都市化が進み、人々が分断され孤立すると、彼らの鬱屈と不安を当て込んだ、マスコミによる感情的動員が始まります。弾丸理論と言いますが、人々が個々に直接マスコミ情報に直撃されると、感情を操縦されて、見かけ上は議会制民主主義でも、全体主義的な帰結を招く可能性が高まる、とされました。

実際にドイツでは、一九三三年にヒトラーが首相になって以降、メディア的動員でナチスが誕生し、選挙や議会決議を通じて、一見民主的に、独裁が構築され、惨劇につながりました。

第二次大戦後は、アメリカでマスコミ効果研究、ドイツでは批判理論が、実証研究からほぼ同じ結論を導き出します。つまり人々が分断され孤立した状態になってしまうからまずいので、人々が人間関係のネットワークに包摂されれば、社会がむやみな方向へ動くことを避けられる、と。『ピープルズ・チョイス』のポール・ラザースフェルドや、ジョセフ・クラッパーの限定効果説などの議論が、そのことを統計的に示しました。それは、のちにソーシャル・キャピタル=社会関係資本と呼ばれる概念へとつながっていきます。

第二次大戦後から一九七〇年代に入るぐらいまでは、先進各国がタダ同然でエネルギーを買い叩けたことから、経済成長が起こって中間層が膨れ上がりました。おかげで、個人が対人ネットワークに包摂され、マスコミに直撃されて感情的動員に釣られる事態が緩和されるようになりました。

ところが七〇年代に入ってからはエネルギーコストが高くなって、物を作っても利益が次第に上がらなくなり、八〇年代以降の新自由主義、続く九〇年代半ば以降のグローバル化の進展で、先進各国の中間層が分解、再び人々が分断され孤立した状態になります。そこへきて九五年がインターネット元年。人々は見たいものをだけ見て、見たくないものを見ず、縦割化します。そこで再び大衆社会論の問題設定が復活します。

ただ、以前と違って、もはや中間層の成長はありえない。また戦間期までは行政官僚エリートが大衆を指導すればいいという考え方がありましたが、エリートが育つのも社会の中だから、社会が劣化すればエリートの感情も劣化する。最近の日本の官僚を見れば分かります(笑)。ミクロには熟議論が処方可能だとはいえ、マクロには、昨今の民主主義の劣化問題に抗う解決策がないという状態です。

人々が感情的に劣化すればするほど、人間が自動機械と同じになって、どのボタンをどういう順番で押せば、どういうふうに行動するかということを、統計的に予測できる存在になりがちです。そうなると、民主制を気取っていくらディスカッションを繰り返したところで、ファシリテーションやセットアップの仕方次第でどうとでも大衆をコントロールできてしまいます。そしてコントロールされている側は、そのことに気づかないままなのです。

一五五回の芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの『コンビニ人間』、これは面白い作品ですね。そうは書いていないが、主人公はパーソナリティ・ディスオーダー=境界性人格障害。感情の働きに問題を抱えた存在が、感情が動員されるこの社会を生きるには、感情を閉じたロボットになりきるしかない。コンビニのバイトが、主人公にとって無感情ロボットになりきるチャンスです。しかし周囲に「もっと人間的な生活を送れ」などとチャチャを入れるお節介がいて、主人公は混乱をきたす。そして結局、周囲からのノイズを排除し、再び完全なる「コンビニ人間」に戻ることで、平安と安息を得るという。まるで社会学者が書いたような物語です。これはフィクションですが、現実社会を言い当てていると感じます。

昨今のポピュリズムでは、大衆の感情の劣化を当て込んで、ビックデータを統計的に駆使し、広告代理店的な資本を使った感情動員をしています。だから民主政は誤作動しがちです。それに抗うのに「人間的な感情を取り戻せ」はありえない。『コンビニ人間』が描くとおりです。では現状に甘んじる以外ないのだろうか。

