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更新日:2016年8月12日 / 新聞掲載日:2016年8月12日(第3152号)

再考・小川紳介と小川プロ作品 小川プロダクション全作品DVD化を機に 瀬々敬久・青山真治・土田環鼎談

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6月から発売が始まった小川プロ作品(予定作品含む)
ドキュメンタリー映画の先駆者・小川紳介率いる小川プロダクション製作の全二〇作品の初DVD化が、この六月からはじまった(発売元=DIG)。まさに日本映画史に残る「奇跡」ともいうべき作品群であり、これまで長く、DVD化が求められていた。七月には小川の代表作ともいえる「三里塚シリーズ」も、一挙発売された(全八枚組)。一九六〇年代から活動をはじめ、様々な運動の現場に自ら足を踏み込み、対象と身近に接しながら作品を作りつづけた小川紳介。その小川プロの全作品が一挙に見られるようになったことは、今後の研究に向けても、大いなる一歩となる。発売を機に、映画監督の瀬々敬久・青山真治の両氏と、映画研究者の土田環氏に鼎談をしてもらった。二〇作品のラインナップは七面に掲載する。 (編集部)

小川天皇と田村皇后

土田
最初に瀬々さんに、小川紳介さんとの出会いについておうかがいします。瀬々さんは、小川さんが『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(一九八六年)を撮っている時、そのドラマパートの撮影現場に立ち会われていますよね。どういう経緯だったんですか。
瀬々
香取直孝さんが監督された『無辜なる海』(一九八三年)という映画がありますよね。それを京大の西部講堂で自主上映する時、その映画のスタッフの白木芳弘さんが、関西地区の上映の担当者だった。白木さんは、後に小川プロで助監督となります。僕ら京大映画部が上映会の手伝いをやって、そこで白木さんと出会って、友だち付き合いをするようになったわけです。数年後、『1000年刻みの日時計』の助監督をしていた白木さんから連絡をもらって、ドラマパートの撮影の手伝いが欲しいという話になって、制作助手みたいな形で、僕と佐藤真さん、それから白木さんの友人のテレビディレクター、この三人が応援スタッフとして入ることになったんです。あの頃は、荻窪に小川プロの事務所があって、みんなで集まって、車で山形にいった。一週間ぐらいは泊まり込みましたかね。宮下順子さんと土方巽さんが演じるパートで、その撮影が終わるまで手伝いました。
土田
佐藤さんにうかがったら、瀬々さんと一緒に、庭の掃除とかをしていたとおっしゃっていました。
瀬々
言ってみれば、「なんでも屋」みたいなもんですよ。美術が先発でロケセットを飾っていたら、それを手伝う。終われば、片付けをする。また田舎だから、現場のそばに「魚いらんかね」と鮮魚売りの販売車が来たりする。その声を止めにいったり(笑)、そういうことをやらされていました。
青山
その時はもう大学を卒業されていたんですか。
瀬々
ちょうど卒業して就職もせずプラプラしてた頃です。
土田
瀬々さんは小川プロの作品は、いつ頃ご覧になっていたんですか。
瀬々
京大の学生時代です。小川プロの映画は当時、16ミリの自主上映だったでしょ。一九八二年に、小川プロの久々の作品『ニッポン国古屋敷村』が上映されることになって、京都では京大の映画部と、シネマリベルテという自主上映団体が共同で上映したんです。当時の状況を少し説明しておくと、全国各地に自主上映団体があった。例えば名古屋には倉本徹さんがやっているナゴヤシネアストがあり、大阪は景山理さんのシネマ・ダールですね。そういう方たちの自主上映の運動が総称して、<シネマテークジャポネーズ>と呼ばれていました。ウォィチェフ・イエジー・ハスの『砂時計』とか、ベロッキオの『ポケットの中の握り拳』とか、普通の映画館ではかけられないような映画を、自分たちで資金を出して、自主上映する。京都では、シネマリベルテの南光さんという、普段は東映京都の撮影所で助監督をやっている人がいた。その後、南さん以外は単館系の映画館を作るようになるのですが。『ニッポン国古屋敷村』の上映をシネマリベルテと京大映画部が共催でやった時、同時に小川プロの全作品上映会を企画したんです。その時にほぼ全作品見ました。
青山
自分の場合、八四年に上京して、その年の夏だったか『ニッポン国古屋敷村』が六本木のシネ・ヴィヴァンでリヴァイバル上映されたのを見たのが最初だったのかな。
土田
僕は九六年に大学に入って、九七年に、安井豊さんや松本正道に手伝ってもらって、『圧殺の森』の自主上映を、早稲田の大隈小講堂でやったんです。久々の上映だったので、二回の上映で四〇〇人ぐらいは集まった。結構いろんな人が見に来ていましたね。
青山
『圧殺の森』はどこで見たのかな……。おそらく小川プロ作品の大部分は、小川プロ解散後に見たんだと思います。まだ自分が監督になる前だった。小川さんが亡くなられた九二年前後だったと思う。アテネ・フランセとユーロスペースの共同の上映会があって、確かそこでまとまった形で見たんじゃないか。
土田
小川プロの作品は、しばらく岩波映画製作所に権利があって、岩波映画が倒産して、一時期、日立がライブラリーとして引き継いだんですよね。メディア事業部みたいな部署があって、そこが管理していた。後に、アテネ・フランセ文化センターと映画美学校が、プリントを引き取ったはずです。
青山
九五年ぐらいですか。
土田
もう少し後だったと思います。瀬々さんは、実際に小川さんにお会いした時、どんな感じだったんですか。
瀬々
山形にいった時は、歓待してくれましたよ。小川さんって、すごく〓舌なんですよね。朝から晩までマシンガントークで、ずっと喋っている。そういう人だった。よく言われることだけど、外から小川プロを見ていると、集団で対等な立場で、ものを作っている印象がありますよね。ああいう作品を作っているし、平等で左翼的なイメージを持っていた。でも現場を訪れるとまったく違いましたね。小川天皇と田村(正毅)皇后が、ふたりで座敷にでんと座っているわけです(笑)。他の人たちには、発言権はほぼない。映画って、こうやって作られていくんだなって、ショックを受けた記憶があります。
青山
でも田村皇后は、ほとんどしゃべらないでしょ(笑)。
瀬々
座っているだけなんだけど、偉そうに見えた(笑)。

