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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年8月12日 / 新聞掲載日:2016年8月12日(第3152号)

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「哲学史の常識」を覆す ギリシア哲学を見直す契機に


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放送大学教材として執筆された本書だが、著者の主たる研究対象であるプラトンなどのテクストを丹念に読み、論点を子細に検討していく、その手捌きはほとんど研究書である。しかし、そこから「哲学史の常識」を覆す、驚くべき事実が浮かび上がる。

プラトンのイデアは、「感覚的世界とは別の世界に存在する超越的」存在とするのが「哲学史の常識」だ(16頁)。ところが、「超越的イデア論」というこの常識は、アリストテレス『形而上学』におけるイデア論の説明を鵜呑みにした結果である。イデア論考案の経緯が説明される『パイドーン』において、イデアは探求上の「仮説」として導入される(63頁)。イデアは仮説であり、プラトンのイデア論は「仮説的イデア論」(64頁)だというのが著者の主張だ。イデアは「思考の枠組」「世界観」(92頁)にすぎない。

ところが、「イデアの存在」という仮説は確証されない。「プラトンは善のイデアに到達できなかった」(114頁)と著者は言う。その結果、『テアイテートス』のプラトンは、従来、そもそも「エピステーメー」(知)とは無関係とみなされていた、感覚や「ドクサ」(臆見)(59頁)にまでさかのぼってエピステーメーの根本的再検討をおこない(157頁)、その結果、エピステーメーは、「ロゴス」(根拠、説明など)を伴った真なドクサ(196頁)とされる。

ロゴスはさらに、「他との差異」とされるが、それを体系化する方法が、『ソフィステース』における「分割と統括」(206~7頁)だった。分割法とは、たとえば、「技術」の目的を「製作」と「獲得」に分け、「獲得」手段を「交換」と「征服」に分け、さらに、「征服」を「闘争」と「狩猟」に分ける…、など、二分割を繰り返すことによって「釣魚術」という概念(215頁)を定義する方法だ。ところが、その次に書かれた『ポリーティコス』では、「分割法はもはや決定的な探求法とは言えない」(229頁)ものとされる。

著作を成立順に追う本書の論述によって、プラトンの思想遍歴を読者は辿り直し、対話編は、答えがわかって書きだされたものではなく、プラトン自身にも帰着点がわからない探求の過程そのものであったことが実感される。

アリストテレスについても同様に、「“あるもの”は多義的である」というかれの根本テーゼに始まり(293頁)、「ウーシア」(327頁)、本質とその定義(342頁)など、『形而上学』の骨格が検討されていく。とはいえ、『分析論後書』における論証理論(368)について、「仮説」という発想がまったくなく、「遂行不可能な理念的・理想的な論証の理論」(388頁)と言われ、あるいは、アリストテレス「自身の哲学理論自体は現代ではもはや通用しないものが少なくない」(395頁)とされるなど、ここでも、確立した理論体系ではなく、探求過程が示される。

著者が書くように、「倦まず弛まず」続けられる「知的な努力」が「知恵の愛求としての哲学的探求」(116頁)である。そうとすれば、本書に描かれたプラトンやアリストテレスの格闘過程そのものが哲学だ。本書によって読者はプラトンやアリストテレスとともに哲学することができる。

ソクラテスの求めたものが、本質的定義という、きわめて抽象度の高いものであったのに対して、当時のギリシアでは抽象的な思考が発達せず、現在の抽象的概念はすべて「神」として擬人化されるほどであった(53頁)、とか、「関係」という概念をもたなかったプラトンは、関係を性質から区別することができなかった(145頁)、など、日本語で読んでいたのでは窺い知れない、古代ギリシアと現代とのギャップについての指摘にも虚を突かれる。

長きにわたって作られたプラトンなどについての神話を一枚ずつ剥がしていくような本書が切り開いた地平から、ギリシア哲学をもう一度、見直したい気持ちになる。
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