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更新日:2017年8月22日 / 新聞掲載日:2017年8月18日(第3203号)

社会の為にお家の珍宝売立会

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「社会事業寄附美術品売立会」を七月八日から芝なる東京美術倶楽部に於て開催することとなった。該売立会には二條公、徳川侯、佐々木侯、徳川伯、酒井伯、池田侯等の各家に伝わる重代の由緒深き珍宝約五百点が出品され連日非常の盛会であった。(「歴史写真」大正十四年九月号)
「売り立て」とは、オークションのことだ。

現代日本は「お宝」ブームで、市場は三千三百四十一億円(一般社団法人アート東京)規模という。

さて、この写真は大正十四(一九一五)年九月号の『歴史写真』に掲載されたもの。

記事によれば、「家庭組合と同愛会が主宰する社会事業寄附美術品売り立て会」が七月八日から東京芝の東京美術倶楽部で開催された。売り立てと言っても、あくまで慈善事業の名目だが、美術品の売買である。

大正期に入って、旧大名家など華族の「家宝」を売る動きが激しくなっていた。

理由は、いくつかある。まずは、第一次大戦後の不況で経済的に苦しくなったため。次は、遺産相続などでまとまった資金が必要になったため。さらには、資産にゆとりはあるが家政を整理するためで、このなかには、華族社会がいずれ崩壊すると予測して、伝来の「お宝」の一部を売り出し、それを資金に公益法人をつくって収蔵する家もあった。

記事を追えば、二條公、徳川侯、佐々木侯、徳川伯、酒井伯、池田侯等の各家から約五百点が出品され、「連日非常の盛会」だったという。

写真に写る男性たちは買うための品定めをしているようだが、名前はわかっていない。手前にあるのは薙刀、徳川家の葵紋がはっきり描かれているものがある。

大正十四年は売り立ての回数が突出して多かったが、震災の復興費に充てた家が多かったとみられている。

大がかりな「お宝」の整理をして財団法人を設立した一人が、旧加賀藩主家の前田利為侯爵だった。

前田侯爵は陸軍軍人でもあったが、夫人と滞在したパリを拠点に、第一次大戦後の講和会議などにも参加した。

大正十二(一九二三)年六月に帰国した前田侯爵は、「什器図書整理委員会」をつくって検討を始めるが、その直後に関東大震災に襲われて中断する。十三年七月から四回にわたって、不要什器と貴重蔵器千六百八十二点を処分し、百二十二万七百八十円余を売り上げた。十四年五月の売り立てには、二日間で千名余りが集まり三百八十五点・百九万余円の売り上げになっていた。前田家ではこの資金で「公益法人前田育徳会」を設立して、美術品や図書を収蔵した(『前田利為』前田利為侯伝記編纂委員会)。

前田侯爵は、ヨーロッパでロシアとドイツ革命による旧世界の没落を目のあたりにし、日本でも労働争議が各地で頻発していた時勢に対応しようとしたのだった。

前田利為侯爵と同じく、時勢に危機感を抱いて「お宝」を売った資金で「徳川黎明会」をつくったのは、尾張徳川義親侯爵だった。

法人に移管した「お宝」は、第二次大戦後に華族に課せられた莫大な財産税を免れて、現在にいたっている。

当主の浪費によって、すでに昭和初期には財政がひっ迫していた紀州徳川家は「お宝」を次々に手放し、尾張徳川家が「加藤清正の兜」を購入した。

このことを、「家政整理に成功した尾張家と、家政に頓着しなかった紀州家との差」だと、華族の売り立てを詳細に研究した小田部雄次静岡福祉大学教授は述べている(『家宝の行方』小学館)。

この写真は、敗戦後の「斜陽」の芽がすでに蒔かれていたことを物語る一枚である。
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