理想を追い求める

土田 バーバラ・ハマーという女性監督が、小川プロがなくなった後、大分時間が経って、『Devotion 小川紳介と生きた人々』というドキュメンタリーを撮っていますよね。関係者へのインタビューを中心にした映画です。小川プロというのは、小川天皇制の下に作品作りが行われ、いかにスタッフが酷使され、虐げられていたかという証言が多く、それが狙いに見えて嫌なのですが、ある側面は表わされていると思うんですね。自分たちは映画を作りたくて入ったら、とにかく巻き込まれて、飯を作らされたり、いろいろ酷い目にあった。肌の合わない人はまったく合わない世界であって、でも、そこから逃げられない人は、どんどん吸い込まれていく。そして、本当に厳然たるピラミッド構造の組織があった。
瀬々
言ってみれば、日本の家父長制度に近い。
青山
田村さんは、あくまでも自分は雇われカメラマンであるという立場を貫いていたと、おっしゃってたな。呼ばれれば参加し、撮影が一段落したら帰る。そんな付き合いをずっとつづけていたと。
土田
小川さんが山形に移って以降、田村さんは東京と山形をいったり来たりしながら、一方で普通の劇映画の撮影もやっていますよね。
青山
家庭もあるし、山形で暮らしながら撮影するだけでは生活は無理っていうことだったみたい。でも本気で人を動かそうと思ったら、小川さんのようにするしかないんだろうなとは思うんですよ。特に素人を集めて映画作りをしようとしたら、必要とあらば天皇的にも振る舞わなきゃ、人を引き付けることはできない。
土田
青山さんは、小川プロ作品に惹かれていたから、ご自身で監督をする際、「撮影=田村正毅/録音=菊池信之」という選択をされたんですか。
青山
おふたりのお仕事は好きでしたけれど、そういうことでもなかった。つまり、これは後から聞いた話ですが、菊池さんが小川プロで何をやっていたのかと言うと、特別なことをしていたわけではない、すべて小川紳介が考え、自分はマイクを持って、録音機材を動かしていただけであって、単なる助手だった、としか菊池さんも言いませんからね。ただ、菊池さんは上映活動もやっていたから、そういう意味では、多岐にわたって小川プロと関係していたと思います。逆に言えば、そういうところもあっていまも菊池さんとうまく意思の疎通ができてるのかもしれない。菊池さんの中にも俺の中にも、今の映画製作に対して共通して思う部分があって、こちらが先鋭化すればするほど自主製作に近くなるというか、きつい状況に追い込まれていくわけです。そこでこそやるべきことがある、というのが菊池さんの信念というか理想だろうし、その理想は小川さんのところで培われたものなんじゃないか。だから話が合うのかなとは思います。
土田
青山さんの撮影現場は、基本的に劇映画の作り方で撮られていますよね。ただ、田村さんと菊池さんがいることによって、いわゆる「劇映画」の現場とは違うものがあったんですか。
青山
どうだろう。結局のところ、おふたりの力を多大に借りていたので、案外小川プロ的なノウハウで撮っていたということになるのかもしれない。お金や機材がなくてもなんとかなる、時間がなくても、人がいなくてもなんとかなる、そんな世界(笑)。