ということで、堀内さん、本書では「ナッジ(nudge)」という処方箋が提示されているのですよね。

ナッジ(nudge)――賢い自分が愚かな自分をいかにケアするか

堀内 
ナッジという単語には「注意をうながすために、ひじで軽く突く」という意味があります。行動経済学で知られるようになった理論ですが、そんなに難しい話ではありません。考え方の基礎は、いわゆる整理術に十分に含まれています。その先駆者であるデビッド・アレンが提唱したのは「Getting Things Done」=事を済ませてしまおう、ということです。

私たちは毎日忙しく、雑務に追われています。その全てを常に把握しておくことはとてもしんどい。だったら外に吐き出してしまえば、自分をスマートにできるよ、という発想なのです。例えば、明日絶対に忘れてはいけない書類があったなら、書類は玄関に置いておけばいいと考えます。そうすれば書類を持っていくことを覚えておかなくて済む。負荷を下せば、消耗せずに済んだリソースで、代りに何かができるかもしれない。

この考えの中心にあるのは、賢いときの自分と、賢くないときの自分がいるということ。我々は、ある人々はいつでも反知性的で、エリートはいつでも賢いと、画一的にカテゴライズしがちです。でも実際、そんなことはない。賢いときの自分が、賢くないときの自分をどのようにケアするか、それを考えることで、少し楽に自分をコントロールすることができるのです。

ナッジの応用事例は、例えば男子用トイレにもあります。最近の男性用便器には「的」がついていることが多いですよね。小便をするとき、便器に的がついていたら、男性は思わずそこを狙ってしまう。おかげで尿が飛び散らず、掃除の手間が少し省けます。結果的に、ある理想的な状態をもたらすことになります。

これはもともとオランダ・アムステルダムの空港で採用されたのが初めで、この空港の便器には蠅のイラストがついているそうです。それより以前、日本では「もう一歩前に」というような理性的なメッセージが投げられていました。次に登場したのは、「いつもきれいに使ってくれてありがとう」という共感に訴えるメッセージ。それがさらに進み「的」になるわけです。理性でも感情でもない何かに訴えかけて、人々にある行動を促す。「こうしてみたらどうかねえ」と肘で突いてみる。それがナッジというものです。

僕らは基本的に怠惰です。その怠惰な性質を理解して、もう少し賢い自分になれないかと考える。ナッジは善用もできれば悪用もできる、とても人間的な発想法だと思います。僕は、もう少し自分を理性的にするヒントが、このナッジにあると感じて、その活用を本書で提案しています。

というところで、姜さんにお話をお願いしたいと思います。
姜尚中氏
姜 
漱石の『草枕』の冒頭に「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ」という文章がありますよね。これは「知情意」を説明していますが、漱石にしてみれば「こころ」と置き換えられるということになるのだと思います。

本書には戦後の政党の趨勢が、大衆の感情の動員と合わせて整理されていましたが、僕も政治上の系譜が気になっていて、先日、前から興味があった松下政経塾を訪ねました。松下政経塾とは、言ってしまえば「松下教」です。松下幸之助は感情が豊かでもそれだけではだめ、知性が豊かでもそれだけではだめ、人間が心に曇りなく物事を見れば、知性と感情が一致し、そこに心眼が開かれると言っています。また、物を売るだけではだめで、心を売らなければいけないとも言っており、これは物と心がどこかで一致するという「物心一如」の考え方です。

これらは松下幸之助が一代で会得したものではなく、たぶん日本には戦前から、感情と知性の二つをおさめるものとして、「こころ」という考え方が息づいていたのではないか。

そして俗流化された「こころ主義」とでもいうようなものが、様々な日本の企業の中に、ある種の徳目として存在しています。非常に明晰で理屈が立つ人物でも、周囲の共感を得られないと「あの人には心がない」と評価が落ちる。経済活動が、効率や数字のみで計られるわけではないんですね。そして日本には依然として、朝から皆で社歌を歌い体操をして、共に働くぞ、という共感を高めることを大事にするところがあります。これは単純に規律訓練権力とだけでは捉えられないところがあって、社会学的にモーレスと呼ぶ、集団の無意識的な行動規範に根付いているもののように思います。「こころ主義」という観点から、お二人が話された大衆社会論まで繋げられないかと、思います。
先ほど、エリートの感情も劣化するという話がありましたが、民主主義が危機に陥ると、俗流化した「こころ主義」には、東芝事件ではないですが、危うさも表れてくるのでしょう。

