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更新日:2017年10月24日 / 新聞掲載日:2017年10月20日(第3211号)

上野公園憲法発布祝賀会の大乱闘

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写真の右は警官と群集と入り乱れて旗の奪い合いをなしつつあるところ、左上は負傷警官引揚の有様で頬に血痕あるは長谷警視。其の後ろ一條の鮮血に顔面を染めつつあるは三原署長、其の下は会場演説中の光景である。(「歴史写真」大正7年3月号)

いま、政治が混乱している。安倍首相の「いきなり解散」で、小池百合子都知事が前原誠司民進党代表と合意して「希望の党」をつくって代表になったが、両党は合流ではなく、そこから枝野幸男代表の立憲民主党ができた。有権者にとっては、わかりにくい構図になっている。

ここに取り上げたのは、『歴史写真』大正七(一九一八)年三月号に掲載された、百年前の現場写真三枚だ。 

大正七(一九一八)年二月十一日の紀元節に、東京上野で開かれた「憲法発布三十年記念祝賀国民大会」の一場面。大正デモクラシーというが、時の寺内正毅首相は憲法にも政党にも距離を置く「超然内閣」と呼ばれ、別名「ビリケン内閣」とあだ名された。寺内の頭がビリケン人形に似て尖っていたことから「非立憲(ビリケン)内閣」と呼んだのだった。

この「祝賀会」は、「実は寺内内閣に対する面当」(『東京朝日新聞』同年二月十二日付け)で、「今日程非立憲の甚だしきを見たることなし」などとチラシに刷られ、式場内外には「恨憲政弱点」などと大書されたノボリが林立した。

祝賀会は憲政会代議士たちを中心に開催された。憲政会は前の大隈重信内閣の与党で、寺内内閣でも当初は与党だったが、首相は総選挙を実施して、「不自然なる多数党」を打破するために選挙干渉をして原敬率いる政友会を勝たせ、犬養毅の国民党も応援した。寺内は長州出身の陸軍軍人で、朝鮮総督から横すべりで首相になって、政界の混乱をおさめるどころかさらなる工作で拍車をかけた。国民生活はあとまわしである。

世界は第一次大戦中、ロシア革命が起きて社会不安は高まっていた。

そして、米価の暴騰が続いて民衆が爆発、この年七月に富山県魚津町から始まった「米騒動」だ。またたくうちに全国に広がる暴動に、政府の対策は追いつかない。そして、騒動が広がるのは新聞が誇大な報道をするからだと、露骨な言論弾圧をはじめた。

その裏で、同年八月に寺内内閣は「シベリア出兵」を宣言し、軍事的な支配権を拡大しようと、革命で内戦状態になった地に七万二千人もの兵力を送る。

米騒動の広がりで、寺内首相の専制政治はさらに世論の激しい攻撃を受けて、同年九月二十一日に寺内は退陣する。後継に選ばれたのが政友会の原敬党首だ。盛岡出身で明治維新に功績があった薩長閥ではない、爵位を持たない初の「平民宰相」であり、政党党首の資格で首相に任命された初の政党政治が実現したことになる。

さて、写真の現場に戻ろう。

祝賀会とはいえ「非立憲首相」反対をこめた演説会だから、主催者側も警察との衝突は予期していた。

警察も上野署長みずからが会場に乗り込んで、参加者たちが閉会後に二重橋までデモ行進することを直ちに不許可としたが、会場では爆竹を鳴らし、およそ三百名が皇居へ向かおうとして、警官隊と激しく衝突した。

左上の写真中央で右手を胸にしているのが、三原上野署長だと説明にある。顔から血を流しているようだ。

これは、大正七年という日本中が「民の怒り」に揺れる年の幕開けとなった流血事件の記録だ。立憲体制に背を向けて、弾圧によって国民の不安を鎮めようとした首相の愚策の一端を伝える「歴史の証人」でもある。
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