上映と一貫した製作

土田 小川プロ的映画作りの特徴は、ひとつには集団製作ということですよね。たとえば田舎町にずっと泊まり込んで撮影をする。その一方で、自分たちの作った映画を自ら上映する。そこがリンクしていたわけですよね。最初に瀬々さんがおっしゃっていましたが、そうした上映まで含めた小川プロの映画作りを、全国でサポートする人たちがいた。
瀬々
そうですね。当時はまだ、アート系の単館の映画館がない時代で、小川プロの自主上映を支えていたのは、後にアート系の映画館を組織することになる人たちだった。さっき名前を挙げた、名古屋の倉本さんや、大阪の景山さん、京都には南さんがいた。彼らがいろんな場所を借りて、16ミリフィルムを上映していたわけです。フリースペース的な場所であったり、喫茶店の片隅で上映したり、そういう意味では、京都は上映場所にも恵まれていましたね。
青山
京都の場合、そこは大きいですよね。カフェ文化が今も根強くある。俺も京都に住んで、段々そのことが見えてきた。
瀬々
街場にも、いろんな輩がいて。特に京都はその傾向が強かったけれど、そうしたムーブメントが日本各地にあって、小川さんの映画作りとうまくリンクしていたと思います。小川プロの自主上映を助け、時には制作費も毟り取られたりする(笑)。小川さんのやり方というのは、各地にアート系の映画館がなく、自分たちの見たい映画を自主上映するという時代にマッチしていたと思いますね。いわば観客論と製作者論が重なり合っていた。そういう時代の中で、小川プロの映画があったんだと思う。それが小川プロ後期になると、各地にミニシアターができて、シネ・ヴィヴァンとかで作品が上映されるようになる。
『1000年刻みの日時計』がそうですね。ただ、あの映画もパワーがあるとは思うんだけれど、やっぱりそれ以前に作られた『ニッポン国古屋敷村』の方が好きだっていう気持ちは、若干あるんです。つまり小川プロ的な製作システムと上映する側のシステムが、うまくマッチしていた時代の映画であって、『1000年刻みの日時計』は、そうした時代以後の映画なんじゃないかということです。もう少し言うと、今みたいな単館系の映画館の時代に、もし小川さんが生きていて、映画作りをつづけていたら、果たしてどうなっていたのか。そこはもうひとつ別の問題として考えなきゃいけないと思いますね。僕らの映画作りにも関係して来る問題であって、今の状況の中で、小川プロ的な手法で勝負できるのかどうか。非常に難しい気がするんですよ。
青山
瀬々さんは『ヘヴンズ ストーリー』を、セルフプロデュース的に、インディーズの体制で作られましたよね。今は『菊とギロチン』を、同じような形で製作を進めている。そこは小川プロ的映画作りを受け継いでいるようにも思うんですよ。
土田
上映と一貫した製作とも言えなくもないですよね。
青山
ATG以前がどうだったのかまでは知りませんが、自主配給まで含めた自主製作的な映画作りの態度って、ドキュメンタリーとは言え、おそらく小川プロが先鞭をつけているわけですよね。その延長上に、瀬々さんの『ヘヴンズ ストーリー』や『菊とギロチン』を位置づけることもできる。そう言えば、つい最近、家で資料の整理をしていたら、二十年前の『菊とギロチン』の企画書が出て来たんですよ。まだ〈ピンク四天王〉と瀬々さんたちが呼ばれていた頃に貰ったんだ。あの時から、普通のプロデューサーがこの企画に乗るわけがないという気持ちもあって、自分たちだけで製作しようと思っていたんですか。
瀬々
そうですね。まだピンクしか撮ってない時代で、自分たちが作りたいものを、という意識はものすごくあった。それが二十年近く経ってやっと行動に起こせたということかなと。
土本典昭との資質の差