たぶん、トランプ現象のような、アメリカ社会で行われている感情の動員と、日本の場合とは、フラットに同じではない。そういう現在の日本及び世界の状況も含めて、本書からはいろいろなインスピレーションを受けました。
堀内 
規律訓練権力という言葉を出していただきましたが、僕はそれを論じたミシェル・フーコーを長らく研究してきました。また最近フーコーの研究を継ぐニコラス・ローズの『Governing the Soul』=『魂を統治する』を翻訳したところでした。姜さんがおっしゃったように、心というものの考え方が俗流化し、どのように統治のメカニズムに組み込まれていくかということを、様々な領域に亘って論じた本で、それが僕の思考の下敷きの一つになっているのは間違いありません。

トランプ現象を含め、最近のアメリカで起こっているのは、レトリックにおける動員合戦ですが、ローズがsoulと呼ぶ、長らく大切にしてきた「精神」とは、動物の種としての人間がもともと持っている慈しみや、言葉の正しみへの共感能力です。それが俗流化し、統治に利用され、人々の感情が動員されていく中で、「魂」を救い出すために何ができるかということを、ローズも、私自身も課題にしています。

研究者それぞれの立ち位置は異なるにしても、批判理論には、どこかに人間への思いがあります。アドルノらは俗流化された人間学には、批判的なまなざしを向けていますが、その裏返しとして、純粋な意味での「人間」「心」といったモチーフを研究の核として隠し持っているように思います。これがどうすれば表層的に消費されずに、社会設計の組成となり得るのか。そこに、私の研究者としての思いと課題があるのです。

そのときに寄って立つのは、人間という存在に対する「信頼」です。先ほど言ったように、人は誰しも、賢いときも愚かなときもある。だから少しでも賢い自分が、愚かな自分に対して何をしていくか、まずはそこから考えよう、ということです。

フーコーは「ローカルな抵抗」を、とても重視していました。社会を変えるために大変革を持ち出すのは危ういかもしれない。でも私が私として、個人でできることがきっとある。そうしたローカルな場面での小さな抵抗、小さな実践が、社会を変えるかもしれないと。

忘れてはいけない書類を玄関に置いておくことも、自分の人生だけではなくて、きっと社会の役に立ちます。心の余裕が生まれ、少し理性的になった自分は、巡り巡って世の中のために、何かができるかもしれません。

全ての起点に感情がある、人間が自動機械であることから逃れるには

宮台 
理性的であるべきか感情的であるべきか、あるいは理性と感情はどちらが大切かという古典的な問題設定があります。しかし今日ではそれがミスリーディングであることが分かっています。理性的であるためには、理性的であろうと意志することが必要で、そうした意志を働かせるためには、感情が必要なんですね。全ての意志、理性に対する起点には、必ず感情があるということです。

『宇宙大作戦』のスポック博士、彼は感情がない存在です。そして、どうして人間に感情のようなゴミが存在しているのかを、いつも疑問に思っている。しかし進化生物学的に言えば、感情が本当にゴミであれば、僕たちは感情を持たない存在として進化してきているはずです。逆に、全ての出発点に感情が必要だからこそ、人間は消滅せずに感情的存在であり続けてきました。そこが重要な点です。

理性的、合理的であろうとするためには意志が必要です。しかし人間は基本的に意志が弱い存在で、病気になったり、嫌なことがあれば、くじけてしまうのが自然です。「意志を強く持て」というのは意味があるようで、呼びかけとしては実効的ではないのです。

