天狗の回路 書評|中上 紀(筑摩書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年8月21日 / 新聞掲載日:2017年8月18日(第3203号)

天狗の回路 書評
自らを含めた一族の出自を問う根拠を「回路」になぞらえて描出

天狗の回路
著 者:中上 紀
出版社:筑摩書房
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天狗の回路(中上 紀)筑摩書房
天狗の回路
中上 紀
筑摩書房
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中上健次が没して二十五年、四半世紀となる夏がめぐってきた。

中上紀は健次の長女だが、巨星たる父の影にひるむことなく、デビュー以来、豊饒な独自の物語世界を編み上げてきた。

彼女の描く世界は、自然のもとでのおおらかな営みや、異文化と触れることの高揚感に満ちていた。みずみずしい文章。やわらかくも芯を感じさせる強いまなざし。時に、突き放すように際立つ描写。一方で、他者との間に生じる「違和」の微細な襞を丹念にひらいて、人間という生き物の業の深さを抉ってみせてもきた。

『天狗の回路』では、思いがけない方向から顕わになった、父=健次のさらに父祖の歴史を遡り、自らを含めた一族の出自を問う根拠を「回路」になぞらえて描出させた。端緒となるのは、縁者と名乗る女性から送られてきたSNSのコメントである。

父の異母妹、つまり主人公・綾にとっての叔母を母にもつ「美貴」という女性。祖母は異なるが同じ祖父の孫どうし、従姉妹にあたる彼女が作家である綾にネットを介して伝えたのは、「昔」起きた「あの時のこと」。自由奔放な祖父・零次郎と、美貴の祖母、そして綾の祖母が生きた戦後という時代の出来事である。女出入りの激しい零次郎が賭け事や暴力の咎で捕まり、その間に綾の父や美貴の母らが次々と生まれたという事実。

美貴の祖母の回顧、という物語の体で語られる様々な事柄と、その裏側で繰り広げられていた駆け引きや行き違い、それらが入り組んで「いま」の自分たちがあることの妙に、綾は引き込まれていく。

一方で、南アジア出身の夫との間に生じた齟齬を埋められずにいる綾は、多感な時期を迎えつつある二人の息子を抱えながら、その気持ちのはけ口を求めて同じような境遇の女性たちのコミュニティサイトに傾倒していく。

父が生きていた三十年前、小説家であった父が書いた祖母の話、親戚たちから聞いていたこと、美貴が語る「昔」、さらにその前の時間……。自身のからだは「いま」から離れられず、夫や、子どもたちや、老いた母や、それぞれに忙しい妹や弟たちとのしがらみに絡めとられながらも、綾の思考と感情は過去からさらに自分が生まれる以前の時間へ、「田舎」と呼んでいる父の故郷である場所へと導かれてゆく。

それは、作家として父母から継いださだめなのか、一族の因果を繋ごうとする本能的な呼応なのか、ともかく綾は、血の流れという縦の時間軸と、横の繋がりである様々なコミュニティに属する多重的な自己というものの結節点を見出そうともがくのである。

やがて綾は、父とは異なる畏怖と親しみを持って、父の故郷である新宮を眼差している自己を発見する。慣例化されている夏の帰省は逃避でもあるが、美貴という外部によって新たに付与されたルーツの根拠を確認する作業でもあり、自己のなかに不可侵な場所として置かれている、ある意味では神話化された父の物語の舞台を、作家として対象化するためのものへと意味合いを変えていく。

父性の不在。去勢された名。路地。女たち。浮かんでは消える顔、顔、顔。どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが物語なのか。

おもむろに挿しはさまれる、美貴の父祖が「天狗」だったという寝物語……。「物語」の上からさらに「神話」の衣が重ねられる。路地の内から世界(サーガ)を構築しようとした健次に対峙するかのように、綾=紀は俯瞰の視点から、現実の瑣事から逃れられない卑近な我を描こうというのか。

「真っ黒な海から、生暖かい風が吹いてきていた。湾の向こう側のモーテルのネオンの色は、三十年前と何一つ変わっていない」

その風は、いつ、どこから吹いてきたものなのか。

路地のサーガと、天狗の回路。

死者は神格化されるが、いまだ有限な生のさなかにある「いまの私」が書くものは、リアルというよりはアクチュアルな視座で書かれるべきである。それを体現する作家のひとりが、中上紀である。
この記事の中でご紹介した本
天狗の回路/筑摩書房
天狗の回路
著 者:中上 紀
出版社:筑摩書房
「天狗の回路」は以下からご購入できます
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