土田 小川プロの第一作はDVDブックという形で四年前、『小川プロダクション『三里塚の夏』を観る』(太田出版)が出ていますよね。この『三里塚の夏』まで、大津幸四郎さんがカメラをやっている。そこから小川プロと名乗り出したことが嫌で、大津さんや川名満雄さんら、東京で生活がある人たちは、小川さんから離れていく。撮影が田村正毅さんにスライドしていく時代です。田村さんの画を見ていても、『第二砦の人々』や『岩山に鉄塔が出来た』もそうですが、ニュース映画的に撮っているものもありますよね。田村さんご自身は、「俺は雇われだから」と言って、小川さんの映画について、あまり公に語ることはありませんが。
青山
個人的には無数に語っていますよ。ご機嫌よければ質問すれば話してくれるし、聞かなくても向こうから喋ってくれることもある。ほとんどの時間、小川プロの話をしていた時もあったな。
土田
たとえば青山さん自身の映画の中で、小川プロの映画を引き合いに出して、田村さんに注文を付けたりしたことはあるんですか。
青山
撮影中はほぼありません。でも、山の中でロケしていると、歩き方から風の読み方から、田村さんという人は、独特の方法を持っているんですよね。遠くを見ていて「まわせ」とか急におっしゃってカメラをまわしたら、数秒後に風が吹く。そういう瞬間の捉え方は、牧野村にいた経験から得たものなんだろうな、と思っていました。
土田
瀬々さんは、小川さんのスタイル、対象である人間との関係の取り方とか、現場では、ある程度垣間見ることはできたんですか。
瀬々
僕らが参加したのは劇パートだったから、ドキュメンタリーにおける人間との間の取り方とは違ったと思います。ただ、生活・日常のリアリティというか、土着のリアリティをすごく大事にする人ではあった。それはよく覚えています。たとえば、こんなことがあったんです。田んぼがあって、ドラマの設定では、まだ耕運機とかがない時代だった。でも当然、ロケ地の田んぼは、田植機で植えられていた。稲が刈られた後なんですが、手植えの田んぼとは違う。それを見た小川さんが、「手植えふうに、全部間引いてくれ」と(笑)。結構広いんだけど、残っている稲株を全部間引いていく。しんどい作業でしたね。それから家の縁側があって、小川さんが来て、「縁側が汚い」と言うんだ。ドラマの中における時代は、鶯のフンだか米糠だかを使って床を磨くという話を聞いてきて、それで磨けと。小川天皇がそう言うから、僕ら一所懸命床を磨いてましたよ。
青山
その話、他の人にも聞いたことがある。
瀬々
生活と暮らしのディティールには、ものすごくうるさい人だった。『ニッポン国古屋敷村』の時に、模型が出て来ますよね。それを見せてくれたんですが、「この模型を作るのに、一年ぐらいかかった」とか言っていました。正確な模型で、あの拘り方は、さすがだなと思った。人の暮らしに目端を利かせようという態度は、あの頃からあった。それは『三里塚』を撮っている時も、そうだったと思います。僕が小川さんの作品で好きなのは、さっきも挙げたけど、『辺田部落』なんです。カメラが凄いでしょ。同じように好きなのが、土本典昭さんの『不知火海』のカメラです。両方すごい映画なんだけど、『不知火海』では遠くから望遠で、かっちりした画を撮る。『辺田部落』の場合は、対象にがっと寄り添うように撮っていく。あのふたつの撮り方の差というのは、小川さんと土本さんの、監督としての資質の差から来ることだと思いますね。演出的な方法の差、キャラクターの差が出ていて、どちらもカメラと演出がすごくマッチしている。そのことが作品の中で初めて実現した。二作とも学生時代に見ましたが、あの時期に、監督として到達点にいっている気がしましたね。
土田
『辺田部落』が七三年で『不知火海』が七五年、ちょうど同じぐらいの時期に作られているんですよね。小川プロが土本さんの『パルチザン前史』を製作するのが、その少し前であって、小川さんも土本さんも、次第に人々の生活の中に入っていくようになる。ただ、ふたりのあいだにも違いがあって、小川さんはムラに住み込んじゃうんですが、土本さんはそうはせず、現地に通いながら撮影をつづける。
作家の誕生の痕跡