欲望あるいは感情に負けてしまうのが人間であるならば、欲望や感情自体を変えてしまえばいい、というのが自己啓発セミナーの考え方でした。これはそもそも、アメリカのエグゼクティブに処方されていたものでした。僕自身、日本に入ってきた初期段階に、自己啓発セミナーのかなり激しいものを受けてきました。実際、表層的な欲望や感情は簡単にコントロールできるので、自己啓発セミナーは一挙に拡がりました。しかし映画「ジェイソン・ボーン」シリーズを見ても分かるように、これは危ういのです。潜在意識を書き換えて、感情や欲望を入れ替えれば、自己統御が可能になるというけれど、それは「誰」が入れ替えるのか、入れ替えようという意志は「どこ」から生じるのか。遡れば、その主体性の危うさに気づきます。

自己啓発セミナーでなくても、実は日常的に我々は、例えば建築家の設計、あるいはコンピュータプログラム内のアーキテクチュアによって、様々な場所で操作されています。分かりやすい例を挙げると、マクドナルドなどのファストフード店は、BGMの大きさ、照明の明るさ、椅子の固さ、エアコンの温度などの設定で、客の回転率を操縦しています。僕ら自身は自由意志でふるまっていると感じながら、統計的には、常に既にコントロールされる世界にいます。

ナッジは、そういうものに似ているようで、少し違う。ナッジは、スモールスケールなんです。だから自分が何をしているのか、ということにハッと気づくことができる。どうして便器に蠅がプリントされているのか、と考えれば、それをプリントする人間の意図も見えてくる。でも分かってもやはり蠅を狙ってしまう。そういう力関係が、いいんですよね(笑)。

僕はシステム理論家で、堀内君は批判理論家。批判理論家というのは主体性の立て直しを目指す人たち。システム理論家は主体性を立て直そうとする人間たちの幻想を打とうとする立場、と考えていただければよいでしょう。しかし批判理論の出発点の一つであるフロイトまで遡ると、彼はシステム理論的でもあります。実際、システム理論の出発点であるパーソンズはフロイトの影響下にあります。

フロイトとシュタイナーとの近似にも注目しておきます。二人は一八六〇年前後に生まれた同時代人ですが、彼らに共通しているのは、僕たちの理性の働きを支えている言語的なプログラムが、いわば自動機械だという認識です。自由に考えているつもりでも、言語的プログラムの自己運動によって操縦されてしまう。そうした自動機械的な自己運動を嫌悪していたという点です。フロイトもシュタイナーも、カントの自由意志論的な意味で、人間が自動機械であることからどうすれば逃れられるかを考えた人たちでした。

なぜ十九世紀末に、同時にそうした思考が出てきたのか。僕の考えでは、帝国主義的拡張競争の中で、人類学の時代が始まったことがあります。そこで近代が相対化され、もともとヒトはこれほど言語の自己運動、例えば論理に駆動される存在ではなかった事実が気付かれます。うたと違い、言語自体には動機づけの力がないことも、気付かれます。こうした気付きが、アドルノをはじめとする批判理論家の、理性は暴走するという批判につながるのです。 

そこから眺めると、「主体的であれ」というメッセージは、「理性的であれ」という場合とは随分違い、複雑な背景を持つことが分かるでしょう。理性的であろうとすると、人は単なる自動機械になりがちです。それは主体的とは言えません。

自分たちの心の働きと、それを前提 に構築された社会システムを知る

姜 
先程の話の続きになりますが、和辻哲郎はヘーゲルの思想を使って、日本には相互主観的な独特なコミュニケーションの方法があると説明しています。政治家の腹芸、あるいは阿吽の呼吸のような共鳴関係が、日本には他のどの国よりもできあがっているのだと。その要因を日本語の持っている独自性の中に求める人もいれば、コミュニケーションが破たんしない在り方が、日本の土壌にインプットされていると考える人もいる。また例えば松下幸之助の教えを通して、俗流化された「こころ」というものが従業員の中に浸透していくと、日本型の職場のコミュニケーションが培われ、労働の生産性が高まる。だんだんにそうした良さは破たんしつつあるのでしょうが、現在でもエコノミストたちが読んでいる本には、そうしたエートスが残っています。

