乱世の政治論愚管抄を読む 書評|長崎 浩(平凡社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年8月19日 / 新聞掲載日:2016年8月19日(第3153号)

乱世の政治論愚管抄を読む 書評
アルチュセールやフーコーと響き合う面白さ

乱世の政治論愚管抄を読む
著 者:長崎 浩
出版社:平凡社
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私は本書の評者として適当でないかもしれない。『愚管抄』については高校の日本史で名前を聞いた記憶があるだけ。作者が慈円という平安末期―鎌倉初期の僧侶であることは、初耳でない気がするという程度。そんな私が書評を引き受けたのは、ひとえに面白く読めたからであり、私にとってその面白さは、本書がアルチュセールやフーコーといった「現代思想」と響き合うところにある。

長崎は『愚管抄』を歴史記述に表現された政治思想として読む。同書は従来、歴史記述にして歴史理論の書として読まれてきたらしい。しかし長崎は、慈円による「リアルタイムの政治論」と受け取る。後鳥羽上皇による倒幕の企てを諫めるために書かれたからである。神々の約諾に端を発し統治を決定づけてきた「君臣合体」の理念に反する、というのが諫言の理由である。武家の台頭により摂関政治という「合体」が終わりを告げたように見えても、「君」の側から「道理」を破壊してはならない。なにより、藤原摂関家の血を引く新しい将軍(頼経)が鎌倉に登場しようとしているではないか。つまり王家の神と藤原家の神のあいだで交わされた契約に歴史そのものが戻ろうとしているではないか。これが諫言を支える論理であるとすれば、諫言することはたしかに政治的行為であるものの、歴史の名による政治であるのだから『愚管抄』はやはり歴史理論の書であるようにも見える。「リアルタイムの政治」の上位に歴史の「道理」を置いているのだから。神々の約諾/「魚水合体」は、フーコー的に言えば歴史―政治的な「真理」にほかならない。長崎は「真理」があること、生産されたことに一つの政治を認めようとする。「冥界」(神々の世界)と「顕界」(人間の世界)を分け、かつ共存させる政治である。両世界を繋ぐのが歴史であり、そこを通して「真理」は政治に具体的かたちを与える。つまり歴史は根本的な政治に先立たれており、具体的な政治(統治形態)は歴史に支えられて実在する。政治と歴史が互いを規定―包摂しあうこの結構は、アルチュセールの根本問題と言ってもよく、結構の全体を「道理=真理」なるものが支えている。

実に不思議な「真理」だ。というのも、それを通して政治と歴史は実際には無関係になるのだから。長崎『愚管抄』論の「現代思想」的達成は、それを明らかにした点にある。長崎は慈円の説く「魚水合体」の「道理」が、「道理」を外れても「道理」であることに注目する。融通無碍と言えば聞こえはいいが、どんな現実とも共存可能であるという意味で出鱈目なのである。長崎にとり、この出鱈目こそ慈円において歴史が政治から自立して決定力を主張しうる根拠にほかならない。現実政治とは関係なくなることで「魚水合体」は「道理」の位置を占める。慈円はなぜこうした分離を遂行したのか。長崎によれば、それは慈円が敗者だったからである。没落する貴族階級に属し、その反動的立場から政治過程において渾身一滴の反撃(上皇への諫言)を試みようとしたからである。敗北しつつある者の反動性以外に、勝者が形成する現在の持続から過去を分離させることが可能だったろうか。現在とは勝者の立場から語られる時間である。敗北にもかかわらず振るわれる反撃の一太刀、敗者の無謀な「政治」が、現実政治によっては傷つかないものとして「歴史」を発見させるのだ。現実的無能と抱き合わせで定立される神的全能。つまり政治と歴史の質的な区分は一種の狂気に支えられている。出来事の事実性(天智天皇と藤原鎌足による蘇我入鹿の謀殺)が狂信に反転し、信の強度により政治と歴史は互いから離れるのである。

歴史的言説の成立はそれ自体が一つの対抗政治であり、記述される歴史は対抗歴史、一つの偽史にほかならない。これはフーコーが慈円と同じく反動貴族であったブーランヴィリエから取り出した原理である。そこでの「真理」は国Nationが征服人種raceによる被征服人種への戦争の継続であると規定した。日本でもヨーロッパでも、「真理=道理」は捏造されて知的武器として働くことにより、政治と歴史を分けた。おまけにこの「真理」はただの狂気ではなかった。神々の統治と人間による統治が相容れなくなった歴史的事実を現実的に証言しているのだから。なにしろ「臣下」は「君臣合体」の「道理」を守るため、無能な「王」(神の血を引く者)を取り替えることさえしてよいのである。ブーランヴィリエが教えているのも、近代的自由は王権に抗する封建貴族の自由からはじまったという逆説である。これはまた、アルチュセールのモンテスキューが証言したことでもあった。
この記事の中でご紹介した本
乱世の政治論愚管抄を読む/平凡社
乱世の政治論愚管抄を読む
著 者:長崎 浩
出版社:平凡社
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