青山 最初の三本を見ていて、ふと思ったことがあるんですよ。まず『青年の海』を見ていると、やろうとしてできなかった、とてつもない失敗をしでかしてしまった、そんな感覚を小川さん自身抱いたんじゃないかということです。通信教育という主題を扱おうとして、撮影するものがない、映画にならないんだということ。それは撮影中よくわかっていなかったと思うんですが、撮り終わってからそれに気づいたんじゃないか。「自分たちの前と後ろには、六万人の通信教育生がいる」といった台詞がありますが、その数字だけが頭に残って、では実際には六万人なんて撮れるわけがない、四人個々の顔を撮るしかない。その顔をペンキで汚したり、とかいろいろ試みはするんだけれど、やることがないからやっているとしか見えない。確かに、白いでっかいパネルがふわりと浮かび上がって来る冒頭なんかイメージ的に面白いんですが、結局やることがなかったからこうなっちゃったのかなっていうふうにしか思えない。そこに挫折感みたいなものを感じてしまうんです。
で、つづく『現認報告書』ではほぼ真逆の作り方をしているんですね。山崎博昭さんの死を扱っているわけですが、山崎さんが亡くなった時の状況を人形や模型、写真などを使って検証していく。ここでその後の方法論が確立したという説はよく知られていますね。さらに言えば『圧殺の森』はこの二作と同時にまたがって撮影されたんじゃないかという気がします。『青年の海』の頃に撮影している映像もあるんじゃないか。いつ撮影が開始されたか正確にはわかりませんが、『圧殺の森』の最後に年譜が出ますよね。あれを見ているとどうも他の二作とも並行して撮影している感じがある。
そう考えてもう一度『圧殺の森』を見ると、『青年の海』と同時期に撮った画を組み込みつつ、編集の最後の最後に小川さんは自らの方法をもうひとつ見つけたな、とそんな想像ができるんですね。ここで明らかに作風が変わっている。さっきもちょっと言ったけど、三本の作品を作ることを通してその後へ続く小川紳介のスタイルが作られた。この三本があって、小川紳介というドキュメンタリー作家が誕生したのがよくわかる。そんなふうに見えることって、劇映画の作家にはあまりないんじゃないか。自主製作のドキュメンタリー作家だからこそ、その誕生さえ映像の中に痕跡として残ってしまったのか。
土田
そうであるならば、こうやってDVDで揃いで見られるのは、いいことかもしれませんね。
青山
ただ、それは今になって、事後的に言えることだから。
土田
今の話で、『青年の海』のあの白い看板は、青山さんのおっしゃる通り、映画としての「作り」が必要だったからということのようです。通信教育の学生だった出演者の証言が残っていて、小川さんに協力しようと思っていたらいつの間にか「被写体」になってしまった。ひと通り撮り終わったあとに何かが足りないということで。その後、二本撮っていく中で、スタイルが決まっていったんだと、僕も思います。それと人間の「顔」については、小川さん独特の拘りがあったと思うんですね。「被写体を愛し抜いたから、小川紳介はああいう映像を撮れた」とよく言われますが、ちょっと違うんじゃないかと思っています。『牧野村』シリーズのおばあさんやおじいさんにしても、『圧殺の森』の青年たちにしても、対象に愛があって撮っているというよりは、むしろすごい距離がある。小川紳介の撮る「顔」を見ていて、そんな感じをずっと持ちつづけているんです。常に対象に近づいて、住み込みまでして映画作りをするから、あたかも対象を本当に理解していたかのように言われるけれど、愛という感じはしない。映画は出来ちゃえばいいというか、画が足りないから顔を撮ったとまで言ってしまうと、正しいかどうかわかりません。でも、対象への愛というよりは突き放した感じがします。そういう意味では、土本さんの方が、もうちょっと丁寧に、人との関係について考えていたんじゃないかと思いますね。
瀬々
土本さんの映画を見ていると、ひとりひとりの人間の喜怒哀楽をちゃんと撮っているように見える。小川さんは、個人個人の喜怒哀楽というよりも、もう少し抽象化されたものを撮っている感じがするんですよ。住民全体の大きな怒りとか歴史とか、そういうものが、その人たちの顔に抽象化されて表われている。そこを撮っているんじゃないか。「群」と言ったらおかしいけれども、何かもっと大きなものを感じるんです。
青山
今の話で思い出したんですが、こんなことがあったんですよ。熊野で撮影している時、川べりを大きな鳥が飛んでいった。その一瞬を俺は撮りたかったんですが、田村さんが「ああいうものは撮れないんです」とボソッとおっしゃった。その言葉が今でも引っかかっていて。田村さんは何を言おうとしたのか。定冠詞「The」が付くような出来事が目の前で起こったとしても、それは撮れないということなのか。あるいは、それを待っていることなんてできないということなのか。まだその言葉の意味を咀嚼しきれていない。待ってもいないのに出来事を撮れるわけがないということなのかもしれない。ただ、これは瀬々さんの話に重なるけど、小川プロの映画って、たとえば人の顔にしても、わっと笑ったりとか、怒ったり泣いたりしているところじゃなくて、なんとも言えないところしか映っていませんよね。決して極端に感情が露わになっているのではない。どちらかと言えば、待機の時間だけが残っていて、それだけを連鎖させている感じがある。待っていたけれど、ついに撮れなかったということかもしれない。しかしそれをメッセージだと言っても仕方ないし、そうじゃないだろうとは思います。とにかく決定的なことは一切逃すものである。そんなことを、今回見直していて思いました。実は決定的なことは、映像として何一つ映っていない。
土田
特に初期はそうかもしれませんね。表情豊かというよりは、生身の人間ではないような感じで映っている。後期の作品にしても、そんな感じに見えますよね。
瀬々
田村さんと話していて面白いのは、あの人もどこかで、「映っていればいい」という感覚を持ってるんですよ。
青山
「映ってれば、めっけもんだよ」が口癖だから(笑)。
瀬々
そうそう。アナーキストだな思うんだけど、「映っていればいい」と言うんだ。すごいことだと思いますよ。そういう態度は、小川さんから学んだものかもしれないし、最初から持っていたものだとしたら、小川さんの作品とはマッチしていた。人間のエモーション、感情的な高まりを、意地汚く撮りにいく感じがない。映画をよくわかっている人だなと、いつも思いますね。
青山
あるいは、映画を全然わかっていないという話にもなる(笑)。
瀬々
でも、そこが面白いと思うんですね。その面白さが、小川さんの映画の面白さでもある。
青山
そうだと思いますね。

