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読写 一枚の写真から 第43回
更新日:2016年8月19日 / 新聞掲載日:2016年8月19日(第3153号)

豪雨地上を襲い河川大氾濫す

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家屋の倒潰流失するもの数知れず市内を流るる犀川や浅野川の橋梁の破壊せられたもの十一に及び惨鼻を極む。ここに示す写真は即ち八月三日の金沢市の大洪水で将に流失せんとする犀川大橋で右下の写真は流失十分前の同橋である。(「写真通信」大正十一年九月号)

今年の夏も「ゲリラ豪雨」が頻発している。非常事態だが、最近の日本人は「異常」が「平常」になってしまって驚かない。

この写真は、大正十一(一九二二)八月三日に金沢市を襲った豪雨で、市内の犀川大橋が流失した現場だ。右下には、その十分前の写真も掲載されている。

この豪雨は雷をともなって、記事によれば「恰(あたか)も天を覆したる如く」という凄まじいものだった。四時間で一〇六ミリという、金沢測候所開設以来の降水量で、大橋詰の犀川の水位は十五尺(約四・五メートル)に及び(『石川の土木建築史』石川県土木部)、大橋は出来て間もない鉄筋コンクリートなのに、見てのとおり陥没している。

『写真通信』大正十一年九月号に掲載された犀川洪水の二枚を見て驚くのは、「見物人」が多いことだ。十分前の写真には、水面が橋底についている危険な状況なのに、橋の上に鈴なりの人垣ができている。現代なら、とうに「大雨洪水注意報」が発令されて、これほど水際まで近づくことはできない。

この日、豪雨をついて舞鶴から七尾に向かっていた海軍飛行艇が墜落して二名が即死、五名が重軽傷を負った。

この年は記録破りの猛暑が続いて、冷凍施設などない時代だから魚の値が高騰した。それだけではなく、八月二十六日には大正六年以来で最も大型の台風が関東を襲来、さらにカムチャツカ沖では台風の影響で軍艦「新高」が沈没した。

年初までさかのぼれば、一月二十四日の豪雪で起きた雪崩で北陸線親不知のトンネル内の列車に乗っていた八十八名が全員死亡する惨事があった。二月十五日には、福島県平町(現いわき市)では河川の氾濫、山崩れなど一村全滅など百二十名余りが行方不明になる大災害が起きている。

豪雪・豪雨・地震が次々に日本列島を蹂躙していたが、それは、間もなく襲う大震災の予兆だったのだろうか。

前年十二月八日に茨城県でМ七・〇「竜ヶ崎地震」、この年四月二十六日にМ六・八「浦賀水道地震」で死者一名。このとき、建設中だった東京の丸の内ビルディング(丸ビル)では、耐震建築でありながら外壁に亀裂が生じてしまった。

さらに同年十二月八日にはМ六・九と六・五の「島原地震」が立て続けに起こって島原・天草・熊本・長崎で二十六人が亡くなった。

「浦賀水道地震」の震源地について、東大地震学教室の大森房吉博士が「浦賀水道付近」としたのに対して、中央気象台は「千葉と鋸山の間」と主張して対立していた。

対立はそれだけではなかった。大森教授とそのもとにいた今村明恒助教授が、地震予知をめぐって確執を深めていた。明治三十七(一九〇五)年に「五十年以内に東京に大地震が来る」と雑誌に寄稿した今村助教授に対して、大森教授はこれを強く批判した。

だが、大正十二年九月一日、М七・九の「関東大震災」で東京と横浜は壊滅、死者・不明は十万五千人を超えた。大森は海外出張中だったが、急遽帰国の途につくが、オーストラリアで脳卒中となって、間もなく亡くなった。一方の今村博士は「地震予知の神様」と称えられることになる。

一世紀ほど前の異常気象から大震災にいたる超大な自然災害の記憶が、ここに取り上げた写真の背後にある。
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