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更新日:2016年8月5日 / 新聞掲載日:2016年8月5日(第3151号)

追悼・永 六輔

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若き日の永六輔氏
七夕の日、突然、永さんが永眠した。大きなショックを受けたが、日が経つにつれ、その重さを痛感している。
現在の日本にとって、彼ほどの存在は他にいなかったと思う。そのことをどれだけの人がわかっているだろうか。おそらく多くの、ごく普通の庶民たちは、深い悲しみを感じているに違いない。
戦後間もない頃、NHKラジオで放送されていた三木鶏郎グループによる『日曜娯楽版』が人気だった。まだ中学生だった永さんは、番組が募集するコントに投稿し、採用されることがしばしばあった。
ある日、三木さんから招かれてスタジオを訪ねる。早熟な少年を見て、三木さんはびっくりして、
「高校生になったら、トリロー工房でアルバイトしないか」と誘った。それが天才のスタートだったのである。
中村八大、いずみたくという二人の音楽家と組んで、ヒット曲を次々に作り、NHKテレビの『夢であいましょう』の構成作家になった。『上を向いて歩こう』『こんにちは赤ちゃん』は、そこで誕生する。
一九六五年に創刊された『話の特集』に積極的に参加し、長期連載となる「無名人語録」を執筆するかたわら、販売拡張員となり、独立後は役員になってくれた。私にとっては以来、様々な時空を共有する友人でもあった。
共にテレビの旅番組の草分けとなる『遠くへ行きたい』(現在も続いている)を作り、市民政治運動・革自連(革新自由連合)に参画し、幅広いボランティア活動も切れ目なく行うことになった。十年間にわたって『六輔七転八倒九百円』の曲尺鯨尺を売る全国行脚によって、尺貫法復活を勝ち取った。
『中年御三家』などエンターテイナーとして舞台にも立ち、日本全国でライブ・ステージを山ほどこなした。その間、ラジオに出演を続け、病いに倒れる直前まで生放送のマイクの前で語り続けたのである。
「無名人語録」はいわば彼のライフ・ワークであり、『語の特集』で28年。『週刊金曜日』で18年の計46年もの連載を続け、岩波新書の大ベストセラー『大往生』もそこから生れた。
六年前に判明したパーキンソン病でペンを持てなくなり、昨年末には言語も不明瞭になってしまった。リハビリに励んで、何としてでも復帰したいという思いが本人にはあったようだ。
二千年のミレニアムの年に、中山千夏さんが言い出して、歴史をわかり易く教える学校を作ることになった。『学校ごっこ』と名づけたのは永さんで、常勤講師は校長の中山千夏、旗手の永六輔、そして小室等と私の四人。五年間と限定し、臨時講師として、小沢昭一、灰谷健次郎、井上ひさし、筑紫哲也(いずれも故人)といった方々が参加してくれた。延べにして約二千人以上の受講者が集まり、終了後も私のクラスだけは現在も続いている。会場は現在は取り壊されてしまった代々木の日本青年館だった。日本人の歴史認識を正しいものにしたいという市民運動的な試みでもあった。月一回の永さんの教室は、いつも超満員だったことは忘れられない。
遊び心を忘れずに楽しくやるのが、私たちのモットーでもあった。しかし、目標とするものは反権力、反体制、反権威だった。それは30年間発行を続けた『話の特集』の理念とも一致していた。
永さんと私の最後の共著として刊行を予定していた『永六輔の伝言――僕が愛した「芸と反骨」』(集英社新書)は、私の編著として8月17日に発売される。「無名人語録」では取りあげることのなかった有名人、著名人を初めて永さんが語っている。したがって物故した人がほとんどだが、永さんが如何に芸及び芸人たちを愛したかの証にもなった。是非、書店で手に取って欲しい。
永六輔は昭和ヒトケタの星でもあった。やがて誰もいなくなる。二度と戦争を許してはならないと誓い合った仲間たちが、ポツリポツリと去って行く。今の日本の現実を見れば、永さんの死がどれほど重いものであるかをわかっていただけると思う。
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