移行期としての『辺田部落』

土田 時間感覚についても、小川さんの映画は、初期と後半では、随分変わって来ますよね。はじめの三作は、運動と寄り添っていますから、わりと時系列で見せていく。それが『辺田部落』になると、時間を飛び越えて進行するようになり、『1000年刻みの日時計』に至っては、もはや時間感覚が混在しています。
青山
『辺田部落』が『1000年刻みの日時計』への移行期にあるということが、まさに時間の扱い方からよくわかる。
土田
土本さんの場合、人が喋っている時にも、それがいつの言葉か、よくわかる。小川さんの作品は、過去も未来も全部集約させたり、ある時はワープさせたりする。そこが不思議なんですよね。もうひとつ。小川さんの映画を通して見ていると、小川さん自身が撤退していく歴史とも重なって見えて来るんです。学生運動をやり、三里塚にいき、農村に向かい、ついには山形に住み込みながら活動をつづける。これは日本の運動史から見たら、「負けていく」ラインにも読み替えられるんじゃないか。瀬々さんが山形にいかれた時は、小川さんから、そういう「敗北感」みたいなものは感じられませんでしたか。
瀬々
それはなかったな。激動の闘争があって、僕らの学生の頃は、まだ三里塚の運動はあったけれど、次第に運動が衰退していく過程にあった。そういう時代だったし、特に小川さんだけを見て「負けている」という感じはしなかったと思います。人間の暮らしを見ることによって日本の戦後史を追究しようという、あの人の思いはよくわかったし、それを「敗北感」とは思わなかった。そういう意味では、逆に言うと、僕らの方に「敗北感」があったということになる。小川さん自身は決して負けていないし、退路を断っていたわけでもなかった。山形にいって、新しいことをやろうとしていた。ひとつ思い出したのは、山形に移り住んだ後、他のスタッフはずっと山形にいるんだけれど、小川さんはちょくちょく東京にいっていたんですよ。