僕が最近不思議に思っているのは、どうして人はこんなにロボットが好きなんだろうということです。人間に限りなく近いミュータントやロボットは、やや不気味な存在だと僕などは思います。ところが、花子や太郎と名をつけて、限りなく人間に近い存在として扱う。そこには「心」のある種の分身が宿っているのではないか。かなり飛躍しますが、原発事故のような惨事があっても、こうした日本の土壌では、科学的なオプティミズムが生き続けるのではないか、そういうことを感じるんです。

ナショナルのコマーシャルソング「♪明るいナショナル、みんな家中、なんでもナショナル」は、完全電化というものが、近代的なパサパサとしたものではなくて、人と人との心が通じ合う団らんの象徴のようにイメージされました。戦後作られてきた日本の姿は、堀内さんが分析した「感情で釣られる」という問題と、深いところで繋がっているのではないか、と思っています。
宮台 
僕たちの心の習慣やその表現形としての文化が問題なのか。それとも僕たちの普遍的な心の働きを前提にした社会システムが問題なのか。これは日本的特殊性を巡ってずっと論争されてきたことです。

日本人に同調圧力に負けやすい心の習慣があるという議論に対し、社会心理学者の山岸俊男は、様々な実験をベースにそれが間違った考えであることを、ある程度実証しました。彼によれば、内集団(所属集団)に縛り付けられて過ごす状況が、内集団の空気を読む作法を合理的戦略として帰結しました。内集団に閉じ込められ、外集団(非所属集団)との間の紛争や流動性が乏しいから、内集団と外集団を含む包摂集団のプラットフォームが育たない。内集団のルールだけがあり、包摂集団のルールがない。だから公共性へのコミットもなく、「滅私奉公」というときの「公」も、自分の所属集団だけを指す。先輩や同僚をかばうために世間に対して嘘をつくことこそが「滅私」だとされ、「市民の公共」などと口走れば直ちに居場所がなくなる。だから、自分が縛り付けられた内集団での座席を保つべく、内集団の得になることをし続ける。山岸俊男によると、これは日本人的性格みたいな心の問題ではない。日本の社会ではそう生きた方が得だという合理的戦略の問題なのです。ことほどさように、「特殊な心の働き」が問題なのか、「普遍的な心の働きを前提にして構築された特殊なシステム」が問題なのかは、いつも考えるべきことがらです。

言葉におびえ言葉にすがるは浅ましき者、不安は理性が自由な証

堀内 
そうした社会のシステムの中で、私たちが個人でできる努力にはどのようなものがあるのか、そのヒントを示すことも僕の課題としてありました。

本書のレビューの中には、どこにも回答が書かれていないことに対する批判もありましたが、回答を書かないということは、本書の方針の一つだったんです。感情に釣られるという状況の背景で、実は多くの人が、命令されることを望んでいる。これをしておけば大丈夫だと、安心を他人に裏打ちしてもらいたいのではないかと思います。しかしそれを何の抵抗もなく受け入れるようなことで、本当にいいのでしょうか。

繰り返し本の中で書いているメッセージの一つは、あなた自身のことは、きっとあなたが一番よく知っている。ささやかなきっかけさえあれば、誰かに命令されなくても、きっと自分自身のことを一番よく見ることができる、ということです。自分で考え始めるための手続き、些細なことでも自ら決めて始められるという確信が、大事ではないかと思っているのです。
宮台 
フロイトと批判理論に共通して「不安」というキータームがあります。不安な人間は言葉におびえ、言葉にすがる。だから命令されたがる、と。堀内くんが言ったことのパラフレーズですが、誰かに処方箋を示してもらうことではなく、「自分たちの心がどういう働きを示すのか」、そして「自分たちの心の働きを前提に周到に構築されたどんな社会システムがあるのか」を知ることが重要です。あとは自分でやれ(笑)。

