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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年8月12日 / 新聞掲載日:2016年8月12日(第3152号)

鏡のなかのボードレー


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二つの性を往還できるこ の時代にふさわしい視点 芳川 泰久
「あとがき」に「女性が初めて日本語に訳すボードレール詩篇ですね、本にしましょう」と読んで、なんとも言えぬ気持に襲われた。遅れていることを突き付けられ、その意味でも、本書の出版には意義があるのだが、じつはこの言葉ほど本書に似合わないものはない。本書の意義は、クッツェー等を訳してきたくぼたのぞみが、しかも「ジャンヌ・デュヴァル詩篇」を読む点にあるからだ。

著者の翻訳じたいにまったく触れずに済ますことはできない。原詩と定評のある既訳と本書を比べながら味わったが、著者の訳は原詩のイメージが湧き立つこなれたものになっている。詩篇「されど満たされぬまま」への導入部にもなっている、ケープタウンのワイン・コンスタンシアについてのエッセイ風の冒頭はじつに見事である。もっとも、その詩の最終連など、原文に記された目的という意味を残した方がよいといった細かな注文はなくはない。しかし、〈l’amour se pavane〉といった原詩のニュアンスは圧倒的にくぼた訳に発揮されていて、まさに翻訳という経験が選ばせた訳語であろう。あらためて、私は翻訳という作業が持つ知の修 練に思いを馳せた。翻訳とは、異質なもの(言語)のあいだに立って、その二つのあいだを絶えず往還する作業であり、本書は、そうした作業で修練を積んだ者の視線を通して、ボードレールの「ジャンヌ・デュヴァル詩篇」を読み変える試みである。そしてそれを読むわれわれは、自身の立ち位置を再確認するか、人によっては、立ち位置の変更を迫られるのだ。

なかでも、読んできたことが累加的に一つの焦点を結ぶ九章「J・M・クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」は圧巻である。それまで読んできたことに、すとんとつながるし、ボードレールとクッツェーの往還に意味があることがじつによく分かる。そしてそのことが、本書の読書を幸福な体験にしてくれる。決して二つのことが別々に書かれているのではなく、いま、著者のような立ち位置から、ボードレールが読み変えられるときなのだと痛感した。遅いくらいだとも実感した。

著者の学生時代がうかがえるのが、安東次男に対する愛情に充ちたページである。安東が自身の翻訳体験に触れての、「一固有言語に生を享けながら、あるとき未知の一言語に出会い、爾来多少ともそれに血のつながりを感じるようになった」という発言と、安東晩年の「ほんやく紹介の仕事をしたが、いずれもわが詩集の養いとなったとはいいがたい」という発言の落差を差し出すことによって、著者は「ここが解せない」と言いながらも、血肉となった外部(外国語・外国文化)をもさらに外部としてゆく詩人の姿に注目する。そのとき、詩人は最初の外部だった場所とは違うところに出ていて、そうした往還こそが本書を貫くモチーフのようなものに通底している。

それを著者は、タイトルにもある「鏡」という語で示そうとしたのか。本書という「鏡」には、ジャンヌ・デュヴァルの新たな像ばかりか、彼女を見つめる詩人の新たな像と視線が鮮やかに映し出されている。巻末にはアンジェラ・カーターの「ブラック・ヴィーナス」が付されていて、本書に倍音のような響きを添えていて、その本づくりの工夫がうれしい。性を変えなくても(変えたとしても)、二つの性を往還できるこの時代にふさわしい視点を、ようやくこの「鏡」が差し出してくれた。
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