トリックスター

瀬々 それで「『ミツバチのささやき』を見てきたんだ。あれは素晴らしかった」とか、みんなの前で言うわけです。スタッフは映画なんてまったく見られなくてかわいそうなのに、滔々と映画の話をする(笑)。有名な林檎のシーンの直後、兵士が死ぬシーンがありますよね。あそこは、妙に時間がねじ曲がっている。小川さんは、映画の中に流れる、そうした何とも言えない時間がすごく好きだったんだと思いますね。それは幼少の頃の記憶に結びつくものなのかもしれない。小川さんはずっと山の中に暮らしていて、元々は山の人だった。山の人が持つ時間感覚って、それこそ待つ時間だと思うんですね。海のように刻々と変化するものではなくて、せいぜい一年単位で変化する時間を相手にしている。そういう場所に住む人々の時間感覚が、小川さんには最初から資質としてあって、歳をとって、もう一回そこに戻ろうとした。それで映画を通して、「民俗学的」と言っていいような追究の仕方をしながら、ムラの時間を大切にしようとした。
青山
その意味では、トリックスター的なところもあったのかな。山形にいく小川紳介のイメージって、どこか『地獄の黙示録』のカーツ大佐みたいな感じを持っていたんですよ。隠遁というか。でも瀬々さんのおっしゃるように、東京で映画を見ていたり、妙に道化的な身の軽さがある。結果として、それで情報も伝播するし、むしろそういうことを率先して自らに課していたのかもしれない。
瀬々
山形に住み付きながら、放浪芸人的な素質、瞽女的な雰囲気を持っていた。
土田
瀬々さんの美しい記憶を壊すわけではないんですが、小川紳介という人は、たくさんの「嘘」をつく人でもあったんですね。岐阜に疎開していたことは事実ですが、東京生まれで大学も国学院の政経学部。自分自身に不思議なフィクションを作り上げていたと思います。
青山 今回DVDを見直していて、もうひとつ思ったことがあるんですよ。特に初期三本は、音声がはっきりしないところも含めて、字幕を付けなきゃいけないんじゃないか。耳で聞いていただけでは、当時の話し言葉に現代人はついていけない。六八年と現在では言葉の出方がまったく変わっているから、個々の中で変換できないと思う。はっきり理解させるためには、字幕で現前させるくらいしないと。
土田
話は変わりますが、青山さんと小川さんの映画を比べてみて、もちろん劇映画とドキュメンタリーの違いということはあるにせよ、日本独特の共同体というものが、大きな役割を果たしていると思うんですね。ただ、瀬々さんは「民俗学的」という言葉を使われましたけれど、一方で共同体に対する関心のあり方は、かなり違いますよね。
青山
それは明らかに、ドキュメンタリーとドラマの違いから来ることだと思うんですよ。たとえば家族を主にしてドキュメンタリーを撮ろうとすると滅茶苦茶難しい。カメラの前で何が真実かなんてわかるわけないから、本当の家族の姿なんて絶対に撮れない。逆にドラマの本質はそこにあるわけです。抽象化された代替品としてのファミリープロットがドラマの基本である。自分はそういうドラマの基本をほじくり返しているだけだし、小川紳介のような民俗学的な関心とは切れています。もちろん土地に対する感受性という意味では、瀬々さんも俺も強いと思う。そこが小川紳介から来ているなという気持ちもないではない。初期三部作を見てもそれは感じました。
そこから『三里塚』『牧野物語』へと小川さんが流れていく、その根底にあるものは、自分の中でも通じている気はする。瀬々さんの最新作『64』を見ても、そのことは感じました。言い方は変だけど、あれは北関東でしかあり得ない出来事だっていう空気感を大事になさっているんじゃないか。
瀬々
小川さんの映画を見ていると、『三里塚』の頃までは、まだ<都市と地方>という問題設定があったと思うんですよ。それが『牧野物語』になると、なくなっている。どんどんムラへの比重が重くなっていって、牧野村自体がひとつの世界であり、都市とはまったくかけ離れた存在として描かれるようになる。
青山
いわば「小宇宙」ですよね。
瀬々
でも僕らの生きる時代では、どうしても<都市と地方>という二項対立的な中で、ものを考えざるを得ない。それは現代が、そういう対立構造の中にあるからです。そうなると、アプローチの仕方が違ってくるのは仕方がない。小川紳介はトリックスターとしてムラと都会をいき来していた。そういう経験をする中で、「もうムラだけでいい」と思ったのかもしれないし、そこには<都会と共同体>という発想はない。ここが僕らと明らかに違うところだと思いますね。
土田
瀬々さんの描く北関東というのは、ある種特殊な場所であって、都市でもなく地方でもない、そんな場所ですよね。
瀬々
まさに<郊外>ということです。東京からそれほど離れてはいないけれど、ちょっとした田舎でもある。そこにある緊張感の中で、我々は生きている。
青山
人々に一番忘れ去られている場所が、実はそこなんだという視点は、瀬々さんの映画にはずっとありますよね。その上で『雷魚』や『ヘヴンズ ストーリー』『64』がある。そういう意味では、牧野村に移り住んだ小川紳介は、そこでカーツ大佐のように小宇宙を開くんだけれど、瀬々さんはそうはしない。あの北関東のエリアが忘れられつづける限り、あそこにいって、トピックを拾って来ようとしている。『64』を見ながら、つくづくそう思いました。
瀬々
小川さんの中には、日本の近代化の歴史をどう捉えるかっていう視点があったと、僕は思うんですね。『ニッポン国古屋敷村』や『牧野物語』にしても、そういう論点がある。『クリーン・センター訪問記』っていうPR映画があって、あれを見ていても、そのことは感じる。僕はこの映画、結構好きなんですよ。