ローレンス・レッシグは、設計が複雑でレイヤーが深くなると、僕たちがその意図を見抜くことができなくなりがちだから、意欲がある者には、我々の心の働きを前提とした社会設計の意図や目的を観察して見抜くことができるような、仕掛けを残しておくべきだ、と言います。ナッジの発想は、これに準じたものです。

処方箋をほしがる人は、フロイト=批判理論的には、言葉におびえ、言葉にすがる、不安で浅ましき者ということになるから、堀内くんがそれを回避しようとするのは、思考伝統から見て当然だということです。
姜 
これが処方箋です、と唯一の答えを示すことより、問題を問題のまま提起することが、今、必要な誠実な在り方だと思います。
速水御舟という、昆虫や蛾などを主に描いた日本画家がいるのですが、なぜそのようなモチーフを選ぶのかと問われれば、彼らには過去もないし未来もない、あるのは現在だけ。「Here and now」=ここと今、それが最も美しい。その限りにおいては不安ということからも解消されていると答えています。それがナッジという考え方にどこまで通じるか分かりませんが、先ほど堀内さんが言われたように、自分のことは、本当は自分が一番よく分かっているはずで、そこから出発して、誰に命令されるのでも動員されるのでもなく、自分なりの見方、考え方を作り出していくこと。この本には、その示唆がありました。
堀内 
ところで、お二人には自分自身の理性を助ける日々の工夫があるでしょうか。
宮台 
僕は昔、ナンパ師だったから(笑)、人の普遍的な心の働きを前提にした対応をすると歩留まりが上がることを現実に体験しています。人間は本当に自動機械だと実感することが多く、自分も自動機械から逃れられなかった苦しい年月がありました。それが現在の僕の様々な動機づけの源泉になっています。自動機械であるがゆえに、人に簡単に操縦されるようなあり方を回避したい。ただ、多くの人はそう思いながらも、やはり操縦されがちです。ならば、意志力に頼らないような、その都度のミクロな工夫をするしかありません。僕は小さな子供がたくさんいて、日々計画通りに進むなんてあり得ません。あらゆるトラブルに見舞われますが、そのたびに嘆いていたらエネルギーをすり減らすだけだから、あらゆるノイズに抗わず、その都度の「もののついで」に営みを展開し、全体を足し合わせると何となくバランスが取れているようにしようと心がけています。
堀内 
ニーチェが『ツァラトゥストラ』の中で、意志にとって偶発的な出来事は、歯ぎしりするほど苦痛で孤独なことだ、と書いています。でも、だからこそ偶発的に起こってしまったことも含めて、自分が意志したことだと言えるかどうか。そう言えるほどに意志を強く持つことをニーチェは求めますが、実際にはなかなか難しいですよね。

不安という話も出ましたが、キルケゴールが言うには、不安とは、他でもあり得たかもしれないと考える余地がある、ということで、それこそ理性が自由であることの証だと。だから不安になることは、僕にとって大事なことで、それがやる気の源泉にもなります。
姜先生はいかがですか。
姜 
最近ガーデニングを始めたのですが、自分がままならないことをするのはいいですね。もう一つ、最近、犬派から猫派へ趣旨替えしました。猫というのは、こちらの働きかけに、犬のように従順には従わない(笑)。猫とガーデニング。今はできるだけ意志をコントロールしようということを考えないようにしています。そうすると比較的楽になって、何かもう一つ仕事をしようかな、などと考えることができるんです。 
この記事の中でご紹介した本
感情で釣られる人々なぜ理性は負け続けるのか/集英社
感情で釣られる人々なぜ理性は負け続けるのか
著 者:堀内 進之介
出版社:集英社
以下のオンライン書店でご購入できます
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