音と映像の完全な分離

土田 ここで少し現代の映画製作のあり方に関連させて話したいんですが、小川プロ的な集団生活までいくと極端な例になりますが、岩波映画の若い人たちで「青の会」という映画グループを結成し、そこに土本さんや小川さんが参加します。撮影所システムが崩壊していく中、そこで学ぶことができなくなってしまった状況に対して、映画好きだった人が集まり、実際に映画を作りながら議論し、切磋琢磨していく。そういう雰囲気が、現在は弱くなって来ている感じはしませんか。
青山
俺らも〈立教ヌーベルバーグ〉と呼ばれたりしましたが、それも結局同じような世代の人間が集まって議論していたということなんだと思う。小川さんや土本さんの時と同じだし、今の若い人たちもやっているんじゃないの。二十代、三十代の時は、そうやっていかないと駄目でしょう。
瀬々
僕も、そう思う。ただ、グループとして見えにくくなっているだけで、個々には繋がっていると思いますね。
青山
みんな仲はいいよね。俺なんかいまどき疎外感を持つことが多い。気付いたら学生にオッサン扱いされてますから(笑)。
土田
最後に、音声についてお聞きします。小川作品では、圧倒的に人の喋っている顔を映した映像が多いわけですが、『岩山に鉄塔が出来た』ぐらいから、音と画がシンクロになります。そのことについては、どうご覧になっていますか。
青山
小川プロの人たちほど、音と映像が完全に分離した状態を、最初から最後まで初志貫徹、終始一貫していた映画製作集団はいないんじゃないか。初期三作を見て、改めてそう思ったな。彼らと比べられるとしたら、唯一ゴダールだよね。ゴダールと同じぐらい、音と画が別ものとして扱われている。それはシンクロになっても、まったく変わらない気がする。『岩山に鉄塔が出来た』の中で、ディスカッションするシーンがありますよね、若者が号泣する。あのシーンでも画と声とが全然離れているイメージがある。ましてや『牧野物語』になると、画と音がばらばらなものとして記憶されている。そのことは田村さんと、散々話したこともあります。「何か声が遅れるんです」とか「早いんです」という話を。
土田
それは技術的なことですか。
青山
それもあるんだけど、どちらかと言うと、ちょうどいい塩梅みたいなものを作るために、音をずらしたりする。そんなことは映画では当たり前なんだって、田村さんから教わりました。画と音のずれが生み出す何か、そこが大事だって、そのことは菊池さんもおっしゃっていたし、シンクロになって小川さんはなおさらそれを戦略化したのかもしれない。
土田
最初から最後まで、音と画がずれているのもありますよね。
青山
初期の頃はね。ただシンクロ以後は、ズレを意識しなくなった分、ズラし方が巧妙になっていったとも言える。
瀬々
音について言っておくと、小川さんの映画は「多声」、多くの声が飛び交っている感じがするんですね。それは初期から、そうです。『三里塚』の時も、いろんな声が出て来て、誰だか特定できない匿名の声も聞こえて来る。音に関しては、そういう特色がある。『牧野物語』でも、わりとそんな感じはしますね。いろんな声がある。おばあさんやおじいさんの声であったり、なおかつ小川さんがくどいほど質問する声もある。それも映画の中の声の一部となっている。単一化されていない声が響き合って、小宇宙的なひとつの空間を作っていく。乱暴な作り方をしているんだけれど、実はそのことによって、豊かな作品世界を作り上げているんだと思うんですね。逆に土本さんの映画は、誰が喋っているかよくわかる。そこは丁寧におさえる。小川さんはある意味では雑に、多声でやろうとする。人間の喜怒哀楽をどう撮るかという話と一緒で、ここは資質の差から来ることだと思います。小川さんの中には、特定化された誰かの声でなくてもいいという意識がある。発言者が誰であろうと構わない。多くの声が映画作品を作り上げている。それが見るものを触発する。おそらく映画作家の勘から来ていることなんだろうと思います。一個人ということではなくて、もっと大きなものを小川さんは大切にしていた。それは一貫して持ちつづけた感覚だと思います。
青山
今の話で思い出したんだけど、声と画面に文字が介在することはあまりないんですよね。文字という作られた文化に関しては、むしろ排除しているように見える時がある。文字が生かされている、生きているという感じがしないんです。
土田
土本さんの場合は、水俣病の訴訟を扱っていたりするので、『原発切抜帖』が典型ですが、裁判の過程とかを、順次テロップで見せる。小川さんは、そういうものが、後期にいくほどなくなっていくような印象がありますね。
青山
最初があったからだと思うんです。『青年の海』での、いわば「文学」が前面に出てしまったことと葛藤しつづけながら、ずっと映画作りをなさっていたのかもしれません。

◇「小川プロダクション全20作品DVD」 ▽青年の海 四人の通信教育生たち(一九六六年)▽圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録(一九六七年)▽現認報告書 羽田闘争の記録(一九六七年)▽三里塚シリーズDVD BOX―闘争から農村へ(「日本解放戦線 三里塚の夏」(一九六八年)「日本解放戦線 三里塚」(一九七〇年)「三里塚 第三次強制測量阻止闘争」(一九七〇年)「三里塚 第二砦の人々」(一九七一年)「三里塚 岩山に鉄塔が出来た」(一九七二年)「三里塚 辺田部落」(一九七三年)「三里塚 五月の空 里のかよい路」(一九七七年)「映画作りとむらへの道」(一九七三年、本DVD BOXのみに収録)▽パルチザン前史(一九六九年)▽どっこい!人間節 寿・自由労働者の街(一九七五年)(以上発売済)▽クリーン・センター訪問記(一九七五年)(九月発売)▽牧野村物語 養蚕篇(一九七七年)(同)▽牧野村物語 峠(一九七七年)(同)▽ニッポン国古屋敷村(一九八二年)(十月発売)▽1000年刻みの日時計 牧野村物語(一九八六年)(十一・十二月発売)▽京都鬼市場 千年シアター(一九八七年)(同)▽映画の都(一九九一